自然観/自然感を再定義する《ネイチャー・センス展 レビュー》
森美術館は、2010年度のテーマとして「日本の再定義」を掲げている。今回の『ネイチャー・センス展』は、その一環として「日本の自然観」を再定義する試み。主題となるのは、「知性」でとらえた自然のみならず、「感性=感覚(センス)」でとらえた自然。現代日本を代表する3人の芸術家は、どのように自然を「感性的」にとらえ、それをどのように「感性的」に芸術作品として呈示するのか。そして来場者たちはそれをどのように「感性的」に捉え、そこからどのようにして「日本の自然観/自然感」の再定義を図るのか——。明治時代にnatureの訳語として造語された「自然:しぜん」概念は、それ以前の仏教的な「自然:じねん(=ありのまま)」概念と融合して、どのように日本人の(日本語を用いる者の)知性と感性とを作り上げていったのか。そしてそれは現在どのようなあり方を見せているのか——。日本で最も「大地」から切り離された(地上約230メートル!)「森」美術館で、「ネイチャー」についての知性と感性とを考える。
吉岡徳仁は純化させる。
《スノー》:巨大空間に、真っ白な雪の舞い散る巨大な水槽が現れる。300キロもの羽毛が、ときおりプロペラに煽られて、綿毛のように大きく舞い上がり、空間全体を満たし、ゆっくりと音もなく舞い落ちる。ひとつひとつ逆光によって輪郭を与えられた羽毛は、うずたかく降り積もった羽毛の上に舞い降り、新たな地層を形成してゆく。ふたたびプロペラが回り出す。綿毛が舞い上がり、空間を満たし、音もなくゆっくりと舞い落ちる。音もなく繰り返される撹拌と沈潜の運動は、自然そのものの深呼吸のようだ。来場者の呼吸もゆっくりとその呼吸に同調してゆく。音もなく、色もなく、形もなく、重さもなく、匂いもなく、そして冷たさすらない雪。限りなく透明に近い、運動だけに純化された雪の姿。吉岡にとって、真なる雪の姿は、不純物を局限までそぎ落としていったところに現れる。そこでは人間の関与も、不純物として切り詰められる。誰ひとり(吉岡すら!)羽毛の運動をコントロールすることはできない。羽毛=雪は、その都度の偶然に支配されつつ、人間とは無縁のところで、撹拌と沈潜の運動をゆっくりと繰り返す。形を造るのではなく、状態を造る。特定の形をもたない自然を、不定形のまま再現する。《スノー》の根幹にあるのは、人間によって支配/コントロールされるべき西洋的な自然観ではなく、人間によって汚された自然、純化されるべき無垢な自然という吉岡の自然観である。
《ライト》:この作品にも、純化の思想が見られる。この作品は、およそ1年をかけて成長させた純粋な結晶を、手を加えずに、そのまま展示したもの。いわば結晶それ自体、あるいは結晶が放つ光そのもの(=ライト)が作品となる。あらゆる不純物が取り除かれた純粋な結晶。この作品に形を与えるのは、芸術家ではない。結晶化という自然の自己増殖過程そのものが作品の造形者となる。作品の形成過程から芸術家の関与が完全に排除される。人為=技術(art)の介在しない芸術(art)という逆説。さらには、微細な分子同士の規則的な結合から、すべて異なる形をした結晶が生まれるという、自然における必然と偶然との美しき両義性。
《ウォーターフォール》《ウォーター・ブロック》: スペースシャトルにも使用された特殊な光学ガラスでできた巨大なベンチ。その表面には、製作時に偶然できた細かい波状の模様が浮かび上がっている。これらの作品は、有名な『雨に消える椅子』と同系列の作品。この椅子は、ガラスの破片を水に落としたときにその姿が消えてしまったというエピソードから生まれた。ガラスだけでできているために、文字通り雨のなかで姿を消してしまう椅子。このコンセプトの実現のために、極めて純度の高いガラスの精製が要請された。皮肉なのは、自然物と同化する作品を作るのに、最高度の工学技術が要請されたこと。