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近代美人画の誕生 《恋する美人画-女性像に秘められた世界とは レビュー》

2014 年 8 月 2 日 3,807 views No Comment

美人画は古今東西を問わずさまざまな文化に存在してきた。特に日本では、江戸時代において浮世絵を中心に大きく発達した。当時は「美人写し」や「美人競い」、「女絵」とも呼ばれていた。広辞苑において美人画は、「女性の美を強調して描いた絵」と定められている。ここに見られる女性の美という表現は、外見的な美しさだけに留まらない、より広い意味合いを含んでいる。京都市美術館において、2014年5月11日まで開催されていた『恋する美人画-女性像に秘められた世界とは』では、同館が所蔵する近代京都画壇のコレクションを中心に、明治時代以降京都の地で展開した美人画の諸相に焦点を当てた展示が行われていた。

日本においては、細く下膨れした顔に小さく切れ長の目というのが、古くからある美人の表現として存在していた。江戸時代に描かれた多くの浮世絵にも見られるように、それらは美人を写実的に描いたものとは明らかに性質を異にしている。明治時代になってからも、そういった江戸時代の様式を継承した美人画が描かれ続けるが、その一方で西洋文明の流入に代表される社会的な変革に伴い、美人画においても新しい様相が見られ始める。当時の京都において、そのような動きを牽引したのが上村松園であった。今回のレビューでは、松園が近代における美人画の大家となっていった基盤を中心に取り上げている。

明治元年(1868)とその翌年に行われた明治天皇の東京行幸により、京都は都としての地位を失った。しかし、およそ千年にわたって日本文化の中心地であったという人々の誇りは簡単には消えず、その歴史的価値を次の世代へと伝えていくための人材の育成にいち早く取り組むきっかけとなった。芸術の、特に絵画の分野においては、それまでに画家達が個別に主宰していた画塾に加え、幸野楳嶺や田能村直入、望月玉泉、久保田米僊といった画家達の尽力により、京都府画学校が新しく設立された。近代京都画壇を代表する多くの画家達が、この画学校と何らかの関わりを持つことになる。

《呉服漢織之図》は、画学校設立に尽力した画家の一人である幸野楳嶺による明治14年(1881)の作品である。幕末から明治時代にかけて日本画の大家であった中島来章、塩川文麟らのもとに入門し円山派、四条派を学んだ楳嶺の画風は重厚にして、狂いがなく緻密であると評される。《呉服漢織之図》もまた、華やかな美人画というよりも歴史画の雰囲気を持っている。画題は『日本書紀』において記述のある「呉織・穴織伝承」を扱っている。その内容は、応神天皇の治世である5世紀頃に、中国の呉の国出身の呉織(くれはとり)・穴織 (あやはとり)らの縫工女が池田の地(現在の大阪府池田市)を訪れ、織物や染色の技術を伝えたというものである。この伝承は「呉服」という言葉の語源にもなっており、染織の分野に深く関わるが、画題として描かれることはあまりない。このような画題に対するオリジナル性は楳嶺による他の代表的な作品にも共通しており、1つの特徴と言える。

また楳嶺は教育者としての評価が高く、京都府画学校や自身の私塾で指導を行う中で菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠、都路華香のいわゆる楳嶺四天王を筆頭に、上村松園、川合玉堂といった多くの画家を輩出している。楳嶺の隙のない、まるで絵手本のような画風は、例えば栖鳳の軽妙で独創的な画風とは対照的であるが、絵を描く上での基礎を徹底して学ばせるという教育的側面から見ると、非常に理想的なものであったと言える。

後に栖鳳の言葉を息子である竹内逸がまとめた『栖鳳閑話』という本がある。そこには楳嶺画塾の様子、本文中の言葉を引用するなら「プロシヤ式軍律教育」についても触れられている。栖鳳は師について、不思議なほど勤勉であり、辻褄が合わないことは徹底的に追求する厳格な人であったが、それは賞罰を明らかにするという教育者としての偉大な精神からくるものであったと述べている。

当時の画塾では、師の画風を最も忠実に再現する者が優秀とされていた。そのような教育の場にあって、栖鳳は必ずしも塾風遵奉者ではなかったようで、入塾してわずか半年後には全くの自己流で《枯蘆》を描いている。その時の心境を栖鳳は「あの時わしは、破門を食らふか、それとも罰点五十を貰ふか、どちらかだと決心してゐた」と述べている。しかし楳嶺はこの絵を激賞し、「以後竹内流でやってよろしい」と奨言したという。楳嶺による柔軟な指導の一端が窺える。これ以降、画塾の末席にいた栖鳳は一躍工芸長という役を任されるようになり、多くの弟子達の中で頭角を表した。

余談だが、『栖鳳閑話』には楳嶺塾の罰則に関する話なども書かれている。具体的には、もし楳嶺が指導している最中に上の階で大きな音をたてると罰点1、障子にぶつかって外してしまったら罰点1、筆洗の水を段梯子に一滴でも落とすと罰点1、喧嘩をしようものなら罰点5が与えられ、合計で50点に達すると画塾のトイレ掃除をさせられたそうである。栖鳳自身も半年に1回は掃除当番が回ってきたと語っている。

