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異国へ通じる橋 《江戸の異国万華鏡―更紗・びいどろ・阿蘭陀 レビュー》

2014 年 8 月 2 日 5,067 views No Comment

日本とオランダの交流は、慶長5年(1600)にオランダの帆船リーフデ号が豊後国(現在の大分県)に漂着したのに始まる。当時、国内においてはポルトガルやスペインといったカトリック教国との交易が既に行われていた。徳川家康による江戸幕府の成立と、それ以降に敷かれた鎖国体制によって、それらの国々との関係は絶たれることになるが、
オランダとの通商は長崎県の平戸において継続された。江戸時代における交易の花形とも言える両国の通商関係は200年以上にわたり、日本国内に世界各地の文物をもたらす重要な窓口となった。滋賀県のMIHO MUSEUMでは、そのような江戸時代における日蘭交流の中で伝来した更紗やびいどろ、阿蘭陀などに焦点を当てた展覧会が2014年6月8日まで開催されていた。

慶長5年(1600)の9月15日に行われた関ヶ原の戦いは、その後の日本の行く末を決定付けたまさに天下分け目の戦いであったが、当時徳川家康率いる東軍の中でオランダ製の大砲や甲冑が使用されていたことはあまり知られていない。それらは関ヶ原の戦いのおよそ半年前に漂着した、リーフデ号の積載物であったとされている。

大航海時代の後半、オランダは他の西洋諸国と同じく極東進出を目指しており、1598年にはリーフデ号を含めた5隻の船団がロッテルダムを出航した。しかし、その航海は困難を極め、実際に東アジア地域に到達したのは船員の大半を失ったリーフデ号のみという悲惨な状況であった。漂着後、リーフデ号は大阪を経由して浦賀に回航し、家康の手に渡ったことにより、その備砲や砲員、甲冑などが関ヶ原の戦いの際に活用されることになった。またリーフデ号の生存者の中には、後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(耶楊子)やウィリアム・アダムス(三浦按針)が含まれていた。特に、リーフデ号の航海長であったウィリアム・アダムスは初めて日本を訪れたイギリス人としても知られている。

オランダの帆船にイギリス人航海長がいた背景には、その時代における両国が共に新教国の立場にあり、ポルトガルやスペインといったカトリック教国とは対立関係にあったことがあるだろう。実際にリーフデ号が漂着した際、国内にいたカトリックの宣教師達は船員達の処刑を五大老であった家康に進言している。江戸幕府の成立とともに、キリスト教の布教を重視とするポルトガルやスペインとの交易はしだいに制限され、商業目的の貿易を展開するオランダとの交易が鎖国体制下において主流となっていった。江戸時代の中期以降に描かれた《長崎港図》や《蘭館図絵巻》では、海洋にはためくオランダの国旗が多数確認できる。

《蘭船首像》は、オランダ商船の船首飾りと考えられ、当時の西洋装束を身にまとった2人の人物が楽器を演奏する様子が木造彩色像で表現されている。これらは平戸のオランダ商館と取引していた小川理右衛門が建立した寺院に伝来していた。航海上の安全祈願を目的として動物や人物の像を船に設置することは、古くから西洋で行われていた習慣であるが、それらは装飾性を増したり、人物像に特化したりと時代と共に多彩な様相を見せる。18世紀後半に描かれた《蘭船図》では船首に獅子、船尾に人物像のある船の様子が描かれている。先述のリーフデ号の船尾にはルネサンス期の人文学者であるエラスムスの木像が飾られていた。これはリーフデ号の元々の名がエラスムス号であったことに由来している。この像は幸運にも現存しており、重要文化財として東京国立博物館に寄託されている。《蘭船首像》と見比べてみると、エラスムス像の方がはるかに完成度が高いことが分かる。大航海時代においては後発国であったオランダにとって、1598年の極東遠征が国の威信をかけた一大プロジェクトであったことを窺わせる。

インドを起源とし、木綿地に様々な文様を染める更紗は、17世紀以降オランダ東インド会社を通じて世界中に運ばれ、各地で人気を博した。製作された当初は大きな布であった更紗も、交易の中で様々な用途に合わせて裁断された。江戸時代の人々は、航海の果てに小さな裂(きれ)として残された更紗であっても、畳紙に包んだり、手鑑として貼り合わせることで大事に保管していた。世界中で享受された更紗だが、このような愛で方は類を見ない。今や世界基準となりつつある「もったいないの精神」に通じるものを、ここに見ることができる。今回出品されていた《更紗手鑑》もその1例であり、大きさや文様、色彩も様々な更紗の裂が折帖に丁寧に貼られた様子は、手の込んだ作品集のような雰囲気を持っている。

そもそも更紗が、大きな人気を得た理由は何なのだろうか。よく知られているように、繊維には絹やウールといった動物性繊維と、木綿や麻といった植物性繊維がある。染料とよく結びついて発色する動物性繊維に比べ、元来植物性繊維では鮮やかな色彩、特に紅花、茜、蘇芳といった赤系統の色を定着させることは困難とされていた。しかし、木綿の原産地であったインドでは古来より、植物性繊維を動物性繊維のように染め上げる方法が確立していたと言われている。植物性繊維が上手く染まらない理由は、多くの染料の定着に必要な金属塩からなる媒染染料の吸収が悪いことに起因している。そのためにインドでは、媒染染料を定着させ易い性質を持つミロバランの実に水牛の乳を加えて作った染料を下染めに利用するなどして、動物性繊維に近づける工夫がされてきた。木綿地でありながら鮮やかな色彩を有している点こそ、他に類の無い更紗の大きな魅力であったと言える。

