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子供たちに贈る―水木しげるの『妖怪』画―《水木しげる・妖怪図鑑 レビュー》

2010 年 8 月 30 日 3,585 views No Comment

『妖怪』に対するイメージは人それぞれに異なる。具体的な、すなわち擬人化された『妖怪』を想像する人も居れば、抽象的な火の玉のようなモノを想像する人も居るであろう。また擬人化された『妖怪』と一言に言っても、人に被害を及ぼす『妖怪』とそうでない『妖怪』とがいる。展覧会図録の中で京極夏彦氏が『妖怪』の定義や水木しげるの功績について触れているように、人それぞれに異なったイメージを持っている『妖怪』という漠然とした存在に具体的な姿・形を賦与したのが水木しげるその人である。


第一章では『水木しげるの妖怪図鑑』と題して代表的な妖怪八十八種の原画が展示されている。〈座敷童子〉、〈ぬらりひょん〉、〈一つ目小僧〉、〈木の子〉、〈コロポックル〉、〈天狗〉、〈小豆洗い〉、〈岩魚坊主〉、〈兵主部〉のように人間に近い姿を採る『妖怪』も居れば、〈以津真天〉、〈蟹坊主〉、〈件〉、〈野槌〉、〈海坊主〉、〈河童〉のように動物や昆虫の姿を模した『妖怪』も居るし、〈傘化け〉のように器物の形に似た『妖怪』も居る。そして、最も多いのは、〈提灯お岩〉、〈百目〉、〈疫病神〉、〈一本ダタラ〉、〈山爺〉、〈海女房〉、〈若狭の人魚〉のように人間と動物と器物の姿を混ぜ合わせた『妖怪』や、〈ぬっぺほふ〉、〈べとべとさん〉、のように特に何という訳でもない茹で卵のような抽象的な姿を与えられた『妖怪』である。
お気付きの通り、これらの『妖怪』は名前の段階で既にある程度の制約がある。また、本展覧会の『妖怪』の分類については後で触れるが、山や川、海に出没する『妖怪』には器物の形を取り入れたものは殆ど無い。さらに〈若狭の人魚〉のように、〈人魚〉という『妖怪』的な存在に、〈若狭の〉という地域性が賦与されて複雑な姿へと展開しているものもある。つまり『妖怪』という存在には言語的な問題、地域的な問題、歴史的な問題が複雑に絡み合っており、京極氏の言葉を借りるならば『妖怪』とは民俗学的な視点を持ってして初めて捉えることのできる存在なのである。ではあるが、水木しげるの絵を見ていると、なるほど『妖怪』はこういう姿をしていたのかと思わされ、絵の中の世界に自分を置いて色々と想像してしまうから不思議である。もちろん水木は『妖怪』の言語的、地域的、歴史的な問題について並々ならぬ研究をされておられるだろうし、江戸時代の絵画作品等から学び取った『妖怪』の姿を継承している部分もあると思われる。
しかし、水木の『妖怪』画のレベルをここまで高めているのは、水木の芸術家としての想像力であり筆力である。それぞれの『妖怪』が登場する場所や時間の設定、登場人物のリアクションを水木の『妖怪』画ほど的確に表現した作品はないであろう。第三章に展示されている、水木が継承したと思われる江戸時代の『妖怪』画と水木の『妖怪』画とを比べてみると面白いかもしれない。江戸時代の『妖怪』画には何とも言えない現実味があるけれど、水木の『妖怪』画にはフィクションの絵であるからこそ感じられる現実感のようなものがある。画面内で起きていることの現実味や滑稽さをたやすく鑑賞者に感じさせてしまう水木のセンスは本展覧会第一の見所である。

