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絵画的な写真《オノデラユキ 写真の迷宮(ラビリンス)へ レビュー》

2010 年 8 月 30 日 2,956 views No Comment

20世紀半ばに活躍したフランスの写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン。私の最も好きな写真家の一人だ。ブレッソンの写真集「決定的瞬間」の中の一枚「サン・ラザール駅裏のヨーロッパ広場」。一人の男が水溜りをよけようと飛び上がった瞬間をとらえたなにげない写真だがなぜか魅かれる。ブレッソンは肉眼に比較的近いという理由で標準レンズを好み、日常のごく当たり前の光景を独特のフレーミングでとらえた。ブレッソンの写真はこうした日常の風景を「決定的瞬間」に変えてしまう魅力がある。ブレッソンは自分の関心で対象を追い求め、自己表現の一手段としての写真という新境地を開いた。


19世紀の半ばに発明された写真技術はそれまで事実の記録という機能にその主眼が置かれてきた。絵画にはない事実を正確に記録するというその特徴は、写真ならではの機能だった。それが時代を経るにつれ何を写真に写しとるかということと同時に、撮影者がその被写体をどう見るかが重視される時代になった。今や被写体を通して自己を表現する、すなわち写真を一つの芸術ジャンルとしてとらえることが当たり前の時代だが、この大きな流れを作った一人がアンリ・カルティエ・ブレッソンだった。「絵画が写真の登場で複製記録の役割を解かれたように、写真もまた公から個あるいは私へと変わった」(田中仁「写真芸術論」)のである。

オノデラユキの作品を今回はじめて見て、私はこの写真がたどってきた歴史がさらに進化したのではないかとさえ思える衝撃を受けた。会場を何度も回りながら、この写真家は本当にフォトグラファーなのか、それともアーティストなのか、そんな疑問が何度も頭の中をかけめぐった。写真がいくら事実の記録から自己表現の一手段になったとはいえ、それはあくまでも被写体を通して自己を表現するという話だ。写真は基本的にはレンズの前に実在するする世界を、フレーミングによって切り出された陰影として印画紙に記録したものであり、事実の記録にせよ自己表現にせよ被写体があってのことだ。いくらデジタル技術の進展によってとらえた映像を様々に加工した写真でも、自己と外部世界の関係性で物事を表現することにほかならない。しかしオノデラユキの作品は、被写体については何も語らないあるいは何の関係性も作らないという、これまでの写真とはまったく異なる表現方法にチャレンジしているのではなかろうか。

2002年からオノデラユキが取り組んでいる《Transvest》と呼ばれるシリーズ。逆光で浮びあがるほとんど等身大の人物像。一見それは実際の人物のシルエットのように見えるが実は新聞や雑誌などから切り抜いた人型を逆光で撮影したものだ。よく見るとシルエットは単なる影ではなく、そこには様々なイメージの断片が埋めこまれている。それは夜の街や歴史遺産の風景、あるいは顕微鏡の映像であるというが、それを見極めるのは大変難しい。この作品の特徴は人物を単に逆光で撮影したのではなく、あえて2次元の人型をあたかも実際の人物のシルエットのように撮影したことだ。もし仮に実際の人物のシルエットを撮影しているのであれば対象になった人物と作者の間には何らかの関係性が生まれ、それは従来の写真の概念に納まる。しかしこの作品は一見すると確かに印画紙上に光の陰影を焼き付けた普通の写真のように見えるが、被写体との関係性はなく、実はこれまでの写真とはまったく異なる領域の作品なのだ。

2004年に発表された《Roma Roma》。この写真もまた不思議な作品だ。写っているのはなんの変哲もない田舎のひなびた風景。その撮影手法は極めてユニークだ。イタリアのローマではなくスウェーデンとスペインのたまたま同じ地名の2か所をステレオカメラでそれぞれ108枚撮影、それを2点の組写真として構成した作品だ。組み合わせは撮影した時系列にそったもので何の関係性もない偶然の産物なのだ。オノデラは「写真を撮るために移動するのではなく、移動するために写真を撮る」のだという。つまりこの作品においては被写体になった2つのローマの風景はどうでもよく、「移動」そのものがテーマになっているのだ。

そしてその2年後さらに衝撃的な作品が登場する。《オルフェウスの下方へ》と題されたこの作品、ヨーロッパのあるホテルで起きた失踪事件を契機にオノデラが推理したストーリーに基づいて制作された。彼女は事件の2年半後、同じホテルの部屋に宿泊。行方不明になった人は実は地球の裏側に移動したという奇想天外な推論を思いつく。そしてホテルの天井から部屋を眺めた室内を撮影し、その後このホテルとちょうど地球の真裏、すなわちニュージーランドの北島にあたる場所の風景を撮影し10枚の組み写真に仕立てた。不思議なことにホテルの室内は白黒、そしてニュージーランドはポラロイドカメラによる小さなカラー写真になっている。ポラロイドの小さな画面にはごく当たり前のどこにでもありそうな森の光景が写っている。本当に地球の裏側かどうかは写真につけられた緯度経度を表す数字だけだ。ユニークな推論をもとに撮影された写真。それは推論をすること、およびその推論に従って移動することこそが重要であり、もはや被写体はなんであれ構わないのだ。

