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「具象的な絵画」からの問いかけ《絵画の庭 ─ ゼロ年代日本の地平から展 レビュー》

2010 年 1 月 28 日 3,546 views No Comment

今月16日より、国立国際美術館で始まった『絵画の庭 – ゼロ年代日本の地平から』は、2000年代最初の10年間=「ゼロ年代」における日本の具象的な絵画の動向に焦点を当てた展覧会である。今年81歳となる草間彌生、そして奈良美智など50年代後半〜60年代生まれの「先行世代」から80年代生まれの「ゼロ世代」まで、28名のアーティストが参加している。会場は作家ごとに展示スペースが仕切られ、さながら28の個展がずらっと同時開催されているかのようだ。展示全体のボリュームもさることながら、部屋ごとに現れる表現の、とりあえずは「具象的」としか括ることができないほどの多様さにも目を見張るものがある。

しかし、そもそも「具象的」とは、どういうことだろうか?「具象」というのは、私たちが手を触れられる、ある具体的な物体の目に見える姿のことである。つまり、「具象的な絵画」とは、何らかの具体的な事物がモチーフとして描かれた絵画のことを言い、そして、具象的な絵画には、そこに描かれたモチーフをきっかけとして見る者に様々な意味や物語を連想させるという性質がある。こうしたことを踏まえて、もう一度、この展覧会の「具象的な絵画」を見ていくと、それらが一体どのように多様なのかということ、そしてその多様性の奥深さが見えてくる。

例えば、「人間」は具象的な絵画における代表的なモチーフだが、加藤泉と町田久美は、ともに「人間」をモチーフとしながらも、両者の表現方法は対照的だ。加藤は、大きな頭部に単純化された体で、顔だけを正面に向け静かに佇む人間の男、女、子供と思しき生き物を、鮮やかな原色と沈んだ色調のグラデーションという独特の色使いによって描く。人物の輪郭は「線」としてではなく、その身体を包む薄い皮膜のように表現され、人物の像と周囲の色面とを緩やかに隔てている。一方、町田は、淡いグレーの背景に、はっきりとした墨の輪郭線で赤ん坊や幼児を思わせる人物像を描き出す。他の色は極力使わず、例えば首に巻かれた紐だけが赤く塗られたり、瞳がかすかに青みがかっているという具合だ。
ただ、全く異なる印象の描写でありながらも、2人によって描かれる人間の姿からは、ある共通した、言い表しようのない不穏な空気を嗅ぎ取ることができる。加藤が描く、子宮の中の胎児のようでも、また、皮膚を剥ぎとられたむき出しの肉体のようでもある人体と、その強調された乳房や、どこか凶暴さを感じさせる瞳、指のない手足は、私たちが日々身体的・心理的に感じながら、無意識のうちに抑えつけている言語に還元できない感情の揺らぎや、やり場のない衝動を視覚的に浮かび上がらせているかのようだ。
また、町田の絵の中の子供たちは、《雪の日》では見上げるように、《深夜帯》では見下ろすように、《夜の出来事》では背後から、と様々な角度で描かれる。それは、もうひとりの「誰か」の視点を強く感じさせ、《優しい人たち》では実際に、腫れ物のできた子供の頭を優しく抱え込む二本の腕が描かれている。しかし、描かれる子供はいずれも、感情の読み取れない、虚ろな目をしている。こうした町田の表現は、人と人との間に横たわる微妙な距離感や、他人との関係のなかで生じる寂しさや優しさ、孤独といった感情をそこはかとなく漂わせている。
加藤と町田の絵画では、「人間」という具象的なモチーフが、対照的な色や線で表現されている。そして、そこには、私たち人間が抱え込む根本的な矛盾という共通のテーマが、自分の内面や身体に対する形容しがたい感覚と、人間同士の社会的・個人的な関係の中で感じる不安定な立ち位置という、ふたつの異なる角度から暗示されているのだ。