最高度の技術=人為によって、作品に混ざり込む技術=人為を排除するという逆説。ところで、このようにして実現された、局限まで純化された自然は、本当に真の自然の姿を再現するのだろうか。この自然は、物理的な理想空間のように、現実世界には存在しえない不自然な自然ではないのか。だが吉岡の作品は、実際に目にするどのような自然よりも、自然らしく、かつ美しい。来場者は吉岡の作品のなかに、理想化された自然を再確認することで、そこに美しさを感じる。純粋なものこそ自然であり、純粋なものこそ美しいという自然観。ひとは自然を自然に見ているのではない。自然=純粋という自然観に即して自然を見ている。吉岡の作品は、自然と自然観との根本的な関係性を考えさせてやまない。
篠田太郎は循環させる。
《残響》:暗闇の中に巨大な三枚のスクリーンがコの字型(凸型)に配置され、それぞれのスクリーンには、様ざまなものの循環、および、それらの循環が作りだす、さらに大きな循環構造が映し出される。
第一のスクリーンには、多摩地方および東京都心における人の循環、モノの循環、自動車の循環、植物の循環、多摩動物園のバクの循環(往復運動)が映し出される。周期的に挿入されるバクの映像は、季節の循環を映し出し(檻に降り積もる雪!)、この映像それ自体もまた絵巻物のように循環する。篠田がストーリーテラーとしてバクを選んだのは、『2001年宇宙の旅』のなかで人類が初めて道具を用いたさいに殺されたのがバクだったことによる。人類最初の道具である骨は、バクの死を境として一瞬にして宇宙船ソラリスへと連結される。バクは、時間の循環と、空間の循環とを一瞬にして連結させる象徴的な媒介者なのだ。
第二のスクリーンには、東京の水源である多摩湖の様ざまな風景が、空を強調した画面によって描き出される。人間の体内を循環してその生命を支える水もまた、雲→雨→湖水→飲料水→海水→雲という地球レベルの巨大な循環の中にある。そして第三のスクリーンは、首都高速の下を流れる運河から撮影された映像で構成される。「東京」の大動脈である首都高の下には、「江戸」の大動脈である運河が広がっている。道路と水路。縦横無尽に交錯し合う多種多様な交通網によって立体化される東京。大都市東京の生命は、江戸の昔から、人、車両、地下鉄、物資、電波、様ざまなものの循環によって保たれている。
そしてこれらの空間全体を、低い耳鳴りのような音が包み込んでいる。篠田によればこの音=残響は、宇宙から地球を鑑賞するときに宇宙から届くインスピレーションであり、耳を塞いだときに体内から聞こえてくる響きでもある。宇宙の響きと体内の響きは、骨とソラリスのように一瞬にして連結される。すべての循環は、ミクロコスモスとマクロコスモスに通底する残響によって共鳴構造に置かれるのだ。また三つの映像の関係性も見逃せない。第一のスクリーンには「人工物のなかにある自然」(動物園・観葉植物・ゴミ)が、第二のスクリーンには逆に「自然のなかにある人工物」(ダム・用水路・発電所)が、第三のスクリーンには「自然と人工物の共存・共生」(首都高と運河)が描き出される。様ざまなレベルでの循環はトポロジカルに構造化される。(スクリーンの境目に立ち、二つのスクリーンを同時に眺めてみると面白い。)
《忘却の模型》:三枚のスクリーンの内側に隠されるようにして、小さなホワイトキューブが埋め込まれている。室内いっぱいに(机状の)真っ白な平面が広がり、その上に置かれた台から毒々しい赤インクがゆっくりと、しかし止めどなく溢れ出し、平面の全体を埋め尽くしている。よく見ると平面を囲うように樋が設けられ、縁から滴り落ちる赤インクを受け止めている。樋は平面の下に置かれたタンクに繋がり、インクはそこで一箇所に集められ、ふたたび平面上の台に吸い上げられる。これはもちろん人間の体内における血液の循環を「模型」として示したもの。室内を満たす化学的・工業的なインクの匂いが、人間の命を支える血液循環もまた、自動的で機械的な装置であることを連想させる。