見えないものの感触《藤本由紀夫 SHADOW— exhibition obscura—レビュー》
台座に並べられた、ロダンのブロンズ像。けれども薄暗い照明の下で、それらの輪郭を完全にとらえることはできない。照明がごくわずかに限られたこの部屋で、すべては「見られる」ことを拒むかのように、淡い闇の中に包まれている。それだから、作品の形を知るために、ぼくたちは実際に自分の手で触れてみる必要がある。指先や手のひらで像をなぞり、あるいは握りしめてみる。そうすることで初めて、ぼくたちは視覚には収まらなかった像の姿を知ることができるのだ。
ふつう、ぼくたちは美術館の中で作品に触れることを禁止されている。柵によって、ぼくたちと作品とはへだたれ、どの展示室でも常に学芸員が目を光らせている。いくら身を乗り出して顔を近づけようとも、作品に触れることだけは出来ない。それはアキレスと亀のパラドックスのように、決して埋まることのない近くて遠い距離だ。それでもぼくたちは、その距離を少しでも縮めようと、目を凝らし、作品をじっと見つめる。ところがこの薄暗い展示室では、そのような行為はほとんど無意味だ。
藤本由紀夫氏が展示構成を担当したこの展示室には、彼の作品を中心に、美術館所蔵の作品が数点展示されている。
――目があるから見えないものが存在し、耳があるから聞こえないものが存在し、身体があるから触れないものが存在し……
そう壁に書かれた廊下を通り抜け、展示室に入ると、薄暗い室内には不思議な世界が広がっている。いくつも混ざり合ったオルゴールの音色が不思議な静かさで鳴り響き、向こうの方では数体のブロンズ像に人々が手を触れている。出口に通じる廊下では200個の時計が針を刻み、そのそばには眼鏡をかけた男性が、奇妙な長いパイプを両耳に押し当てて座っている。
この展示室で「見る」ことは、それほど重要ではない。視界はそれほどきかないし、何より、目だけではとらえられない情報が部屋の中にはあふれているからだ。視覚だけにたよった今までの鑑賞方法は、ここでは通用しない。時計の刻む音やブロンズ像の質感は目で見ることは不可能だ。眺めているだけでは分からない、ぼくたちは作品に触れ、あるいは耳を澄ませなければならない。
実は、展示室にいるうちに思い出した体験がある。それはぼくが小学生の夏休みのときのことだ。ちょっとした冒険心から、ぼくはひとり海辺の洞窟に足を踏み入れた。どんどんと奥に進むにつれ、洞窟の中はせまくなり、辺りは暗くなってくる。やがて目の前はほとんど何も見えなくなり、手探りで道を見つけなければならない。そのとき、湿った岩肌の感触は手のひらだけでなく、全身で感じることができたし、遠くから聞こえる波の音や自分の足音は不思議な質感を持っていた。目が見えなくとも、世界は暗闇ではなかったのだ。
展示室の隅におかれた藤本氏の作品、『EARS WITH CHAIR』。椅子の両脇に長いパイプを設置しただけの、複雑な仕掛けもなければ電気を使うこともない、単純な装置だ。材料さえ与えられれば、ぼくにも簡単につくることが出来るだろう。けれども椅子に座り、両耳にパイプを当てたときに聞こえてくる音は、ぼくの想像を大きく超えている。部屋中の音がすべて入り混じり、まるで触れることができるかのような質感を持った生々しい音響が、輪を描いて頭の中に広がる。この椅子に座ったとき、恐らく誰もが、音の持つ存在感の大きさに驚くだろう。それは決して「目に見えるもの」に劣ることはないし、それどころか遥かに勝っているように思える。
考えてみれば、ぼくたちは、知らず知らずのうちに目に見えるものに頼りすぎているのかもしれない。少し外を出歩けば、無数の広告が飛び込んでくるし、真夜中になっても、街が暗闇に飲み込まれることはない。その中で、目に見えるものをぼくたちは何の根拠もなく過信してしまいがちだ。
――いちばんたいせつなことは、目に見えない。(『星の王子さま』河野万里子訳)
一度「見る」ことからはなれたとき、そこにはまた新しい世界が広がっているのかもしれない。
text:浅井佑太
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