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理性と反理性? ユダヤ人のウィーン《ルーシー・リー展 レビュー》

2010 年 12 月 28 日 2,263 views No Comment

世紀末から20世紀初頭にかけてのウィーンは、かつて類を見ないほど都市文化が爛熟した時期だった。この時代の著名な芸術家や思想家の多くが、この都市と密接に関わっていたことには少し驚かされるものがある。少し例を挙げてみるならば、音楽ではシェーンベルクやマーラー、哲学ではヴィトゲンシュタイン、作家のシュテファン・ツヴァイク、精神分析の始祖であるフロイト――彼らの名前は誰しも一度は耳にしたことがあるだろう。彼らはみな、ウィーンと深く関わりのある人々であると同時に、この時代を代表する人物だった。そして上に挙げた例がみなそうであるように、当時の文化を支えた多くの人々は、ユダヤ人だったのである。


もちろん当時のウィーンで、非ユダヤ人が全く活躍していなかったわけではない。アドルフ・ロースのような例を挙げるまでもなく、ドイツ人にも優れた芸術家や思想家は存在していた。しかしこの時代、文化の中枢を担っていたのは、とりわけユダヤ人だったのである。それには様々な理由があるが、そのひとつには法律によって宮廷文化から排除されていたユダヤ人たちが、学問や芸術の分野に活躍の場を見出したことが挙げられるだろう。またモッセが指摘するように、混迷する社会の中、ユダヤ人たちが啓蒙時代から続く「教養(Bildung)」の理念に身を閉ざしていったことが、彼らに文化の守護者という地位を与えたのかもしれない。その後の歴史を知るものには意外に思えるかもしれないが、当時のウィーンはユダヤ人に対して歴史上もっとも寛大な都市でもあったのである。


前置きが少し長くなったが、本展の主人公であるルーシー・リーもまた、ウィーンで生まれ育った同化ユダヤ人である。彼女は1902年に、裕福な医師の家庭で産まれ、ウィーン工業美術学校で陶芸を学ぶこととなった。1938年にナチスの迫害から逃れるために、ロンドンへと渡るが、彼女の文化的な土壌はウィーンにあったといっても過言ではないだろう。そこで彼女は当時の例にもれず、ユダヤ人のコミュニティ内で物理学者や芸術家など、様々な人々と交流していたようである。有名なところではフロイト一家とも交流があり、彼の息子である建築家のエルンスト・フロイトとは亡命以後も親交があったという。


もっとも、彼女の幅広い創作を、ユダヤ人という枠組みに閉じ込めてしまうことは、あまりにも一面的で、危険なことかもしれない。ルーシー・リーは36歳でウィーンから逃れているし、彼女の創作が円熟期を迎えるのはそれよりも後のことだ。また彼女の作品はどの時代にあっても多種様々であって、ひとつの地点に完全に落ち着くことはないように見える。しかしそれでも、彼女の作品の中には確かに、当時のユダヤ人の多くに見られる、一種のアナロジーのようなものが感じられるのである(それは「ユダヤ性」といったような宗教的概念とは全く違うのだが)。そしてそれこそが、彼女の作品を支える輝かしい特質のようにさえ、ぼくには思われるのである。


例えば1968年の作品である《熔岩釉鉢》を見てみよう。薄く作られた抹茶色の幅の広い器には、釉薬が発砲したようにも見える無数の細かな穴があいている。器のフォルムそのものは、端正であると同時に繊細で知的な印象を見る者に与える。その一方、その名のとおり熔岩のような細かい無数の穴は、どこか土俗的で神秘的なおもむきがある。この作品の中では、二つの相反する特徴が同時に存在し、そして高い次元で統合されているのである。


この作品に限らず、それと同じ傾向は、彼女の作品全般にわたって、観察することができるように思われる。例えば《茶釉線文鉢》、均整のとれたモダンなフォルムの器でありながら、そこに手書きで刻まれた線には、どこかアルカイックな雰囲気が感じられるし、《白釉鉢》では、薄い純白の輪郭が、奇妙な曲線を描く様には、理性的な面と感性的な面とが入り混じっているように思える。知性と神秘・理性と感性――このように相反する側面を統合するような造形感覚は、まさに彼女の得意とするところだったと言ってよいかもしれない。


