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「偶然」と「企み」の中に見る陰影礼賛 《もっと知りたい!展覧会》

2009 年 9 月 28 日 3,033 views No Comment

 「光」をテーマにした、二人の女性アーティストの共演。抽象画家の松本陽子と、現代美術のフィールドで作品を発表している写真家の野口里佳。展示会場は二手に分かれ、それぞれの空間演出の中で独自の作品世界が展開されています。


 1960年頃より抽象画の制作を始めた松本陽子は、「どこかで見たような絵画は描きたくない」という想いで創作活動を続けてきたという。学生時代に見た展覧会でサム・フランシスの絵画を知り、色と形だけの抽象絵画を描いてみようと決意したそうだ。その後67年にアメリカへ渡った時にジャクソン・ポロックマーク・ロスコの絵、新しい素材アクリリック(アクリル絵具)と出会い、ピンクを主体にした独自の抽象絵画のスタイルを完成させてゆく。近年では緑の油彩画連作により、新しい境地を開いている。

 今回出品された代表的なピンクを主体にした絵は、抽象であるのに「雲」や「顔」「流れ」「花」など様々なものに見えてくる。あるいは「怒っている」「泣いている」「調和している」「迷っている」なんて、鑑賞側の勝手な感情移入にも多彩な表情でつきあってくれる。抽象であろうと絵画を鑑賞する場合、そこに何かの“意味”をみつけようとしてしまうことが多いけれど、そんな分析を超越するような大きさがある。ただ絵の中に漂っていたいと思わせる心地よさ。“自分が絵の中に入っていけそうな感覚”…そういう意味でもサム・フランシスらと通じるものがあるのかもしれない。
光があふれるまっ白な会場の中にのびのびと展示されたピンクの雲。空間と絵画がひとつになった巨大な母体バルーンの中を、ふわふわと泳いでいるような感覚になる。なんだか懐の深い絵だなぁと感じた。

 ある本の中で作者が、制作課程について興味深い話をしているのでご紹介すると…。
「大きな絵を描くときも、どんな風に描くかなんてあらかじめ考えないんです。頭の中に何もない、真っ白な状態で描き始めて、偶然に出現してきたものをバンッとつかみ取る。私にとって絵を描くというのは、そういう作業なんです。」「描くのではなくて、絵が自らできあがってくる。それを私がつかみ取るんです。」「子どもや学生に絵を教えていても、最初のうちはみんないいのに、あっという間に悪くなってしまう。それは知識や思い込みが邪魔をして、偶然出てきた良いものをキャッチできないからなのね。だから、良い絵を描くためには、そういう考えを排除すること。それがいちばん大事だし、難しいことなんです。」 (「リキテックス大全 活用編」美術出版)
 観る側にも同じ事が言えるのかもしれない。知識や思い込みを排除して、真っ白な状態で絵と向き会うといい。そうするとその時偶然心の中にわき上がってきた何かが、様々な形や色になって「見たことのない絵画」として現れてきてくれるから。その瞬間をバンッとつかみ取ってみたい。

 なぜピンクなのか?それも“無意識の深奥の存在、いわく言い難い何かが選ばせた色で、生まれる前からの約束された色彩”だという。近年取り組んでいる緑の絵画に関しては、1996年フィラデルフィア美術館で開かれた「セザンヌ大回顧展」で《大きな松》(1889年、サンパウロ美術館)を見た時、「私はこの絵が神の啓示のように感じられた。これで緑の絵が描けると強く確信した。」そんなきっかけになったそうだ。



 野口里佳は、90年代初頭から様々な場所を訪れ、独自の視点で切り取った写真を発表。「自分が見ていないものはなんと多いことか。世界の広さに唖然としながらあちらこちらを歩き回って答えを探す」。96年には東京日の出町のアーティストインレジデンスに参加するなど、その活動は国内外で高い評価を得ている。

