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《東京アートミーティング トランスフォーメーション レビュー》

2010 年 11 月 29 日 3,266 views No Comment

Formという西洋語は、古代から、目に見える「形」だけでなく、事物の「本質」という意味を持ち合わせていた。神が土の塊に「形」を与えることで人間を創造したように、あらゆる事物は、物質(materia質料)に形(forma形相)が与えられることで初めて成立する。であるならば、モノの「形」が変わることは、その「本質」が変わることを意味する。トランスフォーメーション、つまり形(Form)を超える(Trans-)こととは、自らの「本質」を超えることを意味するのだ。そこで乗り超えられるのは、動物と人間、男と女、人間と機械といった異種間の差異であり、野蛮と文明、自然と社会、現実と虚構、過去と未来といった社会的/意味論的な差異でもある。トランスフォーメーション(変身・変容)は、様々な時代の人々によって様々に解釈され、様々な不安や希望を伴いながら、様々なメタファを通じて表現/表象されてゆく。トランスフォーメーションという主題そのものが様々にトランスフォームしてゆく展覧会において、見る者はその変容に身を任せるか、それともそこに、変容しない何かを見出すか。


角を曲がると、真っ白な、光あふれる実験室のような空間が現れる。中央には、透明のアクリルでできた五角形の棺のようなオブジェが置かれ、その上には、2枚のスクリーンが背中合わせに吊るされている。壁ぞいに何人もの若者が座り込み、食い入るように画面を見つめている。何かの儀式が執り行われているかのような厳粛な空気があたりを包む。画面では、何人もの貴族たちが優雅な衣装を身にまとい、豪奢をまき散らすかのようにして競馬に打ち興じている。その上を嘗めるようにしてカメラがゆったりと滑走してゆく。5台のクライスラーが、近世ヨーロッパの公開処刑を思わせる仕方で衝突し、スクラップと化す。正装した紳士に架せられた猿ぐつわが紳士の歯を粉々に打ち砕く。ラインダンサーたちが優雅に微笑む。義足の女性アスリートが罠を仕掛けるような視線で男を誘惑する——。マシュー・バーニーの描き出す映像は、交響曲の鳴り響く廃屋の中で、途方もない暴力を全身にあびて死にゆく人間が、生と死の境界をまたぐ一瞬に、不意に包み込まれる悦楽のように、見るものの意識を途方もない法悦のなかに運びさってゆく。端正な、最も野蛮からかけ離れた、紳士の白手袋に導かれるようにして。

この映像は、バーニーの代表作でもある《クレマスター1〜5》の第三部を展覧会用に再編集したもの。クレマスターとは、睾丸を包み込む網のような筋肉で、外部からの刺激に応じて睾丸を引き上げたり引き下げたりするもの。この筋肉は、胎児の性差を決定する筋肉でもある。バーニー曰く、「受胎から6週間の間、胎児には性差の印がない。幾つかの腺(=クレマスター)が、女性器あるいは男性器の形成を促して初めて性差が現れる」。この、クレマスターが性別を確定する以前の、性差が未分化な状態、いわば、男でもあり女でもある競合状態(binary conflict)こそ、バーニーの連作《クレマスター》全体を貫く主題なのだ。

展覧会で上映される《クレマスター3》は、NYグッゲンハイム美術館の螺旋のフロアを、サーモンピンクのキルトをまとうバーニーが、最下層から最上層まで這い上がってゆく上昇運動を基調とする。ここには二つのメタファが含まれている。ひとつは、先程の、性差が未分化な状態から性差が確定するまでの胎児の成長、ひとつは、フリーメイソンの入門のための儀式=試練のメタファである。

1Fではエプロン(入門者、受胎の象徴)を着けた女性が、2Fでは、十字架のパズルが(=立方体の展開図。五角形の穴=ペンタスター:メイソンの同朋原則。クライスラーのエンブレム)、3Fでは、義足の女性アスリートが(=自己の鏡像、両性具有/アンドロギュノス)バーニーを待ち受ける。受精卵でもあり、メイソンへの入門者でもあるバーニーは、これらの試練を克服することで、未成熟から成熟に向けて階梯をひとつひとつ上昇してゆく。だがその頂点において彼を待ち受けていたのは、恍惚を伴う美しい崩壊であった。バーニーにとって性差が確定すること、あるいは一人前のメンバーになることは、未決定・未成熟という状態が孕んでいた豊かな可能性の終焉を意味するからだ。