表題の「忘却の」という言葉の意味は、このような意識化されない血液循環の自動性をいうのだろう。だが、あえて手作りされたというこの模型は、頼りない手作り感のために、血液循環の意外な脆さ・単純さをも想起させる。解説によるとこの作品は、「方形の大地に円形の天がある」とされた中国の宇宙観を反映したものでもある。体内の血液循環と、宇宙の循環との驚くべき同一性。あるいは、宇宙の構造を想像するさいに、人体の構造をモデル=模型とするしかない人間の想像力の貧困・限界。この作品の置かれた位置関係も重要。《忘却の模型》における人体内部の血液循環は、《残響》における都市および地球レベルでの循環を映し出すスクリーンに囲い込まれるように配置されている。循環に囲い込まれる循環。循環同士の作り出す同心円。これらの循環は、続く作品の中で、さらに広い「宇宙/天空」の循環に包み込まれることになる。
《銀河》:静かな空間。部屋全体に円形の水盤が広がっている。水面には一点の波もない。しばらく見ていると、天上から小さな水滴がいっせいに水面に降り注ぎ、一瞬にして消える。天上を見上げると、水滴を落とすための装置が点々と取り付けられている。またいっせいに無数の水滴が落ち、水面に幾つもの波紋が現れ、また消える。聞けばこの波紋は、ある日の東京上空に現れる星空を再現している。それぞれの水滴が、様ざまな星座を描き出す。この作品は、京都の東福寺にある北斗七星をモチーフにした日本庭園から着想を得たという。乳白色をした水面に、ふたたび水滴が星座を描く。そして一瞬にして波紋は消える。何万光年も離れた星から何万光年もの時を経て東京上空に到達した光は、一瞬の輝きだけを残してたちまちにして消え去る。そしてまた次の光が現れ、ふたたびはかなく消える。悠久の時間とはかなき時間との循環としての時間。体内→都市→自然→地球へと続いた循環を、さらに広大な宇宙の循環が包み込む。『銀河』において篠田の循環はそのフラクタルな同心円を閉じる。
栗林隆は流動化させる。
《ヴァルト・アウス・ヴァルト(林による林)》:和紙でできた天幕のようなものが、室内全体を覆い尽くすように張りめぐらされている。岩盤のような形をした天幕は、低いところでは腰ほどの高さしかない。その下に広がる薄闇の中を、腰をかがめながら進んでゆくと、ときおり頭上に光がさす。天幕のところどころに穴が空いているのだ。そこから頭を出すと、視界のなかに突如、真っ白な銀世界が広がり、思わず息をのむ。来場者は地中を歩き、大地に空いた穴からモグラのように頭を突き出す格好になるのだ。天と地の入れ替わる感覚、あるいは表と裏とが逆転した感覚。今まで表だと思っていた天幕の表面が、実は裏だった。モグラ叩きの要領で地上にひょっこりと頭を出した来場者は、別の穴から頭を出した来場者と恥ずかしそうに視線を交わす。そしてふたたび地中に潜る。すると地中は、頭を地上に突き出した来場者たちの、頭のない滑稽な姿で溢れかえっていることに気づく。この作品は、鑑賞者が作品に参加することで初めて成立する。そして鑑賞者たちは、自分たちの滑稽な姿を見て、自分が作品を見ているのか、作品が自分を見ているのか分からなくなる。作品と鑑賞者の境界線は曖昧にされ、しかも作品と鑑賞者との主従関係もまた曖昧にされる。モグラにとっては地中から見た地面が表であるように、地面の表裏は相対的な関係にある。そして作品と鑑賞者の境界線もまた思った以上に曖昧なのだ。
