失われた記憶/埋め込まれた記憶 《小谷元彦展 レビュー》
例えば、戦争や交通事故などで右手を失った人が、切断された右手が存在するかのように感じたり、そこに痛みを感じたりする現象をファントム・リム(幻肢/幻影肢)という。小谷いわく、人々は“自分が絶対に認めたくない自分”つまり“自己の内なる他者”を、自身の記憶から“切断”することで心身の安定を保っている。だがそのような切断されたはずの他者が不意に意識に蘇ってくることがある。そして人はそこに、鋭い“痛み”を感じる。このような“痛み”として知覚される自己の内なる他者=ファントム(亡霊)を、鑑賞者の心身にまざまざと呼び覚ますこと。これが小谷の彫刻制作の中心的なモチーフとなる。脳のコンピュータ化、身体の機械化、あるいは権力の不可視化、価値の相対化。自分自身の心身が、自身の統御からますます乖離してゆく現代にあって、時に痛みとして、時に異物として、時に快として現れてくるファントム・リムは、どのようにして治療されるべきなのか。それともそれは治癒されえぬものなのか。あるいはそれは、そもそも治癒されるべきものなのか——。
《ファントム・リム》。白いワンピースをまとって横たわる少女の写真。少女の手のひらを、握りつぶされたラズベリーが真っ赤に染め上げている。小谷いわく、子供は何でも手に触って確かめてみる、だが大人はなるべく接触を避けて対象を認識しようとする。子供の頃に手のひらで感じた対象の生々しい感覚、そしてそれにともなう快感。このような忘れられてしまった生々しい感触を鑑賞者の手のひらのなかにファントム・リムとして蘇らせること。これがこの作品の主題となる。
少女の姿は、十字架にかけられたキリストの姿を彷彿とさせる。手のひらを染め上げる赤。広げられた両腕。膝を軽く曲げてクロスする両足。仰ぎ見るようなカメラのアングル。人々の記憶の底には、全人類の罪を一身に引き受けて磔刑に処されたキリストの、手のひらを貫く痛みが鋭く横たわっている。少女の、キリストの聖痕を思わせる赤は、あらゆる物を手のなかで無邪気にもてあそぶことがもたらす快楽に対する禁止の烙印でもある。幼児期の快楽は、罪として、記憶の底に葬り去られるのだ。カメラは、横たわる少女に、上から覆いかぶさるようなアングルを示す。少女は顔をそむけ、軽く目を閉じる。力なく両手を広げ、両足の緊張を緩める。少女は、拒みながらも、ゆっくりとその身体を、他者の視線に向けて開いてゆくかのようだ。少女はすべての男性の罪を引き受けるかのように静かに目を閉じる。少女の手のひらを染め上げる赤は、少女性を否定する赤でもある。
少女はまさしくファントムのように茫洋と漂う。少女の身体からは、重力を感じさせるものが極力排除されている。横たわる姿が、垂直に展示されることで、少女の身体を貫く重力は無効化される。少女の影と背景は消去され、その黒髪は、風を孕むかのように広がる。少女は、あたかも重力から解放されて、天空に向かって昇りゆくかのように見える。また少女からは、実体性が慎重に排除されてもいる。少女の胴体を包み込むワンピースは背景とおなじ白色で、少女は、四肢だけの存在となって光の中に浮かび上がるかのようだ。少女の視線はカメラから反らされ、少女の世界と鑑賞者の世界との交通は遮断される。ほぼ同じ写真が5枚並列されることで、少女はオリジナルとしての実体性を失う。すべての少女が、隣の少女のコピーとなることで、オリジナルのもつ存在の重さから解放されるのだ。少女は、記憶の中だけに存在する子供ように実体感を失って漂う。夢と現実のあいだを自由に行き交う少女。手のひらを染め上げる生々しいラズベリーの赤だけが、現実世界に打ち込まれた痕跡として、見るものの手のひらに鋭い痛みを呼び起こす。中央に展示された写真のなかでふいに少女の視線と出会うとき、鑑賞者の身体は、まさにその場に磔にされたかのように動けなくなる。
