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枯淡の美 《朱漆「根来」—中世に咲いた華 レビュー》

2013 年 10 月 31 日 3,886 views No Comment

16世紀の後半、キリスト教の布教のために日本を訪れていたルイス・フロイスをはじめとするイエズス会宣教師たちは、自らが見聞きした日本国内の様子を逐一記録し、報告書にまとめて本国へと送付していた。その中では当時、仏教への信仰が特に強かった紀伊国(紀州)についても触れられており、特に高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆などの宗派に関しては高い経済力と軍事力を背景にした地域自治を成立させていたことから、それぞれが1つの共和国のような存在であると報告されていた。このような記述は豊臣秀吉による紀州攻めにより、一山のほとんどが焼け落ちてしまった根来寺のかつての繁栄の様子を伝える貴重な資料となっている。室町時代末期の最盛期には数百もの坊舎と約一万人の僧兵(根来衆)を擁していたとされる根来寺では、膨大な数に及ぶ日用品の需要がその一帯での自給自足による生産活動を活発にしていた。現在も広く知られている根来の漆器は、そういった山内の状況のもとで育まれた産品の1つであった。

間もなく紅葉が見頃を迎えそうな滋賀県のMIHO MUSEUMにおいて、様々な朱漆器を一堂に揃えた根来展が開催されている。9月1日から12月15日までの会期中、3回の展示替えを挟みながら400点以上が出品される予定で、その種類も神饌具や仏具、食器、酒器、茶道具、文房具、楽器など、多岐に渡っている。機能美を追求した堅牢な木地に黒と朱という二色の漆を塗り重ねる根来は、永年にわたり使い込まれることで上塗の塗膜がすり減り、下塗の層を浮かび上がらせる。「すれ味」とも呼ばれ、古くから茶人や数寄者を魅了してきた根来の持つ独特の表情を本展覧会では楽しむことができる。

古来より漆工品を日常的に使用してきた日本各地には特色豊かな漆器の産地が点在しているが、それぞれの漆器に付けられる名称は多くの場合それらが製作される地域に因む。代表的なものでは石川県の輪島塗、福島県の会津塗、青森県の津軽塗などが挙げられる。これらの産地と根来塗の名の由来となった現在の根来寺を比べると、根来塗というものが非常に狭い範囲で作られていた漆器のように思えるが、最初にも触れたように、かつての根来寺が一大宗教都市のような規模であったことを踏まえると、その当時の漆器生産量は国内でも随一のものであったと想像できる。しかしその一方、根来寺の山内で実際にどういった漆器製作が行われていたのかを知る手掛りは少なく、また根来寺で作られたことが確実な遺例も茨城県の六地蔵寺で発見された足付盥のみとされている。このことは「根来に根来なし」と言われる理由にもなっている。(残念ながら今回の展覧会に六地蔵寺の足付盥は出品されていない)

豊臣秀吉による1585年(天正13年)の紀州攻めの際、根来寺は多宝大塔や大師堂といった現存する建物を除くすべてが廃墟と化し、そこでの漆器製作は急速に衰退した。その後、戦火を逃れた一部の僧達はそれぞれの移住先の地で根来塗やその技法を伝えたとされているが、このことは根来塗がそれまで以上に広く認知されるきっかけとなったのと同時に、根来寺以外での良質な朱漆器製作をうながした。今回の展覧会のタイトルが「根来塗」ではなく「根来」であることからも分かるように、現在では根来寺で製作された漆器を「根来塗」、遺品のほとんどを占める製作地を問わない良質な朱漆器をまとめて「根来」と呼び分けるのが一般的になりつつある。

「祈りの造形」と題されたセクションに並ぶ瓶子(へいし)は主に酒器として使用された丸い壺形で口の狭い瓶で、根来を代表する器物である。これらは神に献酒するための神饌具であったと考えられ、通常は一対のものが神前に供えられる。会場ではそのことを踏まえ、通路の左右に対となる瓶子が展示されたりしていた。《瓶子(菊文)》では独特な壺形を形成する緩やかな曲線が、上部の最も膨らんだ辺りを境界にして外向きと内向きにはっきりと分かれており、他の瓶子が大きなS字を描いたような形状をしているのとは異なる印象を受けた。陶器製の瓶子に見られるように、後者のような形の瓶子は中国の影響を受けたものとされる。一方で、《瓶子(菊文)》は和の様式を示したものとされている。時にこれらの瓶子が根来を象徴するものとして扱われる理由は、長い年月によって生じる朱色と黒の鮮やかな色調の美しさ以外にも、その堅牢さと用途に即さない部分を排除した直截的な形の美しさが際立っている点にあると言える。

実用性を重視する根来からは、形状のほかに不必要な加飾なども取り除かれた。《瓶子(菊文)》や《瓶子(箔絵鶴丸文)》などに見られる文様は、どれもメインモチーフとして描かれたというよりは所蔵元を示す印のような雰囲気を持つ。会場を見渡してみても、根来ではむしろそういった最小限の装飾さえないものが大多数を占めていることが分かる。実用に耐え得るため、作り手によってほとんど加飾されることのなかった根来は、図らずもその表面に月日の移ろいを描き出すことになった。

その一方で、奈良県の春日大社に縁のある遺品の中には、他の根来とは少し異なる傾向を示しているものもある。現在は根津美術館が所有している《春日大盆》や《手力盆(春日大社の末社である手力雄神社にちなむ)》は、一見すると黒漆の上に朱漆を塗り重ねたごく一般的な根来のように見える。しかしその裏面には蝶や鳥、花といった意匠が、きらびやかな螺鈿技法によって表現されている。似たような加飾は春日大社伝来の供物台である《八足几》の脚部にも見られる。春日大社では創建以来20年ごとに「御造替」と呼ばれる社殿の建て替え事業が行われてきた。そして社殿が新築されるのに併せて、その中で使用される調度品や祭器具もそれまでの伝統に沿いながら一新するという作業が繰り返されてきた。おそらくは春日大社で使用する一部の漆工品に螺鈿による加飾を施すことが慣例としてあったことが《春日大盆》や《手力盆》といった特殊な根来が定期的に作られる要因になったと考えることができる。余談だが、2015年は春日大社の60回目の御造替にあたる。《八足几》の流れを受け継ぐ八足案なども新調され、おそらくその脚部には慣例通りに螺鈿が施されるだろう。

豊臣秀吉の紀州攻めにより荒廃した根来寺は、江戸時代に御三家の1つであった紀州徳川家の庇護のもと信仰の場としての復興を果たしたが、一山の規模縮小による需要の低下などが影響し、かつてのような漆器製作が再び行われることはなかった。しかし生産が途絶えた後も、人々の間で根来塗の評価が下がることはなく「根来」「根来朱」「根来もの」として愛でられ続け、現代にまで至っている。関西では27年ぶりとなる今回の大規模展を通して、鑑賞者の誰もが自分好みの根来を見つけることだろう。

なお9月から10月にかけて発生した台風被害によって、MIHO MUSEUMやその周辺では今現在も開館時間の短縮や美術館に行くまでの公共交通機関の運行などに影響が出ている。足を運ばれる際にはホームページ等で最新の情報をチェックすることをお薦めする。

参考文献:展覧会図録
   

text:上田祥悟

『朱漆「根来」—中世に咲いた華』の展覧会情報はコチラ


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