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眼をとじて心で見る 《オディロン・ルドン ―夢の起源― レビュー》

2013 年 5 月 28 日 3,127 views No Comment

なぜだかわからないが、それは意外に小さかった。19世紀から20世紀初めにかけてフランスで活躍した画家オディロン・ルドンの《眼をとじて》と題された絵だ。

ルドンといえば石版画や木炭による奇怪で不思議な黒い絵を思い浮かべることが多いが、私はなぜかこの《眼をとじて》が以前から気になっていた。

男とも女ともつかない人物が静かに眼をとじている。何かを瞑想するようでもあり、眠っているようにも見える。静謐な雰囲気に吸い込まれそうな独特の静けさに満ちあふれた絵だ。大空いっぱいに描かれた人の顔・・・。これはきっとかなり大きな絵に違いない。そう勝手に思い込んでいたのである。

今、東京新宿の損保ジャパン東郷青児美術館でオディロン・ルドンの展覧会が開かれている。第1部:幻想のふるさとボルドー、第2部:「黒」の画家、第3部:色彩のファンタジーという3部構成で紹介されているのは、初期から晩年までの油彩やパステル画、石版画、木炭画などおよそ150点だ。こうして生涯にわたるルドンの作品を眺めていると、その作風が一人の作家の中で大きく変化していることに驚かされる。

特に印象に残るのが、ルドンが「黒の画家」と呼ばれる時代の石版画や木炭画である。神話や詩などから着想したというこの時代のルドンの絵は、宙に浮かぶ人間の頭や眼球、人の顔をした花や昆虫など奇怪で不思議なイメージに満ち溢れている。

ルドンといえば多くの人が、この黒い奇怪な絵を思い浮かべるが、実はこうした絵を描いていた時代はそう長くはない。ルドンが50歳の時に描いた「眼をとじて」以降76歳で亡くなるまでは、鮮やかな色彩と静けさに満ちた作品を描き続けた。ルドンという画家が追い求めたものはいったい何だったのだろうか。

1840年、フランスのボルドーで生まれたオディロン・ルドン。幼少のころは病弱だったため、この街の郊外の荒地に広がる農園で過ごすことが多かった。森や沼など手つかずの自然が多く残され、そこで見聞きしたことはルドンのその後の生涯に様々な影響を及ぼすことになる。

もう一つルドンの思考に大きな影響を及ぼしたのは若いころに出会った植物学者の存在だ。植物学の専門家のアドバイスをえて、顕微鏡で垣間見た生物の微小な構造に、生命の不思議を大いに感じていたのだという。

幼いころから絵が得意だったというルドンは木炭画からやがて石版画などに目覚めていった。現実に目の前に広がるフランスの田舎の豊かな自然の光景と、神秘的な生命の仕組みに大きな影響を受けながらルドンの芸術家としての人生が始まったのである。

第1部「幻想のふるさとボルドー─夢と自然の発見」で紹介されるのが、20代後半までの主にボルドーで描いた初期の作品だ。ルドンはこの時代、バルビゾン派の画家に影響を受けており、油彩やパステルによる風景画を多く残した。ルドンが過ごすことが多かった農園の周囲に広がる森やブルターニュ地方の農村の風景を描いた穏やかでオーソドックスな絵だ。

しかし