《インゼルン2010(島々2010)》:高さ4メートルにも及ぶ巨大な土の山がそびえている。土の匂いが充満している。壁にそった階段を上がり、スポットライトで照らし出された頂上を見下ろすと、頂上だけを切り取るようにして透明なアクリル板が水平に挿し込まれているのが見える。山頂の一角が、まさしく氷山の一角のように、アクリル板の上に小さく突き出している。栗林によれば、アクリル板の上に突き出した部分は、五大陸の形に造形されている。つまりアクリル板が海面、アクリル板の上に突き出た部分が陸地、両者の境界線が海岸線となる。地図に描かれた五大陸の形とは、このように、アクリル板の高さ=海面の高さによって暫定的に決まるものに過ぎない。表題にわざわざ「2010」とあるのも、現在(2010年)の大陸の形が暫定的なものに過ぎないことを明示するためだろう。海面の高さが少しでも変われば、五大陸の形は大きく変化する。栗林は、アクリル板の下に広がる海底の深さ(裾野の広がり)を強調することで、人間が目にする大地の境界線(海岸線)が、人間の小さなスケールのなかでの出来事に過ぎないことを可視化する。人間が見ている世界の下に、目に見えない巨大な自然の世界がある。そして海岸線がそのまま「国境」を意味する島国日本にとって「国の形」そのものを決定しているのも、海面のその都度の高さに過ぎない。国の形=国境は、天然自然に与えられるものではなく、地球の薄っぺらい表面の上に偶然的/恣意的に引かれたもの、そして常に変化しうるもの、流動的で相対的なものに過ぎないのだ。
《YATAI TRIP(ヤタイトリップ)》:そして栗林は、屋台を引いて、福岡からソウルへ、そして38度線へと旅をする。閉じれば単なる箱となり、開ければ、内も外もない開かれた空間となる屋台。内/外の境界線を曖昧にすることで、どこにでも祝祭的な空間を産み出してしまう屋台。屋台はタイヤを持つことで、どのような境界線をも縦横無尽に乗り越えてゆく可動性を手にする。屋台は、福岡からソウルへ越境し、YATAIとなる。栗林は敢えてYATAIを一輪車で作り、人の手を借りなければバランスのとれない形状にすることで、共同作業による人と人との境界線の無効化を図る。そして同行したミュージシャンがソウルの街角でギターを奏で、栗林たちが酒宴を始めると、どこからともなく人々が集まり、言葉の境界、民族の境界、文化の境界、国の境界を越えて、融合的な祝祭空間がかたち作られてゆく。そして栗林はYATAI引いて、38度線へ向けて旅だってゆく——。展示空間にはYATAIの作り出す、内外の境界線の無効化された祝祭空間が再現され、スクリーンには栗林の旅路およびYATAIの制作過程の記録映像が流される(屋台に吊るされたスクリーン映像は、前からも後ろからも見えるようになっている。前後・表裏の境界線は流動化される)。さらに展示室の窓の向こうには、広大な東京の街並が広がっている。栗林隆は、美術館の内外の境界線をも流動化させるのだ。そしてその視線は、大都市東京の境界線を越えて、はるか彼方の地平線へと至り、さらには世界全体へ、そして宇宙全体へと越境してゆく。栗林隆は、境界線をどこまでも流動化させてやまない。
自然観とは、自然に形成されるものではない。様ざまな文化・言語によって歴史的に構築される。このことは、自然をとらえる感覚=感性に関しても同様であり、感覚それ自体が文化的・言語的に構築されたものなのだ。このような、自然を見るフィルターとしての自然観の再定義を試みるのが今回の『ネイチャー・センス展』であった。とはいえ、自然な自然も、自然な自然観も、すでに成立しえない現代において、自然な自然の回復も、自然な自然観の再定義も、もはや自然な試みとはいえないのかも知れない。だが自然観は、それ自体としては歴史的・人為的に作られたものであるとしても、意識と感性の深いところに根を下ろした「第二の自然」(無意識化/身体化された習慣)としての「自然さ」を獲得している。自然を自然にする第二の自然としての自然観/自然感。いまや、自然の自然さを保証するのは、個々人のなかに形成された個々別々の自然観でしかない。自然観を再考しなければ、自然もまた廃れてゆく。自然観のないところで、自然はもはや自然ではいられないからだ。
text:桑原俊介
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