アートの境界線《イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる レビュー》
それは仮面や家具、神像など骨董品がずらりと並ぶ薄暗い店の奥にかかっていた。荒い生地の黄色く変色した古びた布。よく見ると布には奇妙な文様が施されている。単純な文様ながら、おもちゃ箱をひっくりかえしたような不思議な造形。矢印が伸び、その途中が枝分かれしたような形、またたく星のような丸い文様、どこか大柄な太った人とやせた人が群れを作って歩いているような形など、どれ一つをとってみても様々なイメージがわいてくる。かつて陶磁器の茶器や皿などに面白半分でその形をデザインとして刻んだことがあった。文様を刻むと単調な形の器が妙に異国情緒漂う不思議な雰囲気を醸し出していたことを今でもはっきり覚えている。
その布とはコンゴ民主共和国のクバ族の女性が儀礼の際に身に着けるヤシの葉の繊維で作った布地で、荒い目のある布地に施された文様は、実は穴のあいた部分をふさぐ目的でつけられたものだ。後に人々は穴の有無とは関係なく、不思議な形のアップリケを施し身につけ祭礼にのぞみ、後にはファッションとして楽しんだのだという。
プリミティブアート(未開美術)といわれるモノは現代人を虜にする。ピカソやクレーなど20世紀を代表する芸術家の多くが、アフリカの彫像や仮面に大きな影響を受け、そうしたものから得たイメージを絵画に表現したことは有名な話だ。
世界各地の民具や儀礼の祭具、仮面や彫像など大阪の国立民族学博物館の収集した民俗学的な資料およそ600点を東京の国立新美術館で展示するというユニークな展覧会『イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる』が開かれている。(2014年6月9日まで。その後、国立民族学博物館へ巡回し12月9日まで開催)。
まず今回の展覧会のプロローグで展示されるのは壁面にかけられたおびただしい数の仮面である。世界中から集められた仮面の数はおよそ100。真新しい美術館の白い壁に、かつて人々が祈りの対象として、あるいは畏怖の念の造形として作り出した仮面が並ぶ風景は壮観だ。目の飛び出した仮面や、様々な動物や昆虫の顔を想起させる仮面に人々が託した思いは様々だ。仮面は人の顔を模したものだけに見る者に与えるイメージは強烈だ。儀礼や神事で人は仮面をかぶり神になり、逆に仮面は人をみつめ畏怖する。
仮面がそうしたイメージの力を発揮するのは薄暗い中、かがり火に照らされ、舞う時だ。仮面が実際に使われる場面から切り離され、こうしてきれいな美術館の壁に完璧な照明で展示されると、それはまるで別のモノになったかのようだ。
今回の展覧会の特徴は国立民族学博物館では地域ごとに展示される資料が、造形のテーマ別に展示されていることだ。第1章の「見えないもののイメージ」では「ひとをかたどる、神がみをかたどる」や「時間をかたどる」というテーマで死者を弔うために神をかたどった彫像や、悠久の時の流れを一枚の織物に表現した曼荼羅図などのタペストリーが展示される。
中には日本人にも馴染みのあるインドネシアの影絵人形「ワヤン・クリット」や東北地方の農家に伝わる「オシラサマ」と呼ばれる神像もあり、どのように使われているのか想像がつくものもあるが、遠い南の島のどこかおどけた謎に満ちた表情の神像は、美術館にやってきた途端、もはや儀礼用具ではなくアート作品へと変貌してしまっているように感じられるのだ。
今回の展覧会の圧巻は第2章「イメージの力学・高みとつながる」で展示された彫刻が施されたた柱だ。インドネシアで収集された「ビス」と呼ばれる柱は高さ6メートル近くあり、美術館の天井に届くかと思われるほどだ。この柱はニューギニア島に住む人たちが村の精霊堂の前に建てたものだという。柱には男の立つ姿が一面に彫刻され、見る人の視点をはるかな高みへと誘い、霊を他界へ送り出すという役割を果たしているのだという。元来、鬱蒼とした森の中の巨木に囲まれて立つ柱が狭い美術館の天井を突き破るかのように展示されたとき、それらはもはや祈りの対象ではなく見るために作られた彫刻作品になってしまっている。
展覧会の第3章「イメージとたわむれる」では、私が骨董品屋の奥で見たアフリカの布も見ることができる。そこにあるのは確かにあのクバ族の儀礼用の布であり、女性がスカートや前掛けとして使う布だ。不思議な文様も刻まれている。しかし展示されているのは破れたり汚れたりしていない実にきれいな布だ。あの骨董品屋の薄暗い壁に架けられた陽に焼け、しみや汚れが残る布とはどこか違う。誰がどのようなところで、どのように使っていたのだろうか。刻まれた文様にどのような思いが込められていたのだろうか。骨董品屋の店先ではなく、アフリカの大地に暮らす人々がこの布を使っているところを見ればさらに別のイメージが伝わってくるのかもしれないが、美術館のガラスケースに収まった美しい布からは、なぜかそうした作った人、使っていた人々へ思いを馳せることができない。
展覧会最後のエピローグでは日常生活における穀物を砕く石臼や牧草を刈る熊手など実用的な道具がインスタレーションの技法で展示される。インドで使われていた長さ10メートルを超える漁網が美術館の大きな天井いっぱいにつるされているさまは、漁に使われる網というよりは、繊細な美しい幾何学模様を見せる芸術作品だ。機能を追求した道具が持つ合理的な形態に備わる美を強調し、それを芸術作品として見せようという今回の展覧会のねらいが強く感じられる。
エピローグについて国立新美術館の南雄介副館長が語るように「道具として使われていたモノを美術館の展示室という場に据えることによってこれらの日用品に「芸術作品」というアウラを賦与するという少しばかり倒錯的な行為である。」(図録より)であるとするならば、民俗学的資料が本来持っていたイメージの力は「芸術作品というアウラ」へと変わってしまったのだろうか。
美術館にきれいに並べられた人類学的な遺産を見て思い出すのは、以前、東北のある古い農家の片隅で見た仮面のことだ。それは火の神をまつるもので「かまど神」と呼ばれ、真っ黒にすすけて壁と天井の薄暗い片隅にかかっていた。家の主に教えられて初めてその存在を知ったのだが、それほどすすけた天井になじんでしまっていたのだ。
「かまど神」は火という魔物に対する人々の畏怖の念が形になったものだが、こうした場所に架けられ人々の生活と火を見つめてこそ、存在する価値がある。もしすすけた天井から外され、きれいに磨かれた「かまど神」に出会ったとき私たちが感じるイメージはまったく異なったものになるに違いない。
元来、人々は自然や生命など自らの力の及ばない大きな存在に畏怖の念をいだき、様々なモノを作りだしてきた。神をそして時間を形にし、神殿や住まいに置いて祈りをささげてきたのである。しかし骨董品屋の店先はもちろんのこと、博物館に収集され、さらに美術館に展示することで人間が使うために作ったモノの発するイメージの力は大きく変質し場合によっては消失してしまったかのようにさえ感じるのだ。
「人間がその手で作り出したモノは美術館に展示されることで美術作品になる」という命題が正しいとすると、芸術作品すなわちアートとそうでないものとの境界線はいったいどこにあるのだろうか。アートの領域の広がりがことさらに大きくなった現代において、根源的な問いを強く感じさせる展覧会だ。
参考文献:展覧会図録
text:小平信行
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