身近に観る名品Ⅱ 《開館60周年特別展ー序章ー レビュー》
今月、大阪市阿倍野区に日本一の超高層ビルとなるあべのハルカスがオープンした。ビルの外観デザインは国立国際美術館や大阪歴史博物館を手掛けたことで大阪に馴染みのあるシーザー・ペリ氏が監修している。私自身はまだ足を運べていないが、16階には美術館もあるそうで、現在は開館記念展として『東大寺展』が開催されている。もっと現代的な展示が行われると個人的には思っていたので、この『東大寺展』は少し意外であった。
大阪の新たな拠点となったあべのハルカス美術館で開館記念展示が行われている一方、今年で開館60周年を迎える藤田美術館においても、記念となる特別展が行われている。その内容は、同館が誇る収蔵品の中から特に選りすぐられた東洋古美術の名品を、春と秋の2回に分けて展示するというものである。現在開催中の春期展では世に名高い《曜変天目茶碗》や《玄奘三蔵絵》などの国宝2点を含む絵画、彫刻、工芸、書の作品28点が出品されており、それら1点1点をじっくりと鑑賞できる空間が用意されている。
藤原定家筆の《小倉色紙》は、鎌倉時代に京都の小倉山荘の襖を飾るために定家自らが選んだ百首を一首ずつ色紙に記したものである。これが今で言う「小倉百人一首」の基になったと考えられている。室町時代に茶道が広まると、茶席に《小倉色紙》を掛けることが流行し、珍重されるようになるが、それに伴って価格も高騰し、多くの贋作が世に出まわるようになった。安土桃山時代には九州征伐を行った豊臣秀吉が、豊前国を治める城井鎮房に伊予国への移封を命じた際、鎮房が家宝としていた《小倉色紙》の引き渡しも要求し、強い反発を買っている。後に鎮房をはじめとする城井氏一族は秀吉の側近であった黒田孝高に謀殺されることになるのだが、《小倉色紙》をめぐる確執はその原因の1つとも言われている。もともとは100枚存在していたはずの《小倉色紙》だが、江戸時代には30枚程度にまで数を減らしている。会場に展示された色紙には金地に銀の模様が描かれ、太く力強い筆跡で清原元輔の歌である「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」が記されている。つれない恋人を待ち続ける女性の心情を描いた歌が多い百人一首の中では珍しく、失恋後も想いを抱き続ける男性の心情を歌っている。
藤田美術館が所蔵する国宝の1つである《玄奘三蔵絵》は、全12巻からなる鎌倉時代を代表する絵巻物であり、三蔵法師が経典を求め、従者を従えながら長い歳月をかけて旅をする様子を主題としている。当時、実際には見ることができなかった異国の情景を巧みな画面構成で表現し、良質な絵の具を用いた金銀濃彩で鮮やかに描いている。その筆跡からは複数の人物によって作られたことが判明しているものの、具体的な作者は不明とされている。藤田美術館にはこれまでに何度か足を運んでいるが、《玄奘三蔵絵》は展示の度に異なる場面が少しずつ公開されているため、同じ場面を目にすることはほとんどない。今回は第5巻の5段目と6段目が展示されており、釈迦が悟りを開いたとされる菩提樹の下に玄奘が礼拝する様子と、インドのナーランダー僧院を訪れた玄奘一行を僧たちが音楽や散華、焼香で歓迎する様子が描かれている。表現的に面白いと思ったのは、釈迦が亡くなった後に菩提樹の前に置かれた2体の菩薩像が、長い年月の経過を示す為に半身が埋まった状態で描かれている点である。映画「猿の惑星」に登場する砂に埋もれた自由の女神像を思わせるが、菩提樹の周辺にある菩薩像以外のものは整備された状態で描かれているので全体としては何処かシュールな雰囲気となっている。
普段はこのように断片的にしか見られないない《玄奘三蔵絵》だが、数年前には奈良国立博物館において全巻の一斉公開が行われており、いずれまた同様の展示が大型の美術館や博物館で行われる可能性は高い。
重要文化財に指定されている《題雪舟山水図詩》は、室町時代から戦国時代にかけて臨済宗の僧であった了庵桂悟が雪舟筆の山水図を見て記した漢詩である。ここでは両者の親睦の様子が記されており、雪舟の後半生を伝える貴重な資料の1つとなっている。その大まかな内容は以下の通りである。
30年前に私は防府(山口県)で号を雪舟とする人物に出会った。彼はその地を治めていた大内政弘から「雲谷庵」という居宅を与えられており、私たちはそこで水墨画について語り合った。永正4年(1507)の官命により明へと渡っていた私が帰国すると雪舟は既に亡く、雲谷庵は草花はそのままに建物は傾いていた。明から無事に帰国したことを天照大神に報告し、感謝するために伊勢を訪れた際、歓迎してくれた宮司が雪舟の小幅を出し、絵の上部に賛を求めた。雪舟のことを知る私は、この絵が後々まで伝わり、栄えることを願う。
