ユトリロいろいろ《もっと知りたい!展覧会》
ユトリロといえば、人のいないなんとなく寂しげなパリの街並の絵がまず思い浮かんできます。
なんでこんな悲しげなのかなーと思うのですが、
父親が誰かわからず苦しんで、若い頃からアル中だったという背景を知ると
酒好きとしてはグッと感情移入してしまいます。
ユトリロはシュザンヌ・ヴァラドンという奔放な女性が18歳の時に産んだ子供です。
このヴァラドン、かなりモテたらしく、シャヴァンヌ、ロートレックや
エリック・サティなど錚々たる面々が恋人でした。
ルノワールの有名な作品《ブージヴァルの踊り》のモデルでもあるんですよ。
画家としての才能もあったらしく、まだ若いヴァラドンは自分のために生きるのに必死で
息子モーリスの世話は自分の母親にまかせっきりだったようです。
ところで、このユトリロというフランス人らしくない名前はなぜなんでしょう。
これは、スペイン人のジャーナリスト、ミゲル・ユトリロという人が
モーリスが7歳のときに息子として認知したからなんです。
ただ、ミゲル・ユトリロが実際の父親かどうかは不明です。
(ヴァラドン自身も誰が父親なのかわかっていなかったとも!!)
祖母の元で育てられたユトリロは当時はそんなに不思議でもなかったようですが、
ワインをかなり小さい時から飲んでいたとか。
孤独で心に大きな影があったユトリロは次第にアルコールに溺れてゆき、
17歳のときにはすでに立派な?アル中でした。
1901年、ユトリロ17歳のときにパリのサン=タンヌ精神病院に入院します。
ここで、医者に絵を描くことを勧められ、画家ユトリロが誕生します。
ユトリロの画風は主に3つに分けられると言われています。
1903年から1907年頃までの「モンマニー時代」
これはユトリロがパリ郊外のモンマニーに住んでいたころの風景画で、厚塗りの粗くて暗いタッチが特徴です。
次に1907年頃から1914年までの「白の時代」
このころの詩情あふれる作品がユトリロの作品のなかでも傑作が多いと言われています。
それに続くのが1914年以降の「色彩の時代」
徐々に画家としての名声をあげていったユトリロですが、それに反比例して作品からはかつての緊張感と生気が失われていったとも・・・
「白の時代」のユトリロは画家としては実り多き時代だったのですが、
生活は酒のために荒れに荒れた時代でもありました。
酒に溺れ、奇行を繰り返したため、街中で絵を描いているときでも罵声を浴び、
仕事の邪魔をされることが多くなってきたため、
絵葉書をもとに室内で制作することも多くなっていきました。
絵葉書をもとに制作していることを批判されたりもしたようですが、母親は
「息子は絵葉書から傑作を創りました。他の人たちは傑作を創っていると思いながら、実は絵葉書を創るだけなのに」
と言って反論したとか。
ユトリロが制作のもとにした写真の中には、
ウジェーヌ・アジェの写真も含まれていることが多くの評論家に指摘されています。
(アジェは色んな画家に写真を売ってまわっていたようです)
この頃、ユトリロはモディリアーニと知り合います。
意気投合した二人は泥酔して
「ユトリロは最高の画家だ」
「ちがうぞ、モディリアーニが一番だ。奴はもっと飲めるんだ」
と叫びながらお互いをほめ合っていたというエピソードも・・・
ユトリロは自分の思う「白」を表現しようと試行錯誤を繰り返します。
そしてパレットの中の白に砂や漆喰を混ぜるという方法を編み出したのです。
ユトリロはもしパリを離れるとしたら何を思い出として持っていくかと聞かれ
「漆喰のひとかけらを持っていくだろうね」と答えています。
ユトリロにとって、モンマルトルは漆喰の手触りとともにあったのかもしれません。
ユトリロは51歳のとき12歳も年上の裕福な未亡人と結婚します。
結婚してからというもの、ユトリロはほとんど外出もせず
自宅のなかに新たに建てた礼拝堂で一日に6、7時間祈り続けたそうです。
どうやら、何かに依存するタイプの人だったようです。
作品はユトリロの代理人をやっていた妻に言われるまま描いていたのですが、
この頃の作品はあまり評価が高くありません。
満たされちゃったんですかね。
1955年11月5日、訪れていた静養先のホテルで肺充血のために急逝します。
11月9日のパリでの埋葬の日には、なんと5万人の群衆が葬列に従ったとか。
ユトリロはかつて自分の絵の中にもたびたび登場させた「ラパン・アジル」という
酒場の向かいにあるサン=ヴァンサン墓地に眠っています。
『モーリス・ユトリロ展 -パリを愛した孤独な画家-』は損保ジャパン東郷青児美術館で2010年7月4日(日)まで開催中
ネットで見れるユトリロ作品
(ポンピドゥー・センターがたくさん作品を持ってるんですが、残念なことに著作権の都合で見ることができません。余談ですが最近フランスはネット上での著作権管理にかなり厳しくなっているような気がします。)
《La Butte Pinson》 vers 1905 – 1907 Musée de l’Orangerie
《ノートル・ダム/ Notre-Dame》 vers 1910 Musée de l’Orangerie
《Grande Cathédrale ou Cathédrale d’Orléans》 vers 1913 Musée de l’Orangerie
《Eglise de Clignancourt》 vers 1914 Musée de l’Orangerie
《Rue du Mont-Cenis》 1914 Musée de l’Orangerie
《Rue du Mont-Cenis》 vers 1914 Musée de l’Orangerie
《Eglise Saint-Pierre》 vers 1914 Musée de l’Orangerie
《ベルリオーズの家/ La Maison de Berlioz》 1914 Musée de l’Orangerie
《The Butte Pinson》 c. 1905 Foundation E. G. Bührle Collection
《ポルト・サン・マルタン/ Porte Saint-Martin, Paris》 c. 1910 Foundation E. G. Bührle Collection
《サン・セヴランの聖堂/ The Church of Saint-Séverin》 c.1913 National Gallery of Art
《マリジー=サント=ジュヌヴィエーヴ/ Marizy-Sainte-Geneviève》 c.1910 National Gallery of Art
《ラヴィニャン街の眺め/ 40, Rue Ravignan》 c.1913 The Metropolitan Museum of Art
《テルトル広場/ La Place du Tertre》 c.1910 Tate Gallery
《ポルト・サン・マルタン/ La Porte Saint Martin》 c.1910 Tate Gallery
《Le Passage Cottin》 c.1910 Tate Gallery
《サン=ティレールの教会/ Church at St Hilaire》 c.1911 Tate Gallery
《Vase de Fleurs》 c.1938-9 Tate Gallery
《サルセル、ポン広場/ Place du Pont, Sarcelles》 1911 Philadelphia Museum of Art
《Place du Tertre, Montmartre》 c. 1912 Philadelphia Museum of Art
《ラパン・アジル/ The Ancestral Property of Gabrielle d’Estrées (Le Lapin Agile)》 1913 Philadelphia Museum of Art
《Berlioz’s House》 1914 Philadelphia Museum of Art
《パリのサント=マルグリート教会/ Église Sainte Marguerite, Paris》 1911 Kunsthalle Mannheim
《The Church of Saint-Nicolas-du-Chardonnet, Paris》 c. 1915-1921 The North Carolina Museum of Art Foundation
編集部:森 優子
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