そしてそのような二面性は、当時のユダヤ人の思想家や芸術家の多くが共有していたものでもあった。例えばフロイトの業績は、まさに夢や深層心理のような神秘的な人間の側面を、理知的に把握しようとする試みであったと言えるだろうし、哲学者であるカッシーラの仕事もまた、人間の不合理な活動を合理的文化批評の中に閉じ込めることにあった。さらには時に数学的と言われる12音音楽の創始者であるシェーンベルクが、占星術や数秘術に並みならぬ関心を寄せていたことも興味深い。実際に彼の音楽思想には、理知的な側面と非理性的な側面が常に入り混じっているのである。


このような文化的志向と、ルーシー・リーの創作とを結びつけることに、どれほど妥当性があるのかは分からない。しかしウィーンの中で、彼女がそういった文化と接しながら成長したことは間違いないことである。それゆえ、彼女が接した思想や文化が、彼女の作品に影響を与えていたとしても、それは決して不思議なことではないだろう。実際に、ウィーンという都市は当時、かつて他に類を見ないほどの、濃密な文化的空間と、それを伝達する社会を形成していたのである。


現代からすれば、20世紀は、かつて人間の生活の一部であった神秘や幻想を、科学が蹂躙していく時代である。今となっては、もはや誰も神話の中に現実性を見ることはないだろうし、かつて我々の認識にとって欠かせないものであった哲学は、科学にその座を譲り渡したと言われる始末である。いまや科学は、他の分野を差し置き、人間の叡智を代表する存在となっている感じすらある。


しかし20世紀の初めには、まだ科学は幻想に完全にとって代わってはいなかった。当時のウィーンは科学技術の最先端の都市でもあったが、衰退した正統的宗教にかわって流行した神秘思想やオカルティズムは根強く社会に息づいていた。19世紀と20世紀の芸術作品は、とりわけこの神秘思想の影響を受けているものが多い。多くの知識人の間で、神秘思想は決して、時代遅れの迷信として扱われていたわけではないのである。


世紀末から20世紀初頭にかけて爛熟したウィーンの文化は、合理性と神秘性とが入り混じって形成されたものだったと仮定してみる。人々は神秘の中に合理性を見出そうとし、また合理性の中に神秘を見出そうとしたのである。それは科学と神秘とが、ひとつの都市の中に共存していた最初で最後の時代であったのかもしれない。そして芸術家や哲学者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、その両者をより高い次元で統合しようと試みたのかもしれない。そのような文脈でルーシー・リーを捉えるならば、彼女の作品の持つ現代性の正体が、少しはっきりとしてくるように思われる。つまり、それは陶器という一つの物体の中に、この相反する二つの精神を統合した点にあるのだと。そしてそれは実用品であると同時に、美術品でもあるという、陶器というものの性質ゆえに成し遂げることのできたことなのかもしれない。


今年はルーシー・リーが亡くなって、ちょうど15年目にあたる年である。1902年に産まれた彼女は、まさに20世紀という時代を股にかけて生きた芸術家であった。彼女がその世紀をどのような思いで見つめていたのかは、今となっては分からない。少なくとも、ナチスから逃れるために生地を離れることを余儀なくされた彼女にとって、社会の情勢は決して平然と傍観していられるような他人事ではなかっただろう。けれども彼女の作品の中には、戦争の時代を経験した芸術家に多く見られるような、悲痛な痕跡が前面に現れてくることはほとんどないように思われる。彼女の作る陶器はどれも、手元に置いていたくなるような、あるいは実際に使ってみたくなるような魅力に溢れているのだ。
「今生きている芸術は常に現代的である。年をとっているか若いかは問題ではない。芸術論は私には無意味だ。美こそ大事である」
彼女のこの言葉の真意は我々には知る由もない。しかし彼女の作品の中に現れる、知性と神秘性という相反する両者の邂逅を目にするとき、彼女こそあのウィーンという都市文化の血脈を受け継ぎ、そこに美を追い求めた芸術家であったように、ぼくには思えてならない。

参考文献:
ルーシー・リー展 図録
ジョージ・L. モッセ『ユダヤ人の「ドイツ」―宗教と民族をこえて』 (講談社選書メチエ)


text:浅井佑太

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