《エレクトロ(バンビ)》。足に、歩行のための補助器具が取り付けられた子鹿の剥製。容易に立つこともできない生まれたての子鹿。そのいたいけな歩みを補助するために取り付けられた器具。子鹿はそのお蔭で、独りで立ち上がり、独りで歩くことができる。だがその姿はどこか、幼きバレリーナのような痛々しさを感じさせる。補助するための器具が、かえって子鹿の足取りを拘束しているかのように見えるからだ。助けるはずのものが、その自由を制限する。か細い足を賢明に踏ん張って“危うげに”立ち上がる子鹿と、補助器具を付けられて“立派に”立ち上がる子鹿と、そのどちらが真の意味で“自由”なのだろうか。そのどちらが“美しい”のだろうか。前方に向けられた子鹿の頭は、ほんの少し後ろを振り返っているようにも見える。このささやかな仕草のうちに、その答えがあるのかも知れない。
このような<拘束と美>あるいは<痛みと美>という主題が、小谷の作品を貫いている。小谷は一時期、超絶技巧によるクラシック演奏を聴き込んだ。そこで実現される美は、訓練によって演奏者の身体を局限まで規律化することによって初めて可能になる。美は、自由な身体を拘束することで、いわば身体を奇形化/機械化することで初めて実現される。そのときヴァイオリン奏者の腕はヴァイオリンと一体化し《フィンガー・シュパンナー》、回転するバレリーナは、もはや自分で回転しているのか、外から回転させられているのか解らなくなる。死を運命づけられた回転運動《ダイイング・スレイブ:スピニング》。そして白百合は、理想的な開花の姿を維持するために背後からピアノ線で引き固められ、生殖器を剥き出しのまま放置される《ソランジェ》。罪を犯した女性は、裸体のまま、あまりにも美しい巨大な拷問器具に固定され、冷たい海面を漂う《ラッフル》。拘束される身体、拷問される身体。そこに現れてくる美。小谷いわく、拷問器具とは、人間を痛めつけるために「知恵を振り絞って創作された狂気の形」。それが美しいのは「本能」が突出しすぎたからではなく「知性」が突出しすぎたから。狂気とは、動物的な本能の解放ではなく、人間的な知性の徹底なのだ。美の狂気。あるいは美の奇形性。抑圧され奇形化された身体は、自身のコントロールを超えてファントムのように漂う。その途方もない美しさ、そしてその痛み。そこに現れる痛みとは、美の結果なのか、それとも美の原因なのか。
《ドロズ・ロウ》。動物の牙によって覆い尽くされた拳銃。表題にある「ドロの法則」とは進化の不可逆性のこと。動物の武器である牙は、人間の武器である拳銃へと進化した。ドロウの法則によればその進化が逆戻りすることはありえない。だが拳銃の銃身には、牙の記憶が深く埋め込まれている。その抑圧された記憶が一斉に噴出した姿こそ、牙で覆い尽くされた拳銃の姿に他ならない。また小谷は、二頭のオオカミの剥製から見事なドレスを作り上げる。寒さから人間を守る衣服とは、寒さからオオカミを守る毛皮の進化した形態なのだ。ドレスのざらついた内皮が、それをまとう人間の素肌と触れ合うとき、そこに、進化の過程で抑圧された動物的な身体の記憶が生々しく蘇ってくる《ヒューマンレッスン》。
小谷いわく、彫刻は素材を二度殺す。伐採によって殺された木を、そのアニミズム的な象徴性や霊性を否定することでふたたび殺すこと。動物を殺して剥製にし、さらにそれを単なる即物的な材料として扱うことでふたたび殺すこと。彫刻を作ることとは、その素材のもっていた記憶を去勢/抑圧することなのだ。だが素材の象徴性は、殺されてもなお、ふたたびゾンビのように蘇ってくる。むしろそれは、殺されたからこそ、蘇ってくるともいえる。《ドロズ・ロウ》がまとう異様なまでの動物の怨念、あるいはそこに感じられる“暗い力”は、牙が徹底して無機質な装飾物として扱われているからこそ実現されうるものなのだ。また、《ヒューマンレッスン》における二頭のオオカミの剥製から作られたドレスも、オオカミの剥製を単なる布や糸のような材料と同等に、単にそれが綺麗だという理由からだけで用いられているからこそ、かえって、人間の狂気や暴力性、さらにはオオカミの怨念や記憶をドレスの周囲にまとわせることが可能になるのだ。