今回の展覧会に出品されている更紗の中でも特に話題となっていたのが、《杜若文様更紗縫合小袖》である。この小袖は三井十一家のうちの南三井家に伝来した。水辺に咲く杜若の意匠を描絵(布地に筆で直接意匠を描く技法)と刺繍で表し、その周囲をおよそ百片からなる大小様々な更紗の裂で縫い合わせている様子は圧巻であり、成熟した美意識を感じさせる。三井家の繁栄は、延宝元年(1673)に三井高利が江戸の町に呉服屋「越後屋」を出店したことに始まる。当時、小さな裂であっても非常に貴重であった更紗を惜しげも無く使用した《杜若文様更紗縫合小袖》は、長く豪商として栄えた三井家ならではの逸品であると同時に、異国の文物を見事に昇華させた作品と言える。

また《杜若文様更紗縫合小袖》に見られる文様には、扇手や亀甲手、銭菱手など日本向けと思われるような文様と、ヨーロッパやそれ以外の地域に向けてのものと思われる文様が入り交じっている。同様の傾向は《更紗裂23種》にも見て取れる。更紗を享受した国の人々は、世界各地の文様が反映された更紗を見て遠い異国の情景を想像していたことだろう。

国内における17世紀の風俗を描いた《阿国歌舞伎図屏風》や《邸内遊楽図屏風》は、当時の人々の服装をよく伝えている。一見すると今回の展示とはそれほど関係があるように見えないが、細部にまで目を配ると、更紗風文様の施された衣装を着る人々が描かれていることに気付く。特に《阿国歌舞伎図屏風》の中で馬に乗った人物が着ている陣羽織には、円文と鋸歯文を配した更紗が見られるが、会場にある《幾何学文様更紗陣羽織》において、これと同様の文様配置を見ることができる。こうしてみると同時代の絵画作品の中には、案外知られていない所に更紗に関する情報が隠されているのかもしれない。

大航海時代と時を同じくして日本では茶の湯の文化が発達し、そこにおいて異国の文物は好んで取り入れられた。更紗は茶碗や茶入れを包む布として使われ、時には《更紗茶壺袋》のように、かなり大きなものを包むことにも使用されていた。また床の間においては、《更紗表具》のように掛け軸の表具の一部として取り入れられた例や、《更紗尽掛物》のように更紗そのものをメインにした例なども見ることができる。時折、日本の風呂敷が海外ではタペストリーにされていたという話を聞くが、それに近いことを我々日本人も昔から行っていたようである。

今回の展覧会では、更紗以外の交易品についてもいくつか取り上げられている。副題にある阿蘭陀とびいどろは、それぞれオランダ人によってもたらされたヨーロッパ製の陶器やガラス器を指している。阿蘭陀は主に茶陶として、更紗同様茶の世界で珍重された。ヨーロッパ製の陶器とは言うものの、そこにみられる意匠は西洋の伝統に基づくものよりも、《藍絵芙蓉手花鳥文皿》に見られるような東洋的なものが多い。これは当時景徳鎮で作られていた染付磁器を手本としていたためである。そのために一見すると磁器のようにも見えるが、実際は陶器製である。このような特徴が、数奇人達の美意識を刺激したことは容易に想像できる。

余談だが、先日愛知県の陶磁器美術館に足を運ぶ機会があった。そこでは《藍絵芙蓉手花鳥文皿》の手本となった景徳鎮の窯で作られた芙蓉手と共に、日本の有田やオランダのデルフトの窯で作られていた模倣芙蓉手が並べられていた。このように各国の製品を常に見比べることができる機会はあまりない。ここにおいて見られた阿蘭陀に特有の色彩の柔らかさは、よく印象に残っている。

厳しい鎖国体制が敷かれる中で、日本を訪れたオランダ商船は700隻以上と言われる。両国の交易は、世界と日本を繋ぐ物流の貴重な窓口となっただけでなく、当時の国際情勢を知る上でも重要なものであったと言える。オランダ語を通して行われた西洋の学問、技術に関する研究は、英語が世界の共通言語となっている現代人には想像し難い面もあるが、江戸時代においては「蘭学」として広く定着していた。このことは、当時の人々の海外に対する関心の高さを窺わせるとともに、開国後の急激な近代化に対応する上での下地になったとも言える。

今回の展示では、日本からオランダを通じて世界各国に輸出されていた品々については特に触れられていなかった。近年では日本の研究者が、そういった輸出品の現地調査を行っているという話をよく耳にする。現代人にはほとんど知られていないそのような作品を含め、交易の全貌が明らかになるような展示もいずれは見てみたい。

参考文献:展覧会図録
   

text:上田祥悟

『江戸の異国万華鏡―更紗・びいどろ・阿蘭陀』の展覧会情報はコチラ


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