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見えない世界をめぐる旅 《リフレクション―映像が見せる“もうひとつの世界” レビュー》

2010 年 3 月 29 日 3,222 views No Comment

スイッチを押すとニュースやドラマを映し出すテレビ、街頭の巨大なスクリーンや電車内のモニターに流れる色鮮やかな広告、インターネット上に氾濫する膨大な数の動画・・・。私たちの身の回りには様々な「映像」が溢れ、普段の生活でそれらから逃れて暮らすことは、ほとんど不可能に近い。こうして目につくものほぼ全てが映像化され、消費されているかのような日々の中で、ふと、次のような思いが頭をよぎることがある。
あらゆるものが「映像(・・)」として見せられている(・・・・・・・・・・)状況下では、もしかすると、「何を見ているのか/何が見えているのか」という問いよりも、「何を見ていないのか/何が見えていないのか/何が見せられていないのか」と問うことの方が重要なのではないだろうか ——?
水戸芸術館での展覧会《リフレクション―映像が見せる“もうひとつの世界”》は、そうした「見えないもの/隠されたものを可視化するメディア」として映像を用いた作品で構成されている。日々、様々な映像に接しながらも私たちに「見えていないもの」=「もうひとつの世界」とは一体どういうものなのだろう?


会場に足を踏み入れると、何かを漕ぐような不思議な物音が聞こえてくる。まだ暗闇に慣れない目を前方のスクリーンに向けると、ひとりの男性が何やらおかしな乗り物を両手で漕ぎながら、地上から地下へ、人気のない駅を通り抜け、再び地上へと、夜の線路上を進んでいく。マティアス・ウ゛ェルムカとミーシャ・ラインカウフの2人による《In-Between》は、ベルリンの交通システムの主軸である地下鉄の線路を自作の乗り物でたどるというパフォーマンスを記録した映像だ。普段、電車という箱に収まって移動する空間に生身の体で入り込むという行為を追体験させるような映像の中では、コンクリートで固められた無人の駅や、時折轟音とともに走り去る列車、そして都市中に張り巡らされた地下鉄道の空間全体が、私たち人間とはまるで異質な、相容れない存在のように思えてくる。その一方で、電灯の白く冷たい光に照らされ、束の間の静寂に包まれたその非日常の世界は、不穏でありながらも一種独特の美しさに満ちてもいる。普段は「移動」という目的や、プラットフォームに溢れる人や情報によって隠され、私たちが肌身で感じることのできない都市のもうひとつの時空間、その非-人間的で美しい表情を、「電車に乗らずに線路を辿る」というごく単純な行為が浮き彫りにしている。
もうひとつの作品《Thanks Anyway》は、停車中の電車やトラム、バス、警察車両のフロントガラスを無断で掃除するというパフォーマンスの記録である。「いいサービスだね」と笑う者、「お金は要らないよね?」と確認する者、怪訝な表情で「許可を取ったのか?」と尋問する者、警察に通報する者・・・。無断で行われるのが掃除という善行なだけに、それに対する運転手の反応は様々だ。全てが「申請—許可」という約束によって機能する社会のシステムと、無断の掃除という行為の間に起こる摩擦=様々な反応からは、都市の秩序を維持・管理するため人々の意識の中に設けられた見えない壁の存在と、そこに孕まれた皮肉な矛盾が浮かび上がってくる。

藤井光が、若くして路上生活を送る一人の男性と共同で制作した映像作品《Social Labor》は、順路に沿って吊るされた3つのスクリーンから成る。最初の映像には路上生活者である男性が映し出され、頭上のスピーカーからは自身の生い立ちや路上生活に至るまでの経緯について話す彼の声が流れてくる。音声と映像は別々に収録されたもので、映像の中の男性はただ無言でじっとしているだけだ。正面からビデオカメラを向けられ身動きせずにいるというのは、撮られる側にとっては時に堪え難いほど居心地の悪い経験であり、また、盗撮や監視カメラが端的に示してもいるように、「撮る−撮られる」という関係には一方的・抑圧的な要素が含まれている。ここでは、映像に潜むその抑圧的な構図と、社会の中で虐げられて生きる男性の立場とが重ね合わされているかのようだ。ところが、次の映像では、男性が藤井と2人でビデオカメラをセットしたり、マイクを調節したりと、共同で作業する光景が映し出され、「撮る−撮られる」という関係が相対化されている。そして、最後の映像には、赤いビデオカメラのモニターがこちら向きに置かれ、路上生活者たちが市の職員らしき人物から立ち退きを命ぜられている様子が映し出されている。そのビデオカメラが最初の映像で男性が首から下げていたものであることから、映像は男性自らが撮影したものだということがわかる。つまり、ここでは、ビデオカメラによってもたらされる〈抑圧→解放→能動〉という変化の可能性が、3つの映像によって具現化されているのだ。

