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やなぎみわさんインタビュー《もっと知りたい!展覧会》

2010 年 10 月 28 日 4,195 views One Comment

主に女性をモデルとし、特殊メイクやセットをもちいた物語性の強い作品において「現実と虚構」、「若さと老い」、「美しさと醜さ」、「善と悪」など、あらゆる二元的価値を混交・倒錯させ、人間の生そのものについての探求をおこなってきた美術作家・やなぎみわさん。

ときに清々しく、ときにグロテスクだが、常にしなやかな美的感覚に裏打ちされた独特の世界観は国内外で高い評価を受け、昨年のヴェネチア・ビエンナーレでは、日本館代表として出展し、多くの反響を呼んだ。
2010年10月30日(土)より始まる舞台芸術の祭典「フェスティバル /トーキョー 10」で、『カフェ・ロッテンマイヤー』というカフェのプロデュースと演劇を手がけることとなったやなぎさんに、まさにその準備真っ最中のスタジオにてお話を伺った。

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《カフェ・ロッテンマイヤー》


今月末から始まる「フェスティバル /トーキョー」でオープン予定の《カフェ・ロッテンマイヤー》とは、どのような企画なのでしょうか。

「フェスティバル/トーキョー」(以下F/T)は、以前の東京国際演劇祭が前身となっていて、国際的でコンテンポラリーな演劇のフェスティバルです。私がいま取り組んでいるのは、劇場で上演するような演劇作品を出品するのではなく、ステーションカフェのプロデュースです。要するにインフォメーションとカフェが兼ね合っているような場所のプロデュースで、普通のカフェではなく、ちょっと変わった趣向のカフェをやってほしいということだったんですが、以前から老メイドカフェをやってみたかったもので、引き受けました。


そのカフェの名前が《カフェ・ロッテンマイヤー》?

「ロッテンマイヤー」というのは、「アルプスの少女ハイジ」に出てくる家政婦長のロッテンマイヤーさんのことなんです。ただ、ロッテンマイヤーさんはアイコン的なものかな。池袋にはあらゆる種類のコスプレカフェがあるけど、老メイドカフェはおそらく日本初かも。メイド達は公募で集める決まりなので募集をかけたら、たくさんの方が来て下さった。「そんなにみんなおばあちゃんメイドになりたかったんだ」と驚きました(笑)。年齢制限はなしにして、やる気があったらどなたでも来て下さいというふうにしたら、本当にたくさん来て下さって、オーディションで選ぶことになり、お陰さまで年齢層に幅ができました。リアルおばあちゃんメイドと、若いけれど「おばあちゃん」を演じている方と。若い方は、一応作り込みをします。特殊メイクはできないですけどね。実際にカフェ業務をしないといけないので。私自身は、全員が同じ年齢というよりも、混ざった方がおもしろいと思うんです。だから敢えて、年齢層を広げて、40歳の方もいらっしゃれば、70代の方もいらっしゃる、という感じです。


F/Tは舞台芸術の祭典で、今回はカフェのプロデュースというかたちで参加されるということですが、もともと演劇には興味を持っておられたのでしょうか。

もともとすごく好きなんですよ。今回、無謀にも老メイドカフェの店内で演劇をさせていただけないかと、私の方からお願いしたんです。そしたらF/Tの方も、無謀にも「じゃあおやり下さい」と(笑)、というわけでライナップには入ってない素人の飛び入り参加です。11月の23日と、27,28日、カフェの中で、そのまま《カフェ・ロッテンマイヤー》という演目の芝居をやります。


その演劇に登場される役者さんは、おばあちゃんメイド達なのでしょうか。

そうですよ。「おばあちゃんメイドカフェ」というのがひとつの虚構なんですけれど、さらにそこからもうひとつ入れ子状に虚構になっているという感じですね。


メイドの皆さんは、全員ロッテンマイヤーさんのようなお揃いの制服を着られるのですか。

そうですが、ライブなので年齢がいろいろというのはすぐわかるでしょうね。演劇もその設定でやろうと思っています。作りこんであるグランドマザーズの写真作品とはそこが真逆ですね。