バーニーの作品は、エプロン、卵、羊、義足、歯、リボンといった、多義性や象徴性を豊かに孕むモチーフで充ち満ちており、しかもそこでは、ワセリンやシリコンといった可塑性に富んだ素材が多用される。このような、性差の競合に象徴される、あるものに確定する以前の、多義性や可塑性を豊かに孕んだ曖昧な存在のあり方そのものが、バーニーの作品の中心概念を構成している。

バーニーの描き出す通過儀礼は、あまりにも非人間的な野蛮さをもって執り行われる。文明への道は、野蛮の否定ではなく、野蛮の徹底によって切り開かれる。野蛮の底を通らぬ文明は真の文明ではない。ならば文明とは、そもそも野蛮の一種ではないのか?——


スプツニ子!は、存在そのものがハイブリッド性を帯びている。日本人の父親とイギリス人の母親(ともに数学者)を持つハーフであり、両国で教育を受け、名前もハイブリッドであり(スプツニ子!=スプートニクの英語発音+カタカナ表記+子+!+尾崎ヒロミ)、さらに、学問と芸術、男と女、現実と虚構、人間と動物といった、多重領域、異種間の混淆を生々しく生きている。

《生理マシーン、タカシの場合。》は、「オンナノコになりたい、オンナノコの気持ちをもっと知りたいーー!!」という想いから女装を始めるようになった「不思議少年<タカシ>」が、女装だけでは空き足らず「女性特有の生物現象である<月経/Menstration>」を体験するための<生理マシーン>=「女性の平均月経量である80mlを5日間かけてタンクから流血させ、下腹部についた電極が装着者に鈍痛を体感させるマシーン」を装着し、夜の街へ繰り出すというミュージックビデオ。そこには、男と女という異性間のハイブリッドが、しかも、スプツニ子!という<女性が女性に憧れる男性を演じる>という倒錯的なハイブリッドがある。またそこには、身体と機械とのハイブリッド(サイボーグ)、さらには、少女と大人、禁忌と侵犯といった様々な社会学的・意味論的ハイブリッドがある。

そもそもサイボーグとは、人間を人間の弱さから解放するという夢の投影であったはずだ。またそれは、スプツニ子!にとっても、女性を女性の弱さから解放する夢の投影であったはずだ(スプツニ子!は、「サイボーグ・フェミニズム」の著者ダナ・ハラウェイから強い影響を受けている)。サイボーグに性差はない。サイボーグに女性の弱さはない。だがスプツニ子!のサイボーグは、逆に、人間になろう、女性になろう、女性であることを確認しようとする。スプツニ子!は、脱人間化されたサイボーグが再び人間になることに憧れるという皮肉な逆説を生きている。

だがそれはひるがえって、西洋近代の成熟信仰に対する鋭い批判として機能する。つまりそれは、西洋近代が声高に主張する、社会の成熟への信仰の背後に、社会の成熟=男性化というエディプス・モデルがあることを暴き出す。社会が男性的な秩序によって構成されている限り、女性の社会進出は、女性を男性化すること、あるいは女性の女性性を否定すること以外の何ものでもない。女性が社会化されることは、かえって、男性中心主義的な社会構成を肯定/強化することに繋がるだけだ。サイボーグを身にまとった女性は、社会の中で、ふたたび女性となることに憧れる。重要なのは、男性中心主義的な社会の構成そのものを批判すること。<女性になることに憧れる男性を女性自身が演じる>というスプツニ子!の倒錯的な夢は、西洋近代の成熟信仰が孕む自己矛盾をあられもなく露出させることでその自己崩壊を促すという脱構築的な戦略を貫いている。

ただし、タカシを演じるスプツニ子!をとらえた写真には、いっさいのリアリティがない。彼女の身体からは、人間的な要素が注意深く排除されている。肌はマネキンのよう。髪はグラスファイバーのよう。経血すら、あからさまにインクであることがわかるような色彩をしている。スプツニ子!は、社会批判とは無縁であるかのようなクールな立ち姿でフレームに収まっている。現実から孤絶した虚構空間の中で、スプツニ子!は、ナルシスティックな夢と無邪気に戯れているように見える。だがその姿は、かえって、通常のリアリズムとは異なる強烈なリアリティをもって見る者に迫ってくる。いわばそれは、虚構が虚構であるからこそ獲得するリアリティを持つ。現実を現実的に描くことだけがリアリティではない。虚構を虚構として描くところにもリアリティは生じる。むしろ、現実との接続を断ってこそ保たれるリアリティがあるのだ。何が現実なの? 現実とは虚構の一バージョンではないの? 現実は虚構から構成されているのではないの? スプツニ子!は、このような極めて現実的な問いを、徹底的に虚構的に振る舞うことを通じて、現実的に問うている。