雪舟の没年には諸説あるが、現在では永正3年(1506)とするのが有力となっている。詩の内容からは両者が親しい間柄であったこと以外にも、雪舟の訃報を知る前に了庵が明へ向かったことなどが読み取れる。また了庵自身もこの《題雪舟山水図詩》を記した永正11年(1514)にこの世を去っている。東洋の絵画における賛(画賛)とは、鑑賞者によって作品の余白部に書き添えられた賛辞、詩文のことを言う。良く知られているように画家が自らが賛を書くと、それは自画自賛となる。
室町時代の水墨画家であり禅僧でもあった雪舟は、日本絵画史において特に高い評価を受けている画家の一人である。現存作品の多くは山水画であるが、肖像画や花鳥画なども手掛けていたことが伝えられている。雪舟による自画像の原本は失われており、今に残されているものはすべて模本である。藤田美術館が所蔵する《雪舟自画像》は、室町時代に描かれた模本であり、画面上部の賛や落款まで写されていることから、最も原本に近いものと考えられている。TVや書籍等で私たちが目にする雪舟像は、ほとんどこの作品から引用されている。また落款からは雪舟が71歳の時に《雪舟自画像》の原本である自画像を描き、弟子に与えていたということが明らかになっている。
《曜変天目茶碗》は釉薬の一種である「天目油(鉄油)」をかけて焼かれた天目茶碗の中で、最上級とされているものである。黒い茶碗の中に瑠璃色の斑紋が浮かぶ景色は、よく宇宙に喩えられ、見る者を魅了する。茶碗の腰付近には露のように釉薬が溜まった釉溜り、口縁部には覆輪が見られる。中国では周の時代から鉄油の利用が行われており、宋の時代以後盛んに作られるようになったが、この頃に中国禅宗の中心であった浙江省天目山に留学していた日本の僧が、そこで使用されていた鉄油茶碗を国内に持ち帰ったことで天目茶碗という名称が生まれ、広まったとされる。「曜変」という言葉も日本で付けられたもので、もともとは「窯変・容変」と記され、焼成時に窯の中で起った何らかの変化によって斑紋が生じたことを指していたが、後に明かりや輝きを意味する「曜(耀)」の字が用いられるようになった。《曜変天目茶碗》は藤田美術館の他に、東京の静嘉堂文庫と京都の大徳寺龍光院に伝わったものが知られており、それぞれ各時代の有力者の手を経て、現在は国宝に指定されている。これらは斑紋の表情こそ違うものの、大きさや形状やが酷似しているため、同じ陶工の手によるものではないかとも言われている。宋の時代以後、途絶えてしまったその製法を含め、今なお謎が多い作品である。
展示会場で一際目を引く《大獅子図》は、近代京都画壇を代表する画家の1人である竹内栖鳳によるライオンの図である。この作品は栖鳳による獅子図の中でも大きく著名なものの1つとされ、昨年京都市美術館で行われた栖鳳展にも出品されていた。十代の頃から入門先の四条派の中で頭角を現していた栖鳳は、しだいに実物観察に基づく写生画以外にも、狩野派や西洋画など、他の流派の画風をも自身の作品に積極的に取り入れるようになった。明治25年(1892)に開催された京都市美術工芸品展において、栖鳳は《猫児負喧》という作品を発表したが、栖鳳はこの作品の中で四条派と他の様々な流派の筆遣いを同一画面上に混在させたことで話題になった。複数の画風を破綻無く描きあげる栖鳳の確かな技量を窺わせる一方で、その表現は様々な動物の合成からなる妖怪の鵺のようだと揶揄され、栖鳳一派は「鵺派」とも呼ばれた。
文明開化の高まりとともに多くの芸術家が海外へと渡っていく中、明治33年(1900)にヨーロッパに赴いた栖鳳は、ターナーやコローといった西洋の画風に直に触れたことで、自身の作風を更に発展させることになる。栖鳳の西洋に対する関心の高さは、それまでに使用していた「棲鳳」の号を「栖鳳」に改めたことからも窺い知ることができる。また栖鳳は異国の地で初めて目にしたライオンにも衝撃を受け、その姿を何度もスケッチしている。《大獅子図》は帰国後の明治35年(1902)に描かれた作品であり、絹地に金泥を刷った背景に溶け込むようにして精悍な顔つきのライオンが描かれている。鬣や体毛の一本一本に至るまで精緻に描かれた写実的なライオンは圧倒的な存在感を示しており、それまで本物のライオンなど見たことがなかった当時の人々を大いに驚かせたことだろう。
とはいえ、栖鳳が帰国した数年後には日本にも生きたライオンが輸入され、動物園で普通に見られるようになった。わざわざヨーロッパでライオンの写生を繰り返していた栖鳳の努力が最終的にどの程度報われることになったのかは分からないが、いずれにしても《大獅子図》は当時の時代性を物語る興味深い作品と言える。
参考文献:展覧会図録
text:上田祥悟
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