描かれたひとつの画面から、その前後の文脈や周囲の状況を想像させるという具象絵画の物語的な性格についても、様々な表現が見られた。村瀬恭子は、多方向に動かされた絵筆の掠れ、色鉛筆の硬くて細かい線の描写や、固形の絵具の粒がにじんだ痕跡などによって、画面全体が生命の蠢きともいえる、ある「気配」に満ちた世界を描き出す。気流を感じさせる大気の層と、生い茂る木々の枝や草花の蔓、その陰=背後に描かれた少女たちの長い髪が互いに溶け合う、その不思議な画面の奥行きを目で追ううちに、まるで風と木葉のざわめきや、少女たちの笑い声までもが聞こえてきそうな気がする。
 村瀬による幻想的な絵画世界とは対照的に、後藤靖香が墨汁で描く大きな画面は、モノトーンの陰鬱な空気で覆われている。第二次世界大戦中に餓死した大叔父についての祖母の話をもとに描かれる後藤の絵画は、ゼロ世代による戦争絵画として見ることができる。とはいっても、その悲惨さを生々しく伝える直接的な表現は使われない。描かれた場面は具体的にどのような状況か判然とせず、漫画の一コマを大きく引き延ばしたかのような印象を与える。それでも私たちは皆、描かれた男たちの丸刈りや、統一された飾り気のない服装、彼らの浮かべる険しい表情や怯えたような面持ち、そして《ツレカエル》《青空仰ゲ》などの暗号を思わせるカタカナ表記のタイトルによって、それが「戦時中」の一場面であるということを感じとることができる。後藤の絵画と鑑賞者の間のこうした関係は、漫画『はだしのゲン』や、修学旅行で行われる平和学習、テレビで放送される白黒の記録映像などの、戦争についてのあらゆる記憶と記録、すなわち、「追体験としての戦争」を繰り返し経験してきた世代が共有する漠然とした「戦争」のイメージをあぶり出しているかのようだ。
幻想的な表現で見る者の想像力を解き放つ村瀬と、漫画風の大画面を通して、現代に生きる私たちが無意識のうちに共有する、特定の時代についての虚構と現実が入り混じったイメージを暗示する後藤。彼女たちの表現は、具象的な絵画がもつ物語性の、ふたつの異なるあり方を示している。
  
ところで、冒頭で述べたとおり、「具象」というのは、現実に存在する何らかの具体的な事物の姿のことだが、一方、「抽象」とは、その具体的な事物を成り立たせている様々な要素(視覚的な要素に限っていえば色や形、大きさなど)のうち、特定の要素だけを取り出し、その他の要素を取り除いてしまうことをいう。この展覧会の焦点となっているのは「具象的な絵画」だが、当然、「抽象的な絵画」というものも存在する。
20世紀初頭、写真が発明されたことによって、絵画の目指すところは、3次元の世界を2次元の平面上に再現すること(写実主義)から、その3次元の世界を基本的な要素である形や色に分解し、それぞれの性質や関係を分析することへと方向転換された。つまり、現実の世界に存在する具体的な物の姿=具象的なイメージを描き写すのではなく、そのイメージを成り立たせている要素をできるだけ明確に分割し、イメージと、それを見ることの構造を明らかにしようとしたのである。
こうした方向性のもと、3次元の世界から分離された幾何学的な形態や色などの抽象的な要素のみによって画面を構成し、2次元の世界だけで完結する表現=「抽象的な絵画」を追求しようとする抽象表現主義が確立された。それに伴って、具象的なイメージは、画面の中に読み取られるべき意味や文脈を生み出し、2次元の世界の完結性を脅かすものとして絵画表現から排除されるようになった。
このような歴史を背景に、絵画における「抽象」と「具象」、あるいは、抽象的な形態による画面と、描かれたイメージの意味や物語性は、これまで相容れないものと見なされてきたのだが、ここ「絵画の庭」では、この2項対立の構図は必ずしも安泰ではないようだ。 
 