いろんな世代の人間が混ざり合う状態というのは、一番最近の作品、モデルさんが10代から70代という多世代に渡っている《Windswept Women – 老少女劇団》*1にもありますね。

即席ですが生身の「老少女劇団」です(笑)。


今年の4月には京都芸術センターで、演劇の要素を取り入れた《桜守の茶会》*2という企画をされていますよね。

あれはまさに演劇でしたね。ただ、お客さんに演劇といわずに来てもらった演劇で、初めての脚本演出。25人くらい入るお茶室で、お客さんは普通のお茶会だと思って来て、薄茶の手前が始まるんですが、その25人の中に5人の役者さんが入っていて、そこで展開する会話が演劇になっている。お客さんが会話に参加することは可能です。ただ、あまり深く入り込んだお客さんはいなかったので、最後は脚本にちゃんと戻ってきました。もうちょっと参加が多くなってくると、脚本通り行き着かないなんていうこともあったかもしれないですけど。
ただ、《桜守の茶会》は、京都の真ん中で、お茶会の雰囲気を出して、お客さんにすごく緊張を強いる舞台だったんですね。しかも、京都の古い方々ばかりが来ているという設定にして、そういう役どころを役者さんが演じていたので、足を踏み入れた瞬間から「お茶会」という、ものすごく厳密なひとつの虚構の中にお客さんが入ってしまっている。だから、演劇としてはかなりずるいですよ、ちゃんと罠が仕掛けてありますから。お客さんがお金を払って見物桟敷に座って観るという古典的なスタイルもも一度やってみたいですけどね。



写真と演劇


やなぎさんはこれまで、写真を主な媒体として制作してこられましたが、例えば、《マイ・グランドマザーズ》*3ではモデルの女性が50年後の自分の姿を演じていますし、《フェアリー・テール》*4では少女たちが童話の中の登場人物を演じていて、「演じる」という行為が作品の中心的な要素としてありますね。

演じる行為というのは、全ての人間が今この瞬間にもやっていることで、人間のひとつの大きな特性、逃れられない特性と言ってもいいと思います。写真と演劇は、非常に相反するというか、全く対極にある。演劇って全く「生もの」で、そして時間軸がある。写真はメディアアートで、しかも瞬間を切り取って一枚一コマに仕上がる。全部反対のように見えて、でも反対だからこそ、最も刺激し合う表現ではないか、そして意外な親和性が発見できるのでは、と考えていました。瞬間性についても、再現性についても互いが遠くから照射し合っているような気がします。


演劇が「生もの」であるという点についてもう少し聞かせて下さい。

美術と演劇の大きな違いというのは、やっぱり肉体、身体でしょうね。現代美術は本当にもう観念だけで、そのへんのゴミを集めてきて「これが作品だ」って見せて説明したら、それが作品になるわけですが、演劇の場合は、身体というものがどうしようもなく在るので、そこで重い身体を引きずりながら、いかに解放されていくかということを目指している。現代美術の方から見たら進みが鈍い。そこがまた、とても愛着がもてるところですね。


鑑賞ということを考えても、観客と役者の生身の体が同じ空間・時間を共有するという点は、美術鑑賞とは異なる演劇の大きな特徴だと思うのですが。

美術も人間が作ったものなので、やっぱり観る人と作者の間には摩擦がありますが、演劇の場合はダイレクトですよね。時間を共有しないといけないし、その場でやっているわけですから、そこで発生する摩擦による痛々しさというか、快感というか、そういうものは過激になりがちですよね。だから、演劇を観に行って怒る人って結構多いじゃないですか(笑)。お金払って時間かけて来たのに、どうのこうのとか。それだけじゃなく、互いにものすごく感情的になりやすい表現だと思います。美術だと、とりあえずその場では何となく観て帰って、あれこれ考えて批判して文章書くとかはあるけれども、その場で作品に感応している人ってあまり見たことがなくて、
だから、演出家が客出しの時に、出口付近にジッと立って客を見送っているのを見ると、驚いてしまいます。私も展覧会の時やってみようかと思いますがなかなか勇気がない。



