肖像画に込められた物語 《プーシキン美術館展 フランス絵画300年 レビュー》
安土桃山時代の絵師、長谷川等伯の生涯を描いた小説「等伯」のなかに肖像画を描くシーンがある。等伯といえばあの《松林図屏風》が有名だが、実は出世作となる絵画は肖像画だった。京都へ絵師になるために上京したての頃、等伯の腕を見込んで頼まれたのが、本法寺の日堯上人の肖像画だ。
30歳そこそこにもかかわらず、不治の病に侵され明日をも知れない命だという日堯上人は、すでに悟りをひらき、寺に居ながらにして遠くのものを見、感じる能力を持っていたという。当時、信長が起こした比叡山焼き撃ちで無残にも死んでいった多くの者の苦しみや悲しみを受け止め、成仏させようと祈り続けるうちに病に侵された上人から、死ぬ前に「尊像」を描いてほしいと頼まれたのだ。「尊像」とはただの肖像画ではない。後の修業僧のために描かれるもので、描かれた絵を見てどこまで悟が進んでいるのかわかるものでなければならない。
翌日から境内に泊まり込み3日3晩寝ずに描いたのが長谷川等伯33歳の時の傑作《日堯上人像》だ。等伯が絵を描いた直後、日堯上人は亡くなった。その後、この絵はまるで上人さまが生きているようだといわれ京都で大きな評判を呼び、等伯の出世作の一つとなった。等伯に上人の悟りが乗り移った状態でその肖像画は描かれたのだという。
肖像画の定義は結構難しい。ただ単に人物を描いた絵とは異なるし、人間の姿を描いた歴史画や宗教画、寓意画とも違う。美術評論家の高階秀爾氏によれば肖像画は個人の顔の再現だけでは不十分で「その上に何か別の条件が必要であり、それはある種の社会的な認知である」と語っている。この分け方でいうとあの有名なマネの《オランピア》や《鉄道》はモデルが誰かはわかっていても肖像画ではないという。
典型的な肖像画、それは国王や貴族など社会的な地位の高い人や、富豪、俳優などの顔や姿を描いた絵だ。しかしこのような絵は一般的にあまり人気がない。「表現上の変化に乏しく、ある特定の個人の顔の模写に過ぎない」と思われているからだという(高階秀爾著「肖像画論」より)。
人気が低い肖像画だが、小説にまでになった等伯の絵は別格としても、その絵が描かれた背景を探ってみると、そこには画家とモデルの間の関係が浮かび上がり、他のジャンルの絵とはまた違った意味で興味を惹かれることが結構ある。
愛知県美術館、横浜美術館で開催され、現在、神戸市立博物館(2013年9月28日から)で開かれているフランス絵画300年と銘打った『プーシキン美術館展』では主に19世紀後半、モスクワの商人や企業家らが集めたフランス絵画66点を見ることができる。
中でも肖像画と名の付いた絵からは、17世紀のロココ時代から新古典主義、印象派そして20世紀のフォービズムやキュビスムで、人物がどのように描かれ絵がどのように変化していくのかを知ることができ大変興味深い。
最初のコーナーで見ることができるロココ時代の肖像画の一つが1660年頃に描かれたシャルル・ル・ブランの《モリエールの肖像》だ。絵にはフランスの喜劇作家で俳優でもあったモリエールが横顔で描かれている。
古代ギリシャの時代から肖像画の多くは横向きの顔のシルエット、すなわち顔の輪郭を記録することから始まったという。プロフィールという言葉も輪郭を現す言葉だが、絵画の世界では「横向きの図象」という意味もあるという。しかし横顔では描かれた人の地位や個性などを描きこむことが難しく、描かれた人と見る者の関係もあいまいで希薄であることなどから、やがて横顔の肖像画はあまり描かれなくなる。
《モリエールの肖像》が描かれたのは17世紀の半ば、すでに横向きの肖像画は珍しい時代だった。ル・ブランが描いたモリエールの横顔からは、威厳に満ちた風貌ではあるが、モデルを作者がどのようにとらえていたのか、その思いはあまり伝わってこない。
当時、宮殿の装飾を手掛けていたル・ブランとモリエールは城で行われる式典の計画や準備を共同で行っていた。しかし二人の関係はあまり良くなかったという。ル・ブランがモリエールの肖像画を横顔で描いたのは、画家とモデルの間のこうした微妙な関係が影を落としていたのかもしれない。
新古典主義の画家たちが活躍する19世紀の前半、精緻な人物像を描く肖像画の最盛期を迎える。その代表がドミニク・アングルだろう。今回の展覧会の目玉の一つともいるアングルの《聖杯の前の聖母》など、その写実的な描き方は驚異的ですらある。
アングルの影響を強く受けていたというジョセフ・ペリニョンの《エリザベータ・バリャチンスカヤ公爵夫人の肖像》などでは肌や衣装が本物とみまがうほどの質感で描かれている。筆跡はまったく感じられず、ふっくらとしたスカートや花を手にした腕など立体感を感じさせるほどだ。この絵に描かれた夫人は同時にこの絵の発注主でもあったのだろう。見た目も、人物像が醸し出す雰囲気も最高に素晴らしく描くことが求められた。画家はそうした発注主の要求を満たすことを最も優先したに違いない。