《絵になる最初》は、そんな竹内栖鳳が描いた人物画の中でも特に知られている作品である。大正2年(1913)に制作された本作品は、もともと本願寺天井画の天女図を描くために急遽雇ったヌードモデルが、着物を脱ぐのを躊躇い、その様子を描いた作品であると伝えられている。左手で顔を隠す仕草や、視線をそらした表情からは、慣れない仕事に対する恥じらいの様子が窺える。この作品が発表されると、画中で栖鳳が創作した着物の柄が評判となり、そこに目をつけた高島屋によって同じ柄の着物が作られ、「栖鳳絣」として人気を博した。
 
今回の展覧会には《絵になる最初》の他に、栖鳳による大正6年(1917)制作の《日稼》とその下絵も出品されていた。画中では野良着姿の若い娘が、寺の一隅で湯を飲んで休息する様子が描かれている。栖鳳が同年に行われた文展に本作品を出品した際、若い娘を隠し描き、野良着姿に替えられた上に無断で発表されたとの抗議が寄せられた。この抗議に対し、栖鳳は今後一切公表しないことを約束したため、《日稼》は長い間日の目を見ず、幻の作品とされていた。しかし昨年行われた栖鳳展において、生涯最後の人物画として95年ぶりに公開されるに至った。

対照的な経緯を辿った《絵になる最初》と《日稼》、そして今回の展示リストにはない《アレ夕立に》が栖鳳による美人画として知られている。四条派のみならず、狩野派や西洋画などのあらゆる画技に精通し、それらを巧みに使い分ける画風から、時には「鵺派」と揶揄されもした栖鳳だが、意外にも人物を描いた作品は少ない。またどの作品も女性の顔の一部や、全体が隠されている点で共通しており、このことは栖鳳が人物を描くのをあまり得意としていなかったことを想像させる。《絵になる最初》が描かれるきっかけとなった先述の本願寺天井画の天女図も、かなり習作を重ねていたにも拘らず、結局完成することはなかった。


栖鳳が西洋の画法を取り入れながら日本画の近代化を押し進めていた頃、京都の地において美人画の名手と謳われていたのが、上村松園である。明治8年(1875)に京都の葉茶屋に生まれ、幼い頃から絵に親しんでいた松園は、当時幸野楳嶺らの尽力により設立していた京都府画学校に進学することとなる。その後、画学校で出会った鈴木松年のもとに正式に入門し、女性画家としての道を歩き始めた。松園という雅号は、師松年の「松」と実家の葉茶屋にちなむ「園」に由来する。

明治20年代までの松園の画風は、師の影響を強く反映した筆法重視の直線的なものであったと言える。その後、松園は松年の許しを得て楳嶺のもとにも通い始めるが (松年と楳嶺は仲が悪かったことで有名)、そのわずか1年半後に楳嶺がこの世を去ると、その高弟であった栖鳳に師事した。この頃の松園の絵には、写生に基づく近代的で柔らな顔の表現などが見られ始める。明治32年(1899)の《人生の花》は、人生における新たな門出を迎えた花嫁と、それに連れ添う母親らしき女性を描いた作品である。その表情からは羞いや不安、緊張などが感じられ、また衣装に見られる陰影を伴った量感、光沢の表現からは、写実的に表現しようとする意図が読み取れる。これらの要素に加えて、余白を広くとった画面上に人物を大きく配置する点や、写生に基づく細密描写を髪飾りや衣装の文様に施す点などは、後年の作品にも通じている。

前述したように、当時松園の師となった栖鳳は人物画をあまり描かなかった。しかし、写生を重視しながら日本画における新たな表現を探求していた栖鳳の積極的な姿勢は、少なからず松園にも影響を与えていたと考えられる。その一方で、栖鳳に触発された松園が近代的な美人画の表現のみに傾倒していったのかと言うと、そのようなことはなく、後年になってからも江戸時代の代表的な浮世絵師である西川祐信や喜多川歌麿に倣った、伝統的な浮世絵風美人画などを手掛けている。松園の画風が必ずしも一様ではない理由としては、浮世絵をはじめとする先行研究を盛んに行い、自身の作品の中に取り入れていたという点が挙げられる。

大正15年(1926)に制作された《待月》では、縁側で欄干にもたれながら月の出を待つ女性の後ろ姿が描かれている。この作品において松園は、画面中央のやや左に柱を配して人物を区切る大胆な構図を試みると共に、四条派の伝統である没骨法(輪郭線を描かずに色のにじみで対象の形を表す技法)を用いた木立の描写とを見事に調和させている。また美人画でありながら、顔がまったく見えない後ろ姿を描いている点も興味深い。人物の顔全体を描くことを避けていた栖鳳の影響であろうか。鑑賞者に登場人物の表情を自由に想像させつつ、叙情的な感情を抱かせる作品である。

京都において女性に対する美術教育が整えられるのは、昭和の時代に入ってからである。その遥か以前に、多くの男性に混じりながら画家を志した松園は、男性的な視点とは異なる女性美を描いたことで美術史上に名を残した。また女性画家として自立を果たし、初めて文化勲章の受賞者となるなど、近代における女性の社会的地位の進展を象徴した存在とも言える。ところで、京都府画学校を前身とする現在の京都市立芸術大学では、学生の男女の比が明治時代とは完全に逆転している。これも現代を象徴する1つの特色と言えるのかもしれない。

参考文献:展覧会冊子、『京都日本画の誕生』展図録、『栖鳳閑話』(改造社)、『上村松園』(光村推古書院)
   

text:上田祥悟

『恋する美人画-女性像に秘められた世界とは』の展覧会情報はコチラ


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