このように、ウ゛ェルムカ&ラインカウフや藤井による映像作品は、私たちを取り巻く社会という外の世界にカメラを向け、普段の生活の表面からは隠蔽され、あるいはその一部として巧妙に組み込まれている目に見えない社会の仕組み、そこに潜む綻びや矛盾を、事実の記録=ドキュメンタリーというかたちであぶり出している。

八幡亜樹による《circus tent Blue》では、とある町の河原でピエロのように化粧をし、ブルーのサーカス小屋のようなテントを張って暮らす男性と、彼を取り巻く人々との交流や葛藤を追ったドキュメンタリーとして展開する映像を、実際にブルーの布で囲まれたテントのような空間の中で鑑賞する。河原で遊ぶ小学生と作者は、次第に彼(ピエロ)と親しくなるが、彼は公共の土地での不法居住を理由に立ち退き命じられ、人知れずその地を去ってしまう。
藤井の《Social Labor》と同じく、社会の中心部から斥けられ、普段積極的に目を向けられることのない人々の存在が映し出されているが、作品解説にもある通り、淡い光に包まれた映像は、事実の記録にも、演出されたフィクションにも見える。しかし、虚実の判然としないその映像は、あるひとつの事実、すなわち、「全てのものについて公共/私有の帰属を明確にし、人々が名前と肩書きによって定義されることを要求する社会は、異質な存在にも無理矢理に名前を与え分類することで自らのシステムの中に取り込もうとする」という事実を如実に物語っている。そして、固有の名前や顔をもたないまま姿を消してしまうピエロ=実在と虚構の間で揺れ動く存在は、管理社会の網目にからめとられずに存在することの不可能性と可能性の両方を暗示しているのかもしれない。

その隣には、内部が5つの小部屋に仕切られた白い円筒状の構造物が置かれている。宇川直宏の《Dr.Toilet’s Rapt-up Clinic 2010》だ。部屋のひとつに入ると、なんと、個室のトイレになっている。便座に腰掛け、怪しげなメガネ(目を開けてはいけないと指示がある)とヘッドホンを装着すると、閉じたままの目の前でチカチカと点滅する光の影がアメーバのように蠢き、耳には音楽とも音声とも雑音ともつかない強烈な音の波が飛び込んでくる。トイレに見立てられた密室で、脈打つように連動する音波と光波によって恍惚とした感覚に引き込まれる体験をした後、個室から出て次の部屋へ進むと、そこには予想外の事実が待ち受けていた。(ここで初めてトイレという設定にも納得がいく。)プライバシー保護を唱えて監視社会を批判する動きがある一方で、公共空間におけるプライバシー侵害の問題が近年ますます深刻になりつつあるという、私たちの社会が抱え込む矛盾した事実を、光と音による瞑想的な体験の後で唐突に突きつけられる、鑑賞者の意表をつく挑戦的な作品だ。

社会の周縁に追いやられた小さな存在に目を向けながらも、その虚実については曖昧さを残すことで、事実の記録以上に見る人の心を事実に近づけようと試みる八幡の映像世界や、光と音が脳内で結合するかのような純粋に知覚的な体験の後、公共性/プライバシーという社会的な問題が暴き出される宇川の作品では、映像がドキュメンタリーとフィクションの間を揺れ動き、鑑賞者は内的な体験をしつつも、外の世界についての問題意識へと引き戻される。これらの作品体験は、外に向けられていた鑑賞者の意識が、次第に内側へと向けられていく転換点であり、双方の要素が交錯する中間地帯ともいえるだろう。