そして肖像画の描き方は19世紀の半ばから後半にかけて大きく変わる。モネやルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの台頭だ。あの暗い背景に浮かび上がる人物像を描いていたそれまでの伝統的な肖像画とは全く違う描き方が登場した。
今回の展覧会で注目の作品、ルノワールの《ジャンヌ・サマリーの肖像》はその象徴的な存在だ。背景を赤やピンクに染め上げ、筆跡をわざと残し、肌や衣装の感じを画家が捉えた印象で描くという、それまでとはまったく異なった手法で描かれている。
モデルとなった人物は当時のコメディ・フランセーズを代表する著名な女優であるが、ルノワールはどこか夢見る可愛らしい女性として描いた。それはおそらくルノワールが舞台で演じていたジャンヌの役から得た印象を優先して描いた結果であり、不思議と現代感覚にマッチした魅力を備えている。もはやモデルの社会的な地位などではなく、作者がモデルに対してどう感じていたかが最大限優先される時代に入っていたのである。
同じくゴッホの《医師レーの肖像》もまたこの新しい時代の手法を色濃く伝える作品だ。生と死の間をさまよい自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件を起こし1889年ゴッホはアルルの病院に入院する。
この時描いたのが病院でインターンとして働いていた医師レーの肖像だ。荒々しい筆跡と陰影を省略した平面的な構図、それに背景の鮮烈な色彩で描きだされた渦巻文様などいかにもゴッホらしい描き方の肖像画だ。
翌年ゴッホはピストル自殺を図りその傷がもとで亡くなるのだが、日本の浮世絵にあこがれ、ゴーギャンとの共同生活を夢見、その果てにたどり着いたゴッホの心境がこの激しいい筆致の絵には息づいている。
この絵はモデルになった医師レーにはあまり好まれず、すぐに売却されてしまったという。しかしゴッホにとっては病から救ってくれるかもしれない数少ない頼りになる人物だった。この肖像画を見ているとそうしたゴッホのぎりぎりの精神の状況が激しい筆遣いに投影されているのではないかという思いすらしてくるのだ。
それにしても新古典主義の画家が描いていた写実感あふれるあの肖像画からわずか30年足らずでなぜこうも大きく画風が変化したのだろうか。新古典主義の代表ともいえるアングルが活躍していたのは19世紀前半、そして印象派の台頭は19世紀後半。画風が変化した理由の一つに、その間におこった写真の技術の発明と普及の影響を見逃すわけにはいかない。
これについては諸説あり、写真とは関係ないという議論もあるが、「人物を記録して後世に残すという肖像画の役割は写真に大きくとって代わられた」(図録より)という見方は一番説得力がある。
かつてまだ写真が登場する前、画家にとって肖像画は経済的なメリットを得るもっとも確実な方法として重宝されていた。発注主の意向に沿って描きさえすればそれなりの報酬が得られ、描くことで絵画の技術を上げることもでき一石二鳥だったのである。ある意味、写実絵画の頂点に達したような新古典主義の時代の肖像画まではそうした時代背景があって描かれたのである。
印象派の時代から絵画の対象が写実的な人物像から画家の内面の世界を人物像の中に反映させる絵が増えていることを考えると、やはり写真の影響は見過ごせないのである。肖像画はこの時、「モデルの姿を精巧に再現すること理想化して表現すること、あるいはモデルの社会的な地位を表徴すること」(図録より)といった多くの制約から解放されたといってもよいのだ。
いずれにせよどの時代でも肖像画は画家とモデルの関係が微妙に影を落とす、少々特殊な領域の絵であることは確かだろう。
「肖像画は画家の個性とモデルの個性が時に反発し合いながら出会う場であり、芸術表現の伝統と社会的な要請がぶつかり合う場でもある。」(「肖像画論」より)
安土桃山時代、人の魂をも描きこんだという長谷川等伯。小説「等伯」の中に、等伯自らが描いた上人像を息子の久蔵に見せるシーンがある。等伯自らも生きている上人を前にしているかのようだと衝撃を受けるのだが、そのあと数えで6歳だった久蔵に次のように語らせている。
「すごいよ。人はこの世だけで生きているんじゃないだね」
わずか6歳の子供がまるで生きている人間がそこにいるようだと感心したという等伯の日堯上人像。一枚の肖像画に秘められた画家の思いが小説には見事な描写で描かれている。
肖像画に込められた画家とモデルの間の物語。その物語を知ると急に絵が私たちに様々なことを語りかけてくるのである。
参考文献:高階秀爾著「肖像画論」青土社、安部龍太郎著「等伯」日本経済新聞社、展覧会図録
text:小平信行
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