ありえるかもしれない未来《國府理 未来のいえ レビュー》
國府理の車への思い入れは、本人の趣味はもちろん、世代によるものも大きいのだろう。國府が育ったのはスーパーカーが流行した時代であり、國府は小学校時代には友達に頼まれてそれらのイラストを描いていたという。現在の國府作品の支持層も意外とそのスーパーカーに熱狂した世代に多かったりするのかもしれない。もっともそのように車に思い入れのある人でなくても、多くの人は彼の作品を目の前にしたら理屈抜きに心が躍ることだろう。プロペラの回転によって進む自転車や自動車、巨大な帆を張って風力で走る車といった「KOKUFUMOBIL」と呼ばれる乗り物群は、まるでSFの世界の乗り物が実物大の模型として再現されたかのようだ。そしてKOKUFUMOBILのおもしろいのは、それらの多くは見かけ倒しではなく実際にその機能を果たすところだ。國府の想像力によって生み出されたそれらの見た目はSF的ともいうべきものだが、それらは確かに実現可能な「ありえる」ものなのだ。そしてそれらが実際に動いているのを目にしたとき、見る者の心にはまた新たな世界のイメージが浮かんでくる。この空想とリアリティーの独特な混交は國府作品の大きな特徴の一つである。
本展のタイトルが「未来の家」となっているように、國府は作品について語る際しばしば未来に言及する。ただし彼がイメージする未来は一般に考えられるそれとはひと味違う。私たちは未来といえば今より便利になった世界を思い浮かべる。志向性としては、技術を改良してより前へ前へと進もうとしているといえる。そこで生じる問題、例えば環境汚染やエネルギーの問題にしても、やはり技術の進歩と効率化によって解決しようとする。車の例でいえば、従来の普通乗用車からハイブリッドカーへ、そこからさらに電気自動車へ、というように。もちろん技術が進歩しエネルギーが効率化されることは喜ぶべきことだし、それは実際のところ問題の改善に寄与してもいるだろう。しかし、対策の方向性は他にもありえるのではないか?國府は生活スタイルを変えずに新たな技術で環境問題に対処しようとする社会のあり方に疑問を抱き、次のように言う。「クルマを移動手段と考えると、東京−京都間が6時間とか5時間とか、整備された道路や今のクルマの性能を前提に話が進む。でも、もっと緩やかでいいんじゃないか。ガソリンがなくなり、都市機能が失われて、みんなが天候に左右されながらのんびり生きるのも未来的風景かな、と」。彼のイメージでは「未来=技術の進歩」ではない。現在の便利さを手放して今とは全く異なるリズムで生きる未来、というのも考えられてもいいのではないか?と國府は問いかけるのである。
風力のみで走る《Natural Powered Vehicle》などはそういった発想の下で制作された作品だろう。このような作品を見て「こんなのは実用性のない絵空事だ」と言う人がいるかもしれないが、作家本人とてそれらが現実の車に取って代わることを考えているわけではないだろう。國府は未来の車のあるべき姿としてKOKUFUMOBILを提示しているのではないのだ。國府は技術で遊び機械と戯れつつ、環境問題への対策において技術の進歩ばかりに頼ろうとする風潮に対して「こんな可能性もあるんじゃないの?」とつっこみを入れる。彼の作品は想像力によって、ありえたかもしれない現在、ありえるかもしれない未来の可能性を提示するのだ。それは問題に対する直接の解決策とはならないかもしれないが、現在の我々の志向性の偏りにブレーキをかけ、人/機械/自然の間の関係の結び方に新たな発想を与えてくれる。
國府が作品の前面に環境への関心を見せ始めたのは《CO₂ Cube》(2004)や《Natural Powered Vehicle》(2004)のころからだ。そして國府の環境への問題意識は年々強まり(それはもちろん3.11の影響も大きいだろう)、人/機械/自然の三者の関係は今や彼の作品の中心テーマとなっているといっていいだろう。國府はそのようなテーマを扱った作品として、先に挙げたKOKUFUMOBILの他、機械と植物を組み合わせた作品を近年たびたび試みている。具体的には、空調から光源、降雨装置まで備えた直径5メートルの温室を作りその中に草木を植える《Typical Biosphere》や、パラボラアンテナを皿のように用いてそこに土を敷き植物を自生させる「Parabolic Garden」のシリーズなどである。今回の展覧会においても「《親子の庭》と《Parabolic Garden ROBO》という二つの「Parabolic Garden」シリーズの作品が出品されている。「Parabolic Garden」について國府は、「工業的な鉄骨に支えられて宙に浮いた土地は、何ものかによって大地からきりとられた庭のようである。自然を切り取って見せるということは、もともと存在した地面の上で人間が文明を築く行為の始まりだったのではないか、と感じた。」という。
本展に出品されている《未来のいえ》は、植物と機械を組み合わせたシリーズの新作である。本展の題名にもなっている本作は、高所作業車の上にアクリルで作られた部屋を乗せ、その中に土を敷いて植物を生やしたものだ。高所作業車のキャタピラで移動し、伸び縮みする支柱によって部屋を持ち上げたり下ろしたりすることができる。土台の上に植物のための空間があるという構造では「Parabolic Garden」と共通する本作だが、そのつくりはずっと複雑で多機能のものになっている。「Parabolic Garden」を「文明の始まり」であるとすれば、本作はその文明がより発展した姿だといえるだろうか。この「いえ」は國府が言うように「中にいる生物のために自ら動いてよりよい場所を探し求めようとしている」のかもしれないし、「あるいは、何者かから逃れようとしている」のかもしれない。この作品を実際に観て印象的だったのは、この装置が美術館の展示室内でいかにも不自由そうにしていたことだ。美術館の展示室はこの装置にはどうにも小さすぎて、支柱を縦に伸縮させることはできず、キャタピラによる移動も細長い室内を行ったり来たりするばかりだ。その姿はまるで、住みよい場所を求めて移動をくり返していた者が、行き場をなくして途方にくれてさまよっているようだった。
私たちはより住みよい場所を求め続けた結果現在に至っているはずだ。しかし、よりよい暮らしをもたらしてくれると信じられていた技術が、逆に今我々を危険にさらし、人が住むことができない空間を作り出している。本展の最後の作品《水中エンジン》は、そのような福島第一原発の状況を非常にストレートな形で表現している。水槽の中に吊るされたエンジンは唸りながら起動するも、その動力はどこかに伝わり活用されることはない。エンジンはただ蠢きつつ熱を発し、それと同時に排気ガスを放出して周囲の空気を汚染するばかりである。
このような危機に直面している現在、私たちに必要なのは、目の前にある問題を解決するための技術を開発することではなく、よりよい生活を技術の進歩の中にばかり求める現在の文明のあり方を根本から考え直すことではないのか?現代社会の不穏な行く末を暗示するかのような《未来のいえ》を通して、國府は私たちにそのように問いかけているのかもしれない。
text:佐々木玄太郎
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