ローラン・モンタロンによる《Will there be a sea battle tomorrow?(海戦は明日あるだろうか)》では、ひとりの女性が、何かの研究棟のような建物内の部屋をめぐり、研究者と思しき男性からの問いに、4つのボタンのうちのひとつを押して答えていく。女性の予知能力についてのテストらしい。男性の手元のリストから、問いは全部で25程あることがわかるので、最初の問いから最後の問いに至るまでの展開を見届けることでストーリーの全容を把握しようと試みるのだが、映像にはループがかかり、さらにタイムラインがところどころで置き換えられているらしいことが徐々にわかってくる。こうした映像特有の操作によって、私たちにとっての前提である「映像の始まりと終わりを見極めることで筋書きを把握する」という意識の働きはあやふやにされ、延々と繰り返される女性と男性の寡黙で不可思議なやりとりに、永遠に続く夢の中で何かの暗示を探しているかのような、朦朧とした気分に引き込まれてしまう。

展覧会のラストにくるのは、さわひらきによる映像インスタレーション《O》だ。所々オレンジ色の電灯で照らされた薄暗い部屋には、3つのスクリーンが置かれ、地表、林の木々、古い家の室内がそれぞれに映し出されている。部屋の中を飛ぶ鳥の群れが隣のスクリーンに映る木々の上空へと移動し、その隣に映し出される空や大地は地球の自転を感じさせるようにゆっくりと動き、部屋の壁に映る観覧車の影や、時計の針の運動に繋がっていく・・・という具合に3つの風景は密かに連動し合っている。また、展示室の壁には瓶やコイン、その他さまざまなものが独楽のように円を描きながら延々と回り続ける映像が並び、部屋の隅に置かれた不思議な箱からは、何かの回転音が絶え間なく鳴り響いている。まるで部屋全体に円環運動のゆるやかな波紋が広がり、鑑賞者を包み込んでしまうかのような、心地よく幻想的な音と映像の世界が存在していた。

モンタロン、さわひらきによる綿密な演出、ループ、コラージュなどを施した映像作品やインスタレーションは、夢の中、あるいは頭の中のみに存在するような、夢幻的なイメージを視覚化し、その哲学的でもあり、詩的でもある映像体験によって鑑賞者を静かな内省の世界へと導いていく。

展覧会の冒頭、《In-Between》での都市の胎内巡りのような映像が象徴するかのように、会場を巡ることによって私たちは、社会という「外側」において「見えていなかったもうひとつの世界」と、私たち自身の「内側」に存在する「目に見えないもうひとつの世界」を旅することになる。また、その過程において、カメラを挟んだ「撮る—撮られる」という関係や映像の時間軸(タイムライン)、監視カメラが記録した映像など、映像に映し出されることのない要素や、通常映像として見せられることのない映像といった第3の「目に見えない世界」にも意識は広げられていく。そして、「外」から「内」へと徐々にシフトしていく展覧会全体の構成は、外の世界=社会と、その中で生きる私たちの内面とは、明確に区別することはできず、表裏一体となって互いに反射=リフレクトし合っているということを示唆しているかのようでもある。
 
「現代美術の映像作品を集めた展覧会の鑑賞は疲れる」という定説がある。確かに、映像は始まりから終わりまでを見届けなければ鑑賞したことにならないような不安にとらわれ、絵画や彫刻のように自分のペースで観ることができないし、映画のように明確なストーリーをもつものは少なく、釈然としないまま作品の前を立ち去ることになれば、徐々に疲労と不満が溜まってくるのも仕方がない。
しかし、それは映画やテレビ番組に慣れてしまった私たちが、映像というメディアに対し、無意識のうちに娯楽性や明確でわかりやすいメッセージ性を求めていることの現れでもある。リフレクション展における映像作品たちは、私たちがそうした無意識の欲求や期待を捨てて、自分がこの世界で生きていくために持つべき問題意識や、小さな発見に満ちた日常生活を営むために必要な想像力をもって注意深く、時には我慢強く向き合えば、それまでは見えていなかった新たな世界の像を見せてくれる。このことを踏まえて、映像美術の可能性を実感させてくれる本展に(時間に余裕を持って)出かけてほしい。

text:きよさわみちこ

「リフレクション―映像が見せる“もうひとつの世界”」展の展覧会情報はコチラ



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