制作のプロセスをコントロールすること/手放すこと


《カフェ・ロッテンマイヤー》と、これまでの写真作品はどのような関係にあるのでしょうか。

そんな深刻に考えてるわけじゃないです。ただ、自分の手でコントロールすることができないことを体験しようと。《エレベータガール》*5も、最初2作品は生身のパフォーマンスです。怖くて踏み込めなかった「コントロールできない方向」というのが、ずっと気になってましたから。


これまでの写真作品でも、今のお話のように特殊メイクの方やカメラマンの方がいたり、モデルさんとの対話が中心になっていたりと、他者と一緒に作る、自分以外の人間が大きな割合で作品に入り込んでくる、という制作スタイルをとってこられたと思うのですが。

作業を一緒にするのと、一緒に作るというのは意味が違います。いろんな人が関わってくれているのですが、最終的には私だけの判断でできてしまう。《マイ・グランドマザーズ》のモデルさんも、インタビューをして、皆さんのアイディアからビジュアルを作ってというふうに、前半は一緒に作りますが、最後になってくるとそうもいかない。写真にテキストが付いているのは、邪道だとよく言われるんですけど、モデルさんが文章だったら最後まで参加できる、そのためにあるような気がします。



言葉とイメージ


テキストと写真イメージが組み合わさって、ひとつの作品になっているというお話が出ましたが、《フェアリー・テール》シリーズでも、童話や小説という、言葉で紡ぎ出される文脈が構造的に写真イメージのなかに入り込んでいます。演劇もまた、脚本があって台詞があって役者が言葉を発して成立する。やなぎさんの写真作品にも、演劇の基本的な成り立ちにも、言語の役割が大きな位置を占めているところがありますが、言葉とイメージの関係をどのようにお考えですか。

私の場合はかなり密接ですね。言葉、そして物語から作品が自由になるというか、そういうところに依存しないということが現代美術には特に多いですけれども、私の場合は、依存しないどころか、つねに依存し合って共存してきた。ただ、今おっしゃったような演劇のあり方、脚本が先にあって、役者がいて、台詞を言って、物語が進行して、その世界が展開するというのは近代演劇のある一形態にすぎない。脚本がない、役者が演技をしない演劇もありますから。台詞劇っていうのは、きっと美術で言ったら、「わかりやすい具象絵画」みたいなものです。言葉と密接に関わるということを、やるかやらないかという問題は演劇でも同様に大きな選択です。言葉とか物語に全然関わりたくない、どんどん離れていくようなタイプももちろんありますから、演劇というものが言葉と関わるものだとは限りません。ただ、今の私の好みとしては台詞劇が好きなんですよ。だから、とりあえず台詞と物語があって、それをお客さんが観て楽しむ娯楽性のあるものを次第に解体していくのが面白いと思ってます。
巨大インスタレーションの中でハイテク使った無言のパフォーミングアーツなどは、それほど興味がないというか、美術と似ているから単に珍しく感じないのかもしれません。



芸術表現の存在価値 – 異種交流への期待


以前、インタビューのなかで、結局実現しなかったインスタレーションのアイディアを「彫刻作品もどき」と言われていたり、また別のところでは「現代美術くさい」という表現を使われていましたが、ご自身の生み出す作品がそのような単なる「もどき」ではないものとして、どのように作用することを望んでおられますか。

一瞬頭を掠めてダメになるというのは、今まで忘れてきたぐらいにいっぱいあります。ちょっとしたコツがわかれば「現代美術っぽい」ものなんていくらでもできてしまう。それぐらい現代美術というものが、「もどき的」でインチキだということですね(笑)。勿論もともと芸術って、山師的な部分があって、非常に猥雑なものだと思います。人間のすごく真摯で真剣な部分も含んでいるし、ダメな部分も同時に含んでいる。清濁併せ持っているのが人間の芸術表現であって、どんなにくだらないことでも、本人が命がけでやっていたら、おもしろい作品になったりしますしね。まあ結局はそれだけじゃないんでしょうか。自分の作品が世界に対して作用するとすれば、ひっくり返すのは無理ですが、既存の価値観だとか世界に対して、ちょっとだけ揺さぶりをかけるくらい。ひとりひとりの目から薄いウロコが落ちるくらいができたら、作家として本望だと思いますが、それさえも、今のこの世界では難しい。昔みたいに、みんなが毎日同じことをやって、ずっと同じ生活を営んでいて、たまにお祭みたいな「ハレの日」があって、そこで欲求不満を解消して、また日常に戻るという、「霽(はれ)と褻(け)」がはっきりした世界でももうない。毎日毎日「小さいハレ」が繰り返される世界で、特に日本はありとあらゆる細かいレクリエーションが山ほどあるわけですよね。そういう世界で個人の表現というものがどれくらい機能するのか、常に自分に揺さぶりを掛けて目からウロコを落とさねばならないのは作家側だと思います。