次に注目したいのは展示の構成である。先にも述べたように第一章では代表的な妖怪八十八種の原画が展示されているのであるが、これらの『妖怪』を里の『妖怪』・山の『妖怪』・水の『妖怪』に分けて紹介しているところは、兵庫県美の学芸員の的確な判断として評価できる所である。展覧会図録の中で学芸員の岡本弘毅氏は、形態や時代による分類法があることを認めた上で、本展覧会では民俗学者柳田國男氏や水木しげるの著書に倣って出現場所による分類を行ったことを明らかにし、代表的な『妖怪』の形態的、地域的な性格や特徴について解説されている。すなわち、筆者の個人的な考えに過ぎないが、言語的、地域的、歴史的な問題を内包する『妖怪』ついて考える時、里・山・水という分類は均整のとれた概念とは言えないが、民俗学的に『妖怪』という存在について考える際には決して邪魔にはならない分類と言えるのではないだろうか。仮に東北地方や中国地方という地域的な分類を行った上で更に『妖怪』を里・山・水という出現場所によって分類すると、地域ごとの地形の相違や自然災害の歴史等が見えてくる可能性はあるが、『妖怪』というものの本質には迫りにくいと思われる。ところが、里・山・水という分類を行った上で地域ごとに『妖怪』を比較してみると、各地域の人々が各妖怪にその形態を与えた理由が見えてくるであろうし、似た姿や特徴を持つ『妖怪』を収集すると各妖怪の出現理由が見えてくるであろう。

今述べた分類に関する問題については異論があるかもしれないが、筆者には里・山・水という分類が、現代社会の状況と妙に交錯しているような気がしてならない。すなわち、科学が進歩し、3Dの世界で虚像をリアルに感じる程にまで成長した都市の世界において、神隠しのような事件が起こるはずは決してなく、全てが人間の手によってもたらされている事を疑わない世界で私達は生きている。現代の世の中に『妖怪』など存在するはずがないのである。かつて『平成たぬき合戦ぽんぽこ』というジブリ映画の中では、人間の発展に伴ない狸が住む場所をなくしていく様子が描かれていたが、狸のみならず『妖怪』特に里の『妖怪』も現代社会では生き残っていくことはできないであろう。筆者は里の『妖怪』を見た後に現実の世界を思い浮かべ、現代人は便利さや偽りの現実感を手に入れることで、何か大事なものを失ってしまったのではないかと感じさせられた。主観的な見方ではあるが、里・山・水という分類が為されているからこそ、『妖怪』の棲む世界と私達の住む世界とが完全に隔絶したものであることを感じることができるし、水木しげるの描き出す世界の貴重さを感じることができる。これは第二章の展示、すなわち水木の代名詞とも言えるマンガ『ゲゲゲの鬼太郎』関係の原画や原稿を鑑賞する上でも重要である。『ゲゲゲの鬼太郎』の世界観は、3Dの世界が持つ娯楽性とは異なり、目には見えないものを感じたり信じたりすることができなければ楽しむことはできないものであると思われるからである。また、第三章を設けて『妖怪』の歴史について取り上げているのも評価できる部分である。美術館・博物館の展示構成として見れば、歴史的な視点を入れることは常套手段であり、かえって面白みのない部分とも言えるかもしれない。しかし、子供たちの集客を見込んだ娯楽色の強い展覧会において、歴史的な観点を加えたり、古典的な作品を展示したりするのは勇気のいることである。筆者は国家主義者でも保守勢力でもないが、無意識にも第三章の内容に興味を持ち、古典や歴史、日本人のアイデンティティや文化について考える子供が少しでも居れば、本展覧会は大成功である。

筆者は子供の頃、夜一人でトイレに行くことや、暗い部屋で一人で寝ることが恐かった。今思うと、この得体の知れない何かに対する恐怖や、影で悪さをすると誰かに見られていてバチが当るような気がする恐怖というのも、大人になるためには必要なものだったのかもしれない、そんなことを思う。緻密に練り上げられた虚構や嘘みたいな現実が氾濫している現代に生きる子供達も、あの時筆者が感じた恐怖と同じような恐怖を感じることがあるのであろうか。虐待をはじめ、最近聞くに堪えないニュースが多くなっているが、できるだけ多くの子供たちが水木しげるの『妖怪』画を見て、人間らしい何か大切なものを感じてくれたら幸いである。

text:吉田卓爾

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