 展示会場は幾つかの部屋に分けられ、テーマごとの写真世界に誘いこまれる仕掛けになっている。
松本展を先に見た流れでいくと「飛ぶ夢を見た」から入る。白いふわふわのバルーンから、いきなり宇宙空間の闇に放り込まれる。あ、星が輝いている…いや、これはミクロの世界だな、アメーバが分裂してるよ…なんて思っていると、次はスコーンと青空に、ロケットがひゅるるる~と上がってゆく。目が覚めた。
 突然、「水をつかむ」のセピアの世界。黄金色のパワーショベルは全能の神の手のように神々しくもあり、つかめないものを必死につかもうとするロボットの手のような哀れな滑稽さも感じさせる。

 そして、森の中で妖精に出会う「マラブ」。妖精はトリになったり少女になったりして現れる。
マラブはアフリカハゲコウという飛べないコウノトリ。飛べないしあまり動かないからピンホールカメラの被写体になる。このシリーズ誕生のエピソードが面白いので紹介すると…。
ベルリンの動物園で1羽の全く動かないマラブを見た時「なんて自分のお爺さんに似た鳥だろう!」と思ったという。彼女のお爺さんはとにかく外に出たくない人で、どこにも出かけない。ところがある日、お爺さんが「今日はうちの雀がきている」と言った。うちの雀とよその雀の違いがわかる?そんなお爺さんをみて、もしかしたら旅をしている自分よりお爺さんの方がよっぽど世界をみることができているのではないか?と感じた。それから本物のマラブに会いに行こうと思い立ち、バックパッカーとなりアフリカへ旅をしたそうだ。

 「砂漠で」「星の色」「フジヤマ」は、どこか知らない惑星に連れて行かれて、ガラスのカプセル越しに、その風景を見ているような気になる。その場にいるのに、足は地面に着いていない。野口作品は「客観的・異邦人の目」などと表現されることがあるようだが、確かに、どんなに近づいていっても決して中に入れてもらえないガラスⅠ枚分の距離感がある。“見て”はいるけれど、こちらはカプセルの中に入っているのでその場の匂いや空気は一緒に吸えない、音も聞こえない。それが不思議な魅力と欲求になって、もっと、もっと…となってしまうのだろうか。

 またよく知られている壮大なテーマを選びながら、私達の期待するドラマ性や神秘性をことごとく排除するあまのじゃくな一面もある。事件は何も起こらない。宇宙センターへ出かけていっても打ち上げられるのは手製のおもちゃのようなロケットだし、砂漠の景色はジオラマを見ているようでもある。海底遺跡は水族館の大水槽の中かもしれない。アフリカの草原で見る妖精は、寝ぼけたまま近所の公園で迷子になっている時の幻覚だ。
 作者の言葉で言うと「新しい地球の見方」。世界中のどこもかしこも完全なオリジナルファンタジーに再構築されている。肩の力が抜けているというか、どこかユーモラス。押しつけがましさがない。それでいて偶然でもなくちゃんと計算されている。もし彼女がおじいさんのようにどこへも出かけずに、自分の半径5m以内のごくプライベートな写真を撮ったとしたら、それはどんな世界になるんだろう?そちらの方がものすごくドラマティックだったりして?!いつか是非見てみたい。

 作者は自らの作家としての出発点を「私だけに見えているもの」を写真にすることが自分のやるべきことである、と語っている。その通り、紛れもなく彼女だけにしか見えていない世界。私達も野口里佳の目を通して“現実と幻想の世界旅行”を楽しんでみるのもいいかもしれない。

 最後に展覧会のテーマ、この二人の芸術家の「光」を表現するとすれば、やはり湿度の高い日本という風土で育まれた光だなと感じる。「日本の景色は、湿度のためか灰色にかすみがちであり、クリアに遠望が利くということがない。」とカタログにも書かれているように、どんなに明るい色彩・光の中にもわずかな陰りがある。松本陽子が油絵具の光沢に馴染まず、水を用いる絵画の方が日本人の生理には合うのではないかと感じてアクリル絵具を使い、ピンクの中に青い陰りを忍び込ませたように。野口里佳が少し曇ったガラスを通してフラットに世界を写し取るように。それは日本人である私達に、どこか「なつかしい」と感じさせる、光と影の心地よい塩梅なのかもしれない。

text:稲垣栄里

「光 松本陽子/野口里佳」展の展覧会情報はコチラ

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