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作品や美術館の、知名度≠価値≠値段《幕末浮世絵アラカルト展 レビュー》

2009 年 12 月 28 日 4,575 views 3 Comments

先日NHKの「WONDER × WONDER」という番組で贋作に関する問題を特集していた。
パネラーの山田五郎さんが「美術作品の値段が作品そのものの価値ということではないんです。」と言っていたのが印象的であった。少し次元の異なる話ではあるが展示作品の美術的価値と展覧会自体の良し悪しというのも決して比例するものではない。
国宝級の作品が多数出品されている展覧会であっても会場が混み合っていたら作品を鑑賞する心の余裕はなくなるし、専門用語を書き連ねた解説ばかりの展覧会では主催者側の意図や展示内容を十分に理解することはできない。そういった意味で伊丹市美術館の『幕末浮世絵アラカルト展』は好感の持てる展覧会である。
伊丹市美術館は自らの立ち居地や役割をしっかりと自覚しており、伊丹市美術館として来館者に伝えたいことをはっきりと示している。
伊丹市美術館のメッセージを読み取りながら『幕末浮世絵アラカルト展』の内容を見ていくことにしよう。

まず本展覧会のタイトルについて述べておこう。
『幕末浮世絵アラカルト―大江戸の賑わい―北斎・広重・国貞・国芳らの世界展』というタイトルは一見すると分かったような分からないような感じもするが、多様多種に展開した幕末の浮世絵の状況を上手く表現している。巨匠の作品が数点しか出品されないにも関わらず主題に巨匠の名前を使うような美術館もある中で、特定の巨匠を軸にして展開される浮世絵の展覧会とは異なった方向性で浮世絵に迫ろうとする伊丹市美術館の姿勢がタイトルによく表れているように思う。

展示会場に入るとまずキャプションの大きさに驚かされる。さらにキャプションの簡潔さにも驚かされる。
文字の大きさは通常の展覧会の二倍~三倍で、解説も絵を鑑賞する手助けとなるようなキーワードを交えながら必要最小限にまとめられている。作品のどういうところを鑑賞して欲しいのかという主催者側の意図がストレートに伝わると同時に、余計な解説が排除されているので自由に自分の感覚で作品を楽しむことができる。

展示作品についても見ていくことにしよう。収集する楽しみは浮世絵版画の大きな魅力の一つである。あたかも神を崇めるかのように鑑賞される平安仏画やルネサンス絵画とは異なり、浮世絵は本来もっと気楽に楽しめるもので、人々にとってはもっと身近な存在だったはずである。そんな当時の人々の楽しみを感じさせてくれるのが数枚続きの浮世絵版画やシリーズものの浮世絵版画である。例えば英山の『風流大井川』(三枚続き。作品番号2)や広重の『上野不忍の池』(三枚続き。作品番号20)を見ると紙ごとに色味や線の質が異なっているのがわかる。恐らくこれらの作品は一時期セットものとしてではなくバラで扱われていたのであろう。一人でセットものを買うことはできないので三人でお金を出し合い気に入った絵を取りっこした様子や、やっとの思いでセットものを買い揃えた様子が浮かんでくる。Jリーグチップスや野球チップスのカードを集めた経験のある人や、古本で漫画本を揃えた経験のある人なら、当時の人々がどんな思いで浮世絵を収集していたのかわかるのではないだろうか。

同じセットものでも役者絵や風景画はまた一味違った楽しみを教えてくれる。残念ながら筆者は芝居(歌舞伎)についての知識が全くないので役者絵についてとやかく言える立場ではないのだが、作品の題名やキャプションを見ていると市川団十郎、松本幸四郎、中村歌右衛門、尾上菊五郎といった知識のない筆者でさえも聞いたことのある名前が度々出てくる。先に述べた収集の楽しみもさることながら役者絵の場合、人物のデフォルメの仕方が非常に面白い。二百年も前の役者がどのようであったかは知る由もないが、団十郎は目が大きくいわゆる歌舞伎者といわれるような役がはまり役だったのではないか、歌右衛門は少しひねた感じのくせ者役が上手かったのではないか、といった具合に役者絵を見ていると遂々想像してしまう。また同じ役者が描かれていても絵師によってデフォルメの仕方に個性があり、技を競い合う絵師達の作品を収集するという楽しみも役者絵には含まれているように思う。

