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聖をかざる、俗をかざる 《日本美術の荘厳-祈りとかざり- レビュー》

2013 年 7 月 1 日 2,139 views No Comment

今年で開館15周年を迎える細見美術館では、第2弾となる記念特別展「日本美術の荘厳-祈りとかざり-」が7月21日まで開催されている。同美術館が所蔵する琳派や伊藤若冲の作品群を扱った第1弾の展示に引き続き、今回の展示では実業家・細見亮市が蒐集し、細見美術館のコレクションの根幹となっている仏教や神道に関する美術作品を中心に焦点が当てられている。会場では各時代ごとの祈りの場や生活の場において用いられてきた荘厳具や調度品が紹介され、「かざる」という行為に込められた当時の人々の美意識を鑑賞することができる。


仏教で用いられる様々な道具類をまとめて仏具と呼んでいるが、その中でも特に美術品として扱われているのは、法会の時に堂の内外を仏国のように飾り立てる荘厳具である。教典に記された仏の世界を再現するために、荘厳具の多くは仏像と同じく金色を纏い、極彩色によって彩られた。

重要文化財《金銅透彫尾長鳥唐草文華鬘》はもともと滋賀県の浄厳院に伝来したもので、鎌倉時代の作と考えられている。華鬘(けまん)と聞いてもあまり馴染みがなかもしれないが、仏殿の内陣にかけて仏尊の威徳を高める荘厳具の一種で、主に団扇形をしている。よく観賞用に栽培されているケマンソウという名の植物があるが、その名前の由来は花の形が華鬘を一列に並べた様子に似ていたことにある。

団扇形の金銅板には透彫りによって、宝相華(仏教世界における空想上の花)唐草の地文と中央で向かい合う二羽の尾長鳥が表され、周囲は覆輪で縁どりがされている。宝相華文に見られる花弁や花のしべなどの細部描写は、蹴彫り(楔形の点を連ねることで線を表す技法)によって表現されている。尾長鳥の体毛や羽の表現も同様に蹴彫りされているが、目の部分には鋲が打たれ、また頭と体の部分は背面から打ち出されることで微妙なふくらみを帯びている。

華鬘の起源は、古代インドにおいて貴人に捧げるために作られた花輪にあるといわれ、後に仏教に採り入れられて堂内を飾る荘厳具となった。日本においては《金銅透彫尾長鳥唐草文華鬘》のような金属製以外にも、牛皮(ごひ)製や絹製、木製、玉製のものが知られている。日持ちのしない生花に代わり、永久性を求めた人々の手によって多種多様の材料が華鬘に使用されたのであろうが、その一方で生花を連ねていたことの名残は中央の結びひも状の装飾(総角)として形式化され、現在にまで残っている。

奈良国立博物館には平安時代に作られ、国宝に指定されている華鬘が13面ほど所蔵されている。それらは牛皮を土台にし、生花に見立てた宝相華文や迦陵頻伽(人の頭を持つ極楽の鳥)を彩色や載金によって色彩豊かに表している。宝相華文と迦陵頻伽や鳳凰、尾長鳥などの瑞鳥が組み合わさった華鬘は平安時代の特徴とされ、鎌倉時代以降になると蓮華唐草文や仏尊をサンスクリット文字の一字で象徴的に標示した種子(しゅじ)で表したものが増えていく。《金銅透彫尾長鳥唐草文華鬘》は鎌倉時代の作ではあるが、意匠上の特徴から平安時代の余薫を伝える作品と言えるだろう。

鎌倉時代の作とされる《金銅種子五鈷鈴》は、柄を金剛杵の形にした大型の鈴(鈴杵)である。柄と鈴の各部を別々に鋳造した後、全体に鍍金を施している。弘法大師が手に持っていることでも知られている金剛杵は、古代インドの武器に由来する金属製の法具であり、密教においては煩悩を破砕する悟りの智慧の象徴として採り入れられた。そのような金剛杵を柄としつつ、連珠文によって上下が区切られた鈴の胴部には先程述べた、サンスクリット文字による種子が陽鋳(文字を浮き出すように鋳造する方法)で記されている。ここに見られる種子は「अ(a:宝幢如来)」「अं(aM:無量寿如来)」「आ(aa:開敷華王如来)」「अः(aH:天鼓雷音如来)」であり、字間には精緻な宝相華唐草文が配されている。種子によって表されたこれらの四仏は、胎蔵界において東西南北の四方を司っており、その中央に大日如来を加えた5体の仏は胎蔵界五仏と呼ばれている。

