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『だまし絵』のデパート 《だまし絵展 レビュー》

2009 年 9 月 28 日 5,780 views No Comment

 当たり前のことではあるが本展覧会においてまず人々の注意を引きつけるのは『だまし絵』展という展覧会のタイトルではないだろうか。
『侍ジャパン』という野球日本代表チームのニックネームがいかに重圧であったかイチローが語っていたのは記憶に新しいが、『だまし絵』展というタイトルも負けず劣らず積極的かつ攻撃的なものである。否応なく来館者の意識は、騙されるか、騙されないか、というところに向かってしまうからである。筆者はCG作品が横行している現代において絵画作品に目がだまされることが有り得るのだろうか、そんなことを考えながら会場に足を踏み入れた。

 展示は時代と地域をもとにして六つの章に分けられている。第一章では視覚トリックを用いて制作された15世紀から18世紀半ば頃までの作品を『だまし絵』の古典と位置づけ、種々の視覚トリックを用いた作品を紹介している。作品によっては「これってだまし絵なん?」、「だまし絵ちゃうやん!」といった鑑賞者の突っ込みが聞こえてくるものもあるが、目の前にある作品が『だまし絵』なのかどうか、自分は今騙されているのかどうか、『だまし絵』との駆け引きを始めた人は既に『だまし絵』の世界、疑いのスパイラルにどっぷり漬かっている。

 第二章では『トロンプルイユ』と総称される作品が取り上げられている。美術館の解説によると「『トロンプルイユ』とはフランス語で『目だまし』を意味し、目の前にあるのは『本物の』事物であるという錯覚を起こさせることを意図する概念の総称として用いられる。」(注1)とのことであるが、逆に言えば絵画をいかにして絵画に見えないように描くかということとして解釈することもできよう。第二章では第一章に比べ動きの少ない作品が多いが、ファン・オスターデの『水彩画の上に置かれた透明な紙』(no.16)や、ロラン・ダボの『フランス・スペイン最終和平条約のトロンプルイユ』(no.17)は作品に近づいても絵画かどうか分からないほどリアルに描かれており一見の価値がある。

 第三章では19世紀中頃以降のアメリカで流行した『トロンプルイユ』を紹介している。時代的な差異もあるので一概には言えないが、アメリカ人が好んだ主題と第二章で紹介されているようなヨーロッパで好まれた主題とを比べながら鑑賞すると面白いかもしれない。

 第四章で紹介されるのは日本の『だまし絵』である。「アルチンボルトからマグリット、ダリ、エッシャーへ」というポスターのキャッチコピーからすれば場違いに感じられるかもしれないが、第四章は『だまし絵』展において重要な位置を占めている。西洋における『だまし絵』の流れを辿ってきた鑑賞者は第四章において少なからず、昔の日本人がいかに豊かな感性を持っていたか、また日本がどういう文化や歴史を持っているのかを感じ、同時に今後自分たちはどうしていくのか、どうしていくべきなのかということをも感じるであろう。恐らくこの問いに対する答えの一例が第五章、第六章において示されているのではないかと筆者は勝手に解釈しているわけであるが、この勝手な解釈に従えば第四章は第一章から第三章までと第五章・第六章とを繋ぐ展覧会の中核にあたる。第五章以降の作品について考えるためにも是非本章では、歌川国芳の作品が単にアルチンボルトの作品を日本的に描き換えただけのものであるか否か、『描表装』が『トロンプルイユ』を日本的に解釈し直しただけのものであるか否か考えながら鑑賞してみて欲しい。

 第五章は九割がマグリット、ダリ、エッシャーの作品で占められている。『シュールレアリスム』という言葉はよく耳にする言葉であるが、マグリットやダリの作品は思想的、哲学的なものと結びついている部分が大きい。それゆえマグリットやダリは第三章までの画家とは異なった入り組んだ目的のために作品を制作している。マグリットやダリは目に見えるものの不確かさを敢えて目に見えるもので、言い換えれば絵画作品が疑わしいものであるということを絵画作品によって表現しようとしているのである。すなわち第三章までの作品は見る側(鑑賞者)の不確実性を追求するだけのものであったが、マグリットやダリの作品は見る側の不確実性に加えて見られる側(作品)の不確実性をも追求する段階に至っているのである。自分自身がおかしいのか、対象がおかしいのか、第五章において鑑賞者は視覚的な領域のみならず精神的な領域までもが揺さぶられはじめる。

第六章では現代美術における様々な視覚トリックが紹介されている。本来現代美術と言われる分野では、どの支持体(媒体)を選択するか、どの道具を用いるか、どの様な方法で制作するかといった問題が非常に重要であり、誤解を招く言い方ではあるが作家は常に行為や手段に意味や価値を付加する必要に迫られている。ではあるが、第六章において展示されている作品の多くは理屈抜きに楽しめる作品ばかりである。正否については議論の余地があるものの、現代美術の作品を現代美術という枠の中ではなく、あくまでも『だまし絵』という枠のなかで捉えようとする姿勢は評価されるべき点である。

美術館を出ても『だまし絵』展は終わらない。普段何気なく通り過ぎているビルや看板が『だまし絵』のように感じられてしまう時間がしばらく続くことになる。見るという行為が目だけでなく心も使って行われている行為であることを改めて認識させられる瞬間である。一見すると娯楽的な要素が大きい『だまし絵』ではあるが、美術館を出ても意識してしまうほどに実は奥が深いようである。

以上、各章における見所を中心に『だまし絵』展の全体を概観した。『だまし絵』というテーマに沿った全体の話の流れと、各章における主張とが見事に両立されているところからは、企画者がいかに丁寧な仕事をしているかが垣間見えるような気がする。『だまし絵』展の内容の面白さと構成の上手さは、夏休みが終わっても子供を連れた来館者が多いということが何よりも証明しているだろう。
堅苦しい話はこれ位にして、とにかく美術館に足を運んでみて欲しい。きっと兵庫県立美術館では遊園地や水族館、動物園とはまた一味違った体験ができるに違いない。

text:吉田卓爾

「だまし絵」展の展覧会情報はコチラ

(注1)『だまし絵』(展覧会図録) 中日新聞社、2009年。49頁。


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