 例えば、O JUNの絵画に登場する、平筆による平坦な色面を塗り重ねることによって構築された人物や建物の像は、どことなくユーモラスな雰囲気を漂わせており、その前後の文脈や、それが描かれた理由を探りたくなってしまうのだが、それと同時に、白い紙の上に、遠近感や陰影など、写実的な脈絡を一切無視して唐突に描かれたモチーフたちは、今にもレゴブロックのように単なる幾何学的な部分の集合へと解体されてしまいそうな危うさも感じさせる。
また、杉戸洋は、三角形や四角形などの幾何学的な形態や、格子やストライブといった線の集合を多用した画面構成で絵を描く。しかし、ときに柔らかな、ときにいびつな輪郭で描かれる線や形態はなんとなく頼りなく、淋し気な印象を与える。そして、たとえば、淡い色合いの画面に蛍光ピンクの三角形が浮かび上がる印象的な色彩で描かれた《lesson1》では、三角形と直方体の組み合わせは塔に、緩やかなカーブはグランドピアノの蓋に、さらにそれら2つが合わさると羽根を広げた白鳥に・・・というふうに、抽象的な形態が見る者の想像力に働きかけて具象的なイメージへと変化し、その画面は詩的な世界へと変貌していく。
O JUNや杉戸の絵画においては、具象的な形態と抽象的な形態が絶え間なく入れ替わり、あるいは重なり合ったり、ズレたりしている。こうした揺れ動きのなかで、画面を構成する純粋な視覚的要素(色や形、またはそれらの関係性)は、それ自体として彼らの絵画世界の二次元的な魅力を支えながら、同時に、描かれたイメージの背景に物語的な広がりを生み出すきっかけとしても機能しているのである。

一方、法貴信也と秋吉風人は、絵画の抽象性と具象性という2項対立について、より自覚的にアプローチしているように思えた。
法貴の描く絵画は、無数に引かれた踊るような線描によって構成されている。よく見るとすべての線は赤と青、緑と紫などの平行な2本線から成っている。さらに、抽象的に見える線描は、ところどころで単純化された雪だるまやチューリップ、猫の頭などを思わせる具象的な形を成しており、それらを起点として画面全体に何か意味のある全体的なイメージを見出せそうな気がする。しかし、2本線による描写が生み出す、画面がブレたような、見ている側の目の焦点がずれているような独特の効果によって、描かれたイメージから何らかのまとまった意味を読み取ろうとする視線は着地点を見つけられないまま、抽象と具象、意味と無意味の間で宙づりにされた画面の上を空しく彷徨うことになる。
また、金一色を微妙な階調の差異によってムラなく塗り分け、空虚な室内をキャンバスの中に浮かび上がらせる秋吉の《Room》シリーズは、一見すると典型的な抽象画のように見える。しかし、そこでは、金色の色面という抽象的な要素だけで3次元の空間が再現されていて、いわば、抽象表現主義と写実主義という、相反するはずのふたつの表現の方向性によって、ひとつの絵画世界が形づくられているのだ。

欧米を中心として変遷してきた絵画の歴史を振り返ってみると、14〜19世紀のルネサンスやバロック期にかけては、画家たちは、その当時「普遍の真理」とされていた宗教的・哲学的世界観を通して世界をとらえ、それをキャンバスの上に忠実に再現しようとしていたし、20世紀前半には抽象表現主義が台頭し、それに基づく絵画表現が王道とされた。
けれども、もはや絶対的な真理や一義的な理論の正当性など存在しないゼロ年代の日本に生きるアーティストたちは、自分なりの物の見方によって世界を、自分自身を、そして世界と自分との関係を見つめ、心をとらえた風景や出来事や記憶の断片を独自の方法で繋ぎ合わせることで絵を描いている。そこでは、同一のモチーフも多様な世界観によってとらえられることで、互いに全く異なる表現となり、様々な意味や物語へとつながってゆく。ときに、その多様性は、絵画がその歴史の中で自らのうちに取り込んできた「抽象/具象」という、固定的な枠組みまでをも流動化させ、新しい表現を生み出す糧として、まるごと消化してしまう。そして、「絵画を見る」ということそれ自体について、私たちに問いかけるのである。
 
〈参考文献〉
市原研太郎 2002『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ワコウ・ワークス・オブ・アート
松井みどり 2002『カルチャー・スタディーズ|アート:“芸術”が終わった後の“アート”』朝日出版社
展覧会カタログ『絵画の庭−ゼロ年代日本の地平から』国立国際美術館


text:きよさわみちこ

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