役者絵にも増して絵師としての力量を問われるのが風景画である。まさにデフォルメの連続である。恐らく北斎の『富嶽三十六景』(作品番号46~51)や広重の『東海道五拾三次』(作品番号53~60)の中に描かれた風景は実際には存在しない。一方で画面内の空間が何処であるのか鑑賞者が一目で分かるようなシンボルが絵の中のどこかに描かれているはずである。絵を見た者が行ってみたいと思うように誇張して描くと同時に現実離れしていると思わせないように抑制して描くテクニック、すなわち現実と想像を調合するバランス感覚が風景画には必要不可欠なのである。北斎と広重の作品を比較しながらゆっくり鑑賞できる絶好の機会なので、北斎広重論争に一票入れるとまではいかないまでも是非二人の作品を堪能していただきたい。
また本展覧会では『富嶽三十六景』の内の『山下白雨』が二図展示されている。浮世絵を見るときは絵師だけでなく摺師の存在を忘れてはならないということを伝えるための主催者の粋な計らいであろう。

最後に肉筆浮世絵についても触れておかなければなるまい。
不思議なもので版画にはない絵の魅力が肉筆画にはある。絵師が実際に筆を握って紙の上に描いた線というのは何とも言えない版画では決してみることのできない表情を見せる。毎度のように北斎を取り上げて恐縮であるが『猿』(作品番号151)を見ていると北斎の天才ぶりが本当によくわかる。猿が纏った衣の輪郭線には命が通い、衣に隠れた部分までも鑑賞者に想像させる程の力がある。何気ない衣の模様や毛並の表現も的確である。質素な絵でこれ程までに人の目を引きつけることできる画家はそうは居ないはずである。これに対し逆を行くのが広重の『両国の月』(作品番号153)である。『猿』とは画面形式が全く異なることを承知した上で敢えて述べると、『両国の月』は全てが計算し尽された様な作品である。橋を行き交う人々と橋の下を通過していく舟々が交錯し、霧でかすむ遠景の上には控え気味に満月が描かれる。また一本一本の線描は一度目を離したら消えてしまうのではないかと思うほどに優しく、観る者の心を惹きつけてやまない。街が夜の色気を魅せはじめる直前の穏やかで慌しい瞬間を捉え品良くまとめた、広重のセンスの良さが光る一品である。天才北斎の絵にも引けを取らない広重の傑作をご堪能あれ。
また女性の色気や魅力を個性的かつ上品にまとめた喜多川藤麿の『松茸狩り』(作品番号135)や菊川英山の『姫だるま』(作品番号141)も見逃さないで欲しい。肉筆画には贋作が多いという話を聞いたことがあるが、そんなことは関係ない。絵と真っ直ぐに向き合えば絵はきっと何かを語りかけてくれるはずである。

作品の値段が作品の価値ではないこと、展示作品の美術的・金銭的価値が展覧会の良し悪しには結びつかないこと、この極々当たり前なことを無意識のうちに忘れてしまうことが筆者にはある。国宝の出品されない展覧会から足が遠のいたり、小規模の美術館・博物館での展示を後回しにしてしまったりするのである。
「大事なものはもっと他にも沢山ある。」 そんなことを伊丹市美術館に教えられた気がする。

text:吉田卓爾

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3 Comments »

  • ひこさん said:

    『幕末浮世絵アラカルト―大江戸の賑わい―北斎・広重・国貞・国芳らの世界展』に私もですね、観覧してきました。歌川という一つの流派を本格的に知ることができ、「ああ、もう少し長く江戸時代が続いていたらなぁ」と思いました。そうすればもっと浮世絵が進化したのになと思いました。

  • 55museum (author) said:

    >>ひこさん 様
    コメントありがとうございます。
    この時代の浮世絵は見ていて飽きませんね〜。
    本当に江戸時代がもう少し続いていたらどんな風に進化したんでしょうね。
    妄想が膨らみます。

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