密教で説かれる2つの世界(胎蔵界と金剛界)のうち、大日如来を慈悲または真理の方面から説いた胎蔵界を視覚化した胎蔵界曼荼羅において、中心に位置する5体の仏を胎蔵界五仏という。《金銅種子五鈷鈴》では鈴全体を胎蔵界大日如来に見立て、種子で四方の仏を配することによって、そこに一種の曼荼羅を構成しようとする密教的な特徴が感じられる。またその意匠が金属に特有の重厚さと精緻な細部装飾の中に見事に表現されており、種子鈴における荘厳の典型を示す作品となっている。

《金銅透彫尾長鳥唐草文華鬘》や《金銅種子五鈷鈴》のように、細見美術館が所蔵する荘厳具には平安時代から鎌倉時代にかけて高度に発達した金工技術の粋を凝らしたものが多く、コレクションの1つの特色となっている。


仏教の経典の中で説かれる7種類の宝石のことを七宝と呼ぶ。しかし、どの宝石が七宝に含まれるのかということに関しては経典によって多少の差がある。「法華経」では金・銀・瑠璃・瑪瑙・真珠・硨磲(しやこ)・玫瑰(まいかい)を七宝としているが、「大無量寿経」では真珠と玫瑰の代わりに珊瑚と琥珀が挙げられている。これらは翻訳時の解釈の差によるものとされている。

金属工芸の一種である七宝焼の名は、一説にはその美しさが経典における七宝に匹敵するほど美しかったことに由来すると言われている。正倉院宝物中の遺例や出土品から判断して、七宝焼の技術そのものの伝播は奈良時代頃と考えられているが、その後大きく発展することはなかった。やがて中国の明代において七宝の器物が興隆すると、日本国内における唐物趣味の拡大も相まって多くの七宝製品がもたらされた。以後、桃山時代から江戸時代の初頭にかけて、しだいに国内においても七宝製品が作られるようになっていった。

近世初期に作られた日本製七宝焼の特徴として、作例の多くが釘隠や襖の引手といった金具類であったことが挙げられる。室町時代までの金具類が六葉形釘隠や楕円形引手のような伝統に則った、単なる付属物であったのに対し、桃山時代以降では建築物の細部にまで意匠を凝らしたものが作られた。《夕顔文釘隠》はまさにその時期の作例である。

釘隠とは長押を貫いて柱に打ちつけた釘の頭を隠すための金具である。細見美術館が所有する《夕顔文釘隠》は近世の釘隠の中でもかなりの大型に属し、縦13.0㎝、横26.8㎝にもなる。夕顔の花弁や葉を一定の対称性を保たせつつ、菱形の区画内に大胆に構成する意匠感覚は、桃山時代の雰囲気をよく伝えている。銅胎の花弁や葉には赤・白・深緑・青緑・緑の五色もの釉薬を分け入れているが、特に花弁部分には二色の釉薬を一区画内に置くことでグラデーション効果を狙う無線七宝の技法が駆使されている。豪壮さと技巧性を併せ持つ《夕顔文釘隠》だが、どういった建物に使用されていたのかについてははっきりしない。ただ伝承によると、関白となった豊臣秀吉の政庁兼邸宅であった聚楽第の建物に使用されていたとされている。個人的には決して可能性が低い話ではないように思う。ちなみに京都市下京区には釘隠町という珍しい町名がある。調べてみると江戸時代の初頭、京都にいた1人の大商人の建物に見事な釘隠が使ってあったことが多くの見物人がおしかけるほどの評判となり、いつの間にか町名として定着し、現在にまで至っているそうである。

桃山時代から江戸時代の初頭にかけての日本では、唐物が国内に大量に輸入されていたのと同時期に、スペインやポルトガルといった南蛮諸国との交易も盛んに行われていた。当時、日本からの輸出品として主要品目の1つであったのが蒔絵や螺鈿を施した華麗な漆器類(南蛮漆器)であった。それらの多くは西洋人の注文によって制作された、彼らにとっての祭祀用具であり調度品であった。

《草木蒔絵螺鈿洋櫃》は、西洋式の櫃に東洋風の四季の意匠を蒔絵や螺鈿によって施した作品である。四季を表す草木の描写には平易で大量生産に向いた平蒔絵の技法が見られ、それらを区切る直線や菱形の連続文様は螺鈿によって表現されている。これと似たような蒔絵螺鈿洋櫃は京都国立博物館や東京のサントリー美術館が所有しているものなど、国内外に多くの類例が確認されており、南蛮漆器の中でもポピュラーな存在であったことが窺える。他の一般的な洋櫃がかなり大型であるのに対し、《草木蒔絵螺鈿洋櫃》は比較的小型の洋櫃であるが、特に注目すべき点として内容品である小箱類が一式揃っている希有な作例であることが挙げられる。多くの漆器が輸出品として海を渡った中で、どういった経緯で国内に残されたのか疑問だが、当時南蛮漆器がどのように使用されてきたのかを知る手掛りとなる作品であろう。

参考文献:珠玉の日本美術
   

text:上田祥悟

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