あるいは小谷は、彫刻というメディアそのものを殺す。そして殺すことで彫刻を蘇らせる、あるいは彫刻がどこまでも不死身であることを露呈させる。近代彫刻とは、西洋からの輸入品であり、そこで重んじられるモチーフも制度として確立されている。例えば“騎馬像”という伝統的なモチーフがある。小谷は、まさしく“騎馬像”の制度としての仮面を剥ぐかのような手つきで、騎馬像を構成する馬と人物の皮を剥ぎ、骨と肉だけの醜い姿を衆目に曝す。それによって小谷は、騎馬像という伝統的なモチーフを、さらには近代彫刻という制度そのものを殺害しようとする。だが彼の作る騎馬像は、おどろくほどの美しさと力強さをそなえた“彫刻として”見るものを圧倒する。騎馬像(という制度)は、殺されてもなお、まさしくゾンビのように暴力的に蘇ってくるのだ。むしろ彫刻は、殺されるからこそ、さらなる力強さをもって再生してくる。彫刻は死なない。彫刻はどこまでも《全ての人の脳内で徘徊するもの》、ファントムなのだ。
あるいは彫刻は、運動性をもたない。彫刻はメディアとして遅い。それを否定するために小谷は、動物の骨の一部(フェイク)を、動物の動きにあわせて、連続写真のように繋ぎ合わせ、動物の流れるような運動を再現する。たしかにそこでは、残像の積み重ねによって、従来の彫刻では捉えきれなかった軽やかで連続的な運動が再現されている。だが、彫刻の遅さを否定する、あるいは彫刻を殺すことを目的として作られたこれらの作品は、どれも、“彫刻として”美しい。それらはどこまでも“彫刻的な”フォルムとして完成されているのだ。彫刻を殺す彫刻もまた、彫刻的なフォルムをまとわざるをえない。彫刻を殺す手に、彫刻の亡霊(ファントム)が宿る。彫刻の殺害は、眠っていた彫刻の亡霊を呼び覚ます。彫刻は、殺されることで、新たに生まれ変わるのだ《ニューボーン》。
人間の精神や感覚の統一性は、通常思われている以上に不安定なものだ。そこには常に、統合されえない何らかの余剰が存在している。普段それは、意識や身体の内奥に抑圧されている。だがそれがふとした折りに、心身の統一を揺るがすことがある。心と体が、あるいは心そのものが、幾つもの存在に分裂しようとすることがある。それを引き起こすのは、少女の手のひらを染め上げるラズベリーの赤であるかもしれないし、オオカミの剥製を素肌にまとった時の、凶暴なざらついた肌触りであるかもしれない。そのとき、精神と身体は乖離を起こし、ひとは自らの内部で、内なる他者、ファントムを目覚めさせる。ファントムとは人間の統一性を脅かす亡霊なのだ。ならばファントムは排除されねばならないのか。ファントムは除霊されねばならないのか。それともファントムとは、そもそも悪なのか——。
ファントム・リムの治療には「鏡の箱」が用いられるという。患者は、鏡に映る左手を見て、失われた右手の感覚を安定化させることができるようになる。小谷の彫刻は、まさにこのような「鏡」として鑑賞者たちのファントム・リムを映し出す。だがそれは、ファントム・リムを可視化することによって、それを安定化/治癒することを目指すものではない。むしろそれは、鑑賞者の身体にファントム・リムを呼び覚まし、リアル・リムの安定性に動揺を与えることを目指す。人間の感覚の安定性が、あるものの抑圧のもとで、辛うじて成り立っていること。そしてそのような安定性は、単に硬直した安定性、脆弱な安定性に他ならぬこと。むしろそのような感覚の不安定さそのものに対する感性を養い、その不安定さに身を開くことで、感性的な記憶の孕む豊かさを、そしてその危うさを取り戻すこと。小谷の彫刻は、ファントム・リムこそリアル・リムなのだということを、見るものにあらためて気づかせてくれる。
text:桑原俊介
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