スプツニ子!は、自身の作品を、大学院時代の師でもあるアンソニー・ダン(Anthony Dunne)によるクリティカル・デザイン・プロジェクトの一環として位置づける。クリティカル・デザインとは、既存の(未来の)技術が社会・文化・環境に与える(であろう)問題について人々に議論を促す挑発的なデザインのこと。スプツニ子!はそれを学術的に(cf.《Open-Sailing》)そして芸術的に実践する。彼女は自身のプログラムを《ドラディカル・デザイン(=ドラえもん+デザイン)》と名付ける。曰く、《ドラえもん》とは、便利な道具がのび太を助けると同時に、それが別の文脈で引き起こす問題を通じてのび太を苦しめるというストーリーを基調とするもの。《ドラえもん》とは、道具=技術の問題性、さらにはそれが引き起こす社会的・倫理的な問題を鮮やかに描き出す物語なのだ。とりわけスプツニ子!は、それを、異種間の結合という形で試みる。彼女は好んで合成語を用いるが(カラスボット(カラス+ロボット:Crowbot = Crow + Robot)、寿司ボーグ(寿司+サイボーグ)、ドラディカル・デザイン(ドラえもん+クリティカル・デザイン)、スプツニ子!(スプートニク+子)など、これは、存在の秩序とは、結局のところ名前による秩序なのだということを雄弁に物語る。スプツニ子!は、異なる名前によって分節化された存在を唐突に接ぎ木することで、名前による存在の秩序を撹乱する、あるいはその問い直しを図る。
 そしてスプツニ子!は、回転寿司に刃をつけてサラリーマンたちを殺戮する《寿司ボーグ☆ユカリ》。そしてスプツニ子!は、カラスボットを肩にのせ、カラスとの会話を図り、それに見事に成功する《カラスボット☆ジェニー》。スプツニ子!は、果たして、世界にスプツニ子・ショック(Sputniko! Crisis)を引き起こすことができるのか。


その他にも本展覧会では、多種多様なトランスフォーメーションが呈示される。インドやパキスタンなど、非西洋世界に生きる作家たちは、前近代的な社会が近代化=西洋化という成熟を目指して「変身」してゆくのにともなう不安や恐怖を、西洋と東洋との接ぎ木によるハイブリッドとして描き出す。人々の身体は機械と結合され、東洋の神話は西洋の悪魔の前に瓦解し、変身の不安はコウモリのような小さな闇の群れとなって生活全体を覆い尽くしてゆく。アラビア文字は、西洋的な概念によって置き換えられ、実質を失い、記号として影のように浮遊する。成熟(西洋化)とは、言語の獲得(輸入)でもあるからだ(シカンダー、ケール)。そして子供たちは、自分の身体の「成長=変身」に伴う不安を、自分の内部に生じた異物/怪物として描き出す(小谷元彦)。あまりにも熾烈なロシア社会の「激動=変身」に伴う不安を受け止めるには、それをゲームやフィクションといった自身の慣れ親しんだ虚構形式に落とし込んで(変容して)捉えるしかない(AES+F)。

トランスフォーメーションとは、子供から大人への成長のメタファであり、前近代から近代への移行のメタファ、動物から人間への、さらには人間からポスト・ヒューマンへの進化のメタファでもある。そのどれもが、不安や恐怖、あるいは希望や夢を伴う現象だ。人々は古来より、これらの不安や夢を、様々なメタファを用いて表象=了解してきた。本展覧会に展示されたすべての作品も、現代世界の様々な場面で生起している、様々な「変身」に伴う心理の貴重なドキュメントなのだ。ともあれ、人類は本当に、このようにして野蛮から文明へと成熟してきたのだろうか。そもそも成熟することは必要なのだろうか。むしろ、成熟信仰に追い立れられるかのようにして、自身の身体から野蛮な要素を何としてでも排除しようとして繰り返されてきた人類の強迫的な仕草のうちにこそ、僕らは人類の野蛮さを見るべきではないか。

text:桑原俊介

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