F/Tには、現代美術の展覧会に来る人とはまた全然違う層の人も来られると思うのですが、そういう人たちから、どのようなリアクションを期待されていますか。

美術を全然見たことのない人に見てほしいですね。意外と演劇と美術って近いようで交わらない。現代美術はコンテンポラリーダンスやパフォーミングアーツとは割と仲がいいし交流があるんですけれど、台詞を言うような劇と現代美術って、あまり交流がない。私が今回F/Tでやることに関しては、美術を見たことがなくて、もちろん私の作品も知らない人が見てくれればいいと思っています。
演劇って、無理やり観客に関わって巻き込んでいく力があります。美術はいつからか先鋭的になってしまって、相互に理解出来る者だけが高め合う、高尚なお茶会のようなところもあり、そうなってしまうと脆弱になりがちです。予習も復習もしない人であっても揺さぶりをかけることができないといけない。


今後は、演劇と美術の世界両方での活動ということも考えておられるのでしょうか。

まだ全然わからないです。一回やってみて「もう懲りた」って言って、無責任にもやめるかもしれないですし(笑)。あと、「ここまでが演劇、ここまでが美術」という領域も、どこでその線を引くのか、その必要があるのか、わからない。物語や生身をもってくるから演劇というわけでもない。あまり所属は考えないんですよ。それを考えたら作品がつまらなくなるので。いずれにしても見たこと無いものを作ってみたいというのは諦めていません。まあ、とりあえずはやってみます。


今はまだ未知数ということですね。《カフェ・ロッテンマイヤー》、楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。


聞き手・きよさわみちこ


【注釈】
*1 《ウィンドスウェプト・ウィメン – 老少女劇団》:テントを被って荒野を旅する「老少女劇団」の巨大な女神たちが荒野で風に吹かれ、髪と乳房を振り乱しながら舞う姿を、映像と写真におさめた作品。若い者は老女の乳房をもち、老いた者は若い女の乳房をもつ。
[2009/写真]

*2 《桜守の茶会》:今年3月27,28日の2日間にわたり、京都芸術センターの和室「明倫」にて、やなぎ氏を席主としておこなわれた茶会の企画。センターの開設以来、継続的に行われている「明倫茶会」の一環で、毎回、美術家、音楽家、ダンサーなど多ジャンルのアーティストが席主となって茶会をプロデュースする。

*3 《マイ・グランドマザーズ》:一般公募から選ばれた10代〜40代の女性(一部男性もいるが50年後の姿は女性)が、自身の50年後について作家と対話を重ね、そこから描き出された50年後の姿を演じる。写真とそのイメージについてのテキストが対になりひとつの作品を構成している。やなぎ氏はライフワークとして、このシリーズの制作を続けている。
[1999年〜/写真, テキスト]

*4 《フェアリー・テール》:モデルである少女達が、グリム童話や日本の説話、ガルシア=マルケスによる小説などに登場する少女と老女に扮し、モノクロ写真のなかで物語の一場面を思わせる情景を演じる。老女は仮面で表現され、しばしば従来の善悪の構図が混乱・転倒している。全写真作品が、やなぎ氏の自宅の一室にて撮影された。[2004-2006/写真, 映像]

*5 《エレベータガール》:エレベータガールの制服を着た若い女性たちが、デパートの店内や通路など、無限に連続しているかのような空間に佇む光景を写した最初期の作品。同シリーズのパフォーマンスは、’93年に京都のギャラリー「アートスペース虹」でおこなわれた。
[1994 – 99/CG写真, 映像]

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