そしてこの後、最も新しいシリーズ作品《12 Speed》が登場する。濃いピンク色のテーブルの上にヘッドフォーンやカメラ、スナック菓子、ハンバーガーなどポップな小物が並ぶ。一見まったく同じように見える写真がカラーとモノクロそれぞれ12枚。いったいどこが違うのか間違い探しのような連作だが、実はこの作品、まったく同じように見えて違いが一か所だけある。それは中央に置かれた小さな丸い鏡である。そこには森の風景が映り込んでいる。そしてその鏡に映った木々の枝の写り方が微妙に異なるのだ。解説によればパリ郊外のフォンテーヌブローの森の中で撮影されたものだという。その証拠になるのが先ほどの鏡に映った森の木々である。シリーズを構成する12枚の写真はまったく同一のセットで、鏡の向きだけをわずかに変えて撮影したものだという。この連作においては被写体になっている様々な小物は仮にそれがテレビであれ食器であれ、なんでもよいのではないかとさえ思える。ここでも作者の被写体への関心は薄く、大切なのは一見まったく同じように見える写真の中に鏡という被写体を入れ込み、写真の持つ複製という機能を疑ってみようとしたのではなかろうか。

このことは後に発表された《Annular Eclipse》においてさらに進化する。《Annular Eclipse》もまた《Transvest》によく似た作品だが、実は写真ではなくシルクスクリーンという版画技法によるものだ。動物と体を大きく曲げた人物のシルエット、さらに背景には花火を思わせる輝きを加えた一辺が2メートル近い巨大な作品だ。オノデラはこの作品への思いを「版画技法への挑戦は、近年銀塩写真からインクジェットプリントへの移行が加速する中でポスト銀塩にあたる技法への問題意識があった」と語っている(図録より)。

こうした作品を見ていると私にはオノデラユキは被写体として何を選ぶか、そしてそれをどのような条件で撮影し、そこから自己をどのように表現するのかといった写真の基本的な方法論を否定しているのではないのかとさえ思えるのだ。写真家と被写体との関係性についてはいくつもの論評があるが、評論家の多木浩二は「写真に何が可能か」の中で次のように述べている。

「おそらく写真家はあらゆる表現者のうちで最も不自由な人間かもしれない。心のうちなる世界をあらわそうとしても、うつるのは外のある対象である。」

すなわちどう撮影者がどうがんばっても撮影した対象物から逃れることはできない。それを斜めから撮影しようと、裏側へまわって撮影しようとも、さらにはカメラの絞りやシャッタースピードを変え、ピントをわざとずらしたり、また現像の段階で粒子を荒くしたり・・・こうした様々な撮影テクニックを使い、暗室作業で加工をしても被写体から逃れることはできないというのだ。写真家の飯沢耕太郎もまた写真の特質について別の角度から次のような指摘をしている。

「画家が目の前の風景をどれだけ正確に写し取って描いてもそれは彼の恣意的な解釈にすぎません。だからこそ、画家は逆に自分のイマジネーションの産物を自由自在に描き出すことができるのです。反対に写真家は頭の中で想像したものを撮影することはできないのです。」(「写真概論」)

写真家が自己表現可能なのはあくまでも被写体を通じて浮かび上がる、あるいは浮びあがらせるイメージに束縛されており、事物を正確に写し取るということが得意な反面、画家のような自由さはないというのである。

この被写体を通してしか描けないという表現の制約を乗り越え、光を印画紙にとらえることで自己を語ることに挑戦しようとしているのがオノデラユキなのではないか。すなわちオノデラユキの写真は一見写真のような体裁を整えてはいるが、実はそれはレンズを通して被写体をとらえる写真という表現方法ではなく、画家が何かを見てあるいは何かを感じてキャンバスの上に絵の具で表現をするのと同じではないかと思えるのだ。私はこの新しい表現手段を過去に使われたのとは別の意味で「絵画的な写真」と呼んでみたい。オノデラはこれまでの写真家が行ってきた被写体との間の関係性は無視し、ある印象やイメージを自らの頭の中にとりこみ、それを直接光と印画紙を使って表現する。すなわちきわめて絵画的なのである。

何を被写体に選ぶのか、つまり何を撮影し、何を撮影しないのかに始まり、「フレーミング」や「ブレ・ボケ」「デフォルメ」さらには合成やモンタージュなど様々な手段を駆使して多くの写真表現が誕生してきた。もちろんドキュメンタリー写真の中にもカメラマンの視点は当然入っているのだし、完璧な真実を写した写真などもとより存在しないのは明白ではあるが、いずれにしても何らかの形で被写体に縛られるということは、写真家の宿命だったはずだ。こうした写真の宿命を変えようとする、あるいはこの枠から一度飛び出してみる。そしてそこから改めて世界を眺めてみる。そうした新しい芸術への挑戦がオノデラユキの世界なのではないだろうか。写真集ではなく実際に展覧会場で見て初めてその価値がわかる、そんな感じが強くした。

参考文献:オノデラユキ 写真の迷宮へ 展覧会図録
     多木浩二 写真論集成 筑摩文庫
     飯沢耕太郎 写真概論 京都造形芸術大学
     田中仁   写真芸術論 京都造形芸術大学

text:小平信行

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