Home » 吉田卓爾, 展覧会レビュー, 関西

空気の読める芸術家<束芋>―共感できる面白さ・妄想できる恐ろしさ―《束芋:断面の世代展 レビュー》

2010 年 7 月 28 日 3,123 views No Comment

まず、本レビューが現代美術の真剣な鑑賞を完全に諦めた人間の手によって書かれていることを告白しておこう。
いつから現代美術を真剣に鑑賞することを諦めたのか記憶が定かではないが、似たような作品や作家が現れては消えていき、こじつけのような批評に作品が埋もれていくような世界に対して筆者は、長い間表現しようのない迷いや怒りを感じ嘲り続けてきた。そんな筆者の耳にも<束芋>という作家の名は定期的に入ってきたが、上記のような世界の中で、新たに出てきたモノの良し悪しを自ら判断する気力などなく、例に洩れず<束芋>という作家も筆者の興味の対象にはならなかった。今回『束芋:断面の世代』展に赴く気になった理由は、あまりに無機質で自分でも言葉にするのが憚られるほどであるが、<束芋>という作家が時代に埋もれていくことなく存在し続けているからに他ならない。<束芋>の作品が淘汰されることなく生き残ってきた理由について、すなわち今この時代に団塊ジュニアと言われる世代の作家がこのような作品を制作する背景や意義については、展覧会図録において木村絵理子氏、植松由佳氏、田名網敬一氏らが、また本サイトでも小平信行氏が述べられている。特に木村絵理子氏は、<束芋>の生い立ちや社会の流れと<束芋>の作品との関係について、また作品の表現やテーマの変遷について、<束芋>の言葉を拾い上げながら丁寧に述べられており、今後の現代美術の方向性にも通底するような指摘をされている。なので、門外漢の筆者は主に<束芋>の作品に対する感想を好き勝手に述べてみたい。

まず第一点目は、いわゆる上から目線のような言い方になってしまって申し訳ないのであるが、<束芋>という作家が非常に「知的」な作品の組み立て方をしているというのが、作品を見て一番印象に残った点であるということだ。
ただし、ここで言う「知的」とは必ずしも理性的な意味合いばかりを示している訳ではない。「知的」だと感じた点の中で、第一に挙げなければならないのは表現の丁寧さである。
例えば《団地層》という作品は、団地の中にある十階建ての集合住宅の内部を断面で見せることにより、人々の隠された姿、延いては現代社会が抱える闇の部分を浮き彫りにする作品であり、集合住宅内の色々な部屋の断面を鑑賞者に見せれば作者の意図は受け手側に十分伝わるものと思われる。しかし、<束芋>は一階から十階までの各階につき三断面ずつの画面を用意し、各階の三つの断面もベランダ部分の傾斜を変えて表現している。細かな点ではあるが、ベランダ部分の傾斜の変化が、一階から十階までカメラをスライドさせたかのような映像の現実味を増幅させ、各階につき三断面ずつ画面を用意するという機械的な表現が、作者の現代社会を見つめる客観的な視点を鑑賞者に共有させる役割を果たしている。
作家や作品は大抵の場合、着眼点や表現の新しさ面白さという目に見え易い部分で評価されることが多いが、伝えたい問題をいかに的確に表現しているかという点も作家や作品を評価する際には重要な点である。例えば、同じ料理を食べた三人が全く同じ感想を持っていたとしても、それぞれが「うまい」、「おいしい」、「悪くない」と表現したら、受け手側の解釈は全く違うものになるであろう。そういう勉強や経験だけではどうにもできないセンスが芸術家には必要とされているのである。そういった意味で<束芋>の作品はセンス良く丁寧に作られていて、出だしのところで鑑賞者がつまずくようなことはない。
<束芋>の「知的」さが感じられる第二の点は、第一点目とも繋がる問題であり、逆接的でもあるが、力の抜き具合である。<束芋>の作品には、鑑賞者が最も気になる部分が描かれていなかったり、また鑑賞者がどう想像を膨らませても理解できないような無意味なものが描き込まれていたりする。描かれていない部分があっても何となく<束芋>の意図が読み取れたり、画面や絵をいくら見ても<束芋>の意図が分からなかったりするのである。展覧会図録の中で田名網氏が紹介している「私は通常より多くの期待を鑑賞者に向け、尊敬し、一緒に作り上げていくことを楽しむ。私が50パーセントの責任を果たした形は、鑑賞者の目の前に現れることで関係を築く可能性をもち、残り50パーセントの責任を担う努力をしてくれる鑑賞者によって、作品は完成する。」という<束芋>の言葉は、<束芋>の作品の性格をよく示している。
いま挙げた二つの点は、具体化の上手さと抽象化の上手さという言葉で置き換えることもできるかもしれない。余談ではあるが、具体的な表現と抽象的な表現が混在し、50パーセントの責任を受け手側に要求する<束芋>の作品は子供の教育にも役立つかもしれない。子供の頃から<束芋>の作品と触れ合っていたら、意思疎通のできない人間に成長することは無いであろう。会場内に子供の姿が見えなかったのは残念である。

もう一つ<束芋>の作品に関して述べておかなければならないことがある。大阪展では要所要所に係員が配置されており、《団地層》、《団断》、《悪人》、《油断髪》、《ちぎれちぎれ》、《BLOW》の順にしか作品を鑑賞することができない。このような鑑賞の順序は<束芋>という作家に対する鑑賞者の印象を大きく左右しうるものである。来館者の混乱を防ぐために美術館側が一方通行の道順を設定したのか、<束芋>自身の希望なのか筆者には知る由もないが、木村氏や植松氏の解説では《団地層》と《団断》は、《ちぎれちぎれ》と《BLOW》とは異なった方向性を持つ作品として紹介されており、前半の《団地層》、《団断》と後半の《ちぎれちぎれ》、《BLOW》との間には、コンセプトにおいても表現においても明らかな断絶がある。ここで筆者が問題にしたいのは、鑑賞の順序ではなく、<束芋>の表現が持つ二つの方向性である。<束芋>の作品を見続けてきた訳ではないが、表現の違いや図録の解説等から判断して、前半の《団地層》と《団断》は、これまで高く評価されてきた<束芋>の表現をよく示している作品であり、後半の《ちぎれちぎれ》と《BLOW》は<束芋>の新たな方向性を示す作品である。それぞれの表現がいかなるものであるかは皆さん自身の目で確認していただければと思うが、これら二つの方向性は長期間<束芋>の中に共存しうるものではないと思われる。すなわちデビュー10年目を迎えている<束芋>という作家は今、まさに転換期を迎えているのである。新しいモノを生み出すときの苦しんでいる姿というのは芸術家でなくてもあまり人には見られたくないものであるが、従来の表現と実験的な表現とをいとも簡単に提示してしまう<束芋>は、もしかすると筆者が思っている以上に大物なのかもしれない、そんなことを思わされる。

勝手な感想ばかりで恐縮ながら、夏休みの予定が空いているならば『束芋:断面の世代』展は是非オススメである。

参考文献:『束芋 断面の世代展』(展覧会図録)

text:吉田卓爾

「束芋:断面の世代」の展覧会情報はコチラ

ページTOPへ戻る▲

コメント投稿欄

以下のタグが使えます:
<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">