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『リアリズム』という名の芸術《オットー・ディックスの版画 レビュー》

2010 年 11 月 29 日 3,766 views No Comment

本サイトを訪れる方々、このレビューを読んでいる方々はきっと、美術や芸術が好きで、自分とは違ったモノの見方や考え方に対して、批判的な姿勢は持ちながらも柔軟に興味を持つような方々が多いのではないだろうか。そういう美術や芸術への思いに支えられているからこそ、筆者は足りない頭をひねりながら、できるだけ多くの人に伝わるようにしようと心掛けながらも、自分の思ったことをそのまま主観的に述べることができている。もしかすると、今述べたことは美術や芸術が持つ本質の一つかもしれない。しかし、魔術的レアリスムとも称されるオットー・ディックスの作品には、決して主観では語ることのできない「現実」がある。そんな、ディックスの作品の性格をよく示しているのが、「物事には一切のコメントは不要だ。私にとっては、その物と向き合うことの方が、それについて語るよりよほど重要だ。私は視覚の人間であって、哲学者ではない。だから私の絵画では、なにが現実で、なにが真実として語られるべきかを示し続ける。」というディックス自身の言葉である。主観的な意見を交えることなくディックスの作品について述べる術など筆者にはないが、ディックスの作品についてできる限り丁寧に記述していくことで、いわゆる美術や芸術とは少し異なった側面を持つディックスの作品の性格について考えてみたい。


会場に入ると大抵の人は《大通り》と《マッチ売りの男》を目にすることであろう。《大通り》では両脚を失った男が大通りに座り込み小銭の施しを受けている。男の周りには人々の上半身や下半身、腕先などが、適切な表現ではないかもしれないがキュビズム的に配置され、大通りの喧騒と男に対する人々の傍観とを暗示しているかのようである。また《マッチ売りの男》でも画面の中心に、両腕を失った盲目の男が描かれている。男はマッチを売っているが、通りを行き交う人々は男に見向きもせず、まるで男から逃げていくかのようである。図録の解説にある通り《マッチ売りの男》では、傷痍軍人の悲惨さと共に、彼から目を背ける人々の「最悪だった時代を忘れたい」という思いが伝わってくる。しかし、両作品を目にして感じるのは、画面の中央に描かれた男を取り巻く悲惨な「現実」であり、悲惨な「現実」に対して逃げることしかできない社会の「現実」である。


いささか重いテーマの《大通り》や《マッチ売りの男》に対して、《ビリヤードをする人々》では、皮肉のこもった「現実」の滑稽さが見事に描き出されている。五人の男達は整った服装でビリヤードに興じている。ビリヤード台の横にあるテーブルの上には五人分のビールジョッキが置かれており、服装と共に男達が比較的高い身分にあることを感じさせる。一方で、似たような服を着て同じ飲み物を注文し、同じビリヤードという遊びをしているにも関わらず、男達の行動はてんでバラバラである。今まさにキューで玉を突こうとしている男の方に目を向ける人物は一人もいない。マッチ売りの男を無視して去っていく人々と、ナルシシズムとエゴイズムとを兼ね備えたビリヤードをする人々との間には大きな差があるように感じられるが、対象を「現実」として表現するディックスの姿勢に違いはない。ディックスは鑑賞者がマッチ売りの男に同情するように描いている訳でもなく、ビリヤードをする人々に嫌悪感を抱くように描いている訳でもない。人々の心の内がどうあれ、人々がマッチ売りの男を無視しているのは事実であるし、自らが手に入れた身分やお金でビリヤードする人々は悪いことをしている訳ではないのである。それでも尚私達が、両者の間に違いを感じ取ってしまうのは、もう一つの「現実」、すなわち、各人物の関係性によって副次的に生み出される場の雰囲気という「現実」のためかもしれない。自分のやりたいことをやって思う存分楽しんでいる人達を見ても悪い気はしないのに、ナルシシズムとエゴイズムのためだけの無目的な行動に終始しているビリヤードをする人々には嫌悪感を持ってしまうというのは筆者だけであろうか。


《カフェの老女》、《猛獣使い》のように、画面内に人物が一人しか描かれていない作品や、《横向きの自画像》をはじめとした肖像画群にも「現実」を直視するディックスの姿勢がよく表れている。《カフェの老女》では、顔中皴だらけの老女が着飾ってカフェでカップを手にしているところが描かれている。画面内には老女が一人描かれているだけであるが、周りの目を気にすることなく自分勝手に着飾る老女の内面的な醜さと、皴や乱れた髪形や帽子やハンドバックの不調和が生み出す外面的な醜さとは、見事に均衡が保たれている。そして誤解を恐れずに言うと、老女の醜さは一個人のものではなく、社会の醜さとして存在しているかのようである。つまり、老女を醜くしているのは彼女自身ではなく、社会がそうさせているのである。

人によっては偽善的あるいは独り善がりと受け取るかもしれないディックスの作品において、《横向きの自画像》は非常に重要な位置を占めている。絵の中のディックスは白いシャツにタイトなジャケットを着ており、髪はオールバックで、いかにも知的な紳士的な表情である。自らが比較的恵まれた身分であることを隠すことなく、また比較的顔立ちの良い自らを謙遜して表現することもなく、ディックスは自分自身を絵の中の誰にも増して見たままの姿で描いている。絵画と写真とを一様に扱うことはできないが、会場にあるディックスの写真と《横向きの自画像》とを見比べれば、ディックスの作品が「現実」をいかに的確に描き出しているか理解されることであろう。


銅版画の連作《戦争》は本展覧会の最も重要な見所である。図録によると《戦争》は、第一次大戦後6年が経過した1924年に、戦争の記憶を払拭することのできないディックスが、戦争の悪夢から逃れるために制作した作品である。「戦争」をテーマにしている作品を美しいと評価するのは間違っているかもしれないが、図録の解説にあるように、彼の卓越したアクアチント(※版画の凹版技法のひとつ)の技術は、醜悪な戦争の場面を表現した作品を芸術的な域にまで高めている。しかし、《戦争》においても画面を支配しているのは「現実」である。そして、《戦争》における「現実」はこれまでの作品が描き出していた「現実」とは次元の異なる「現実」である。殺された兵士も、死体を盾にして戦う兵士も、犠牲になった市民も、またこの作品を見ている鑑賞者も、《戦争》という作品の前では皆同じ被害者として存在することになる。第一次大戦どころか戦争というモノ自体を体験したことのない筆者であっても、《戦争》という作品を前にして、単にグロテスクという言葉だけでは片付けられない戦争というモノの苦痛を感じた。《戦争》という作品の前では鑑賞者こそが、まさに「現実」なのである。


美術や芸術には「虚構」という言葉が常に付き纏ってくるが、ディックスの作品を形作っているのは「虚構」ではなく「現実」である。図録によると、「ベルリン新聞」は版画の連作《戦争》について、「これらの絵画の前で、心の底から反戦を誓わないものは、もう人間とは呼べない。」と評したそうである。その後のドイツが再び悲惨な戦争へと突き進んでいくことは言うまでもない。美術や芸術が悲惨な「現実」の前では何の役にも立たないように、「現実」を目の前にした人間もまた何もできないのであろうか。「きっとそんなことはない!」と、ディックスの《戦争》という作品は私達に訴えかけているように思えてならない。

参考文献:展覧会図録(日本語版冊子)『オットー・ディックスの版画 戦争と狂乱―1920年代のドイツ』 伊丹市美術館、2010年

text:吉田卓爾

「オットー・ディックスの版画  戦争と狂乱 − 1920年代のドイツ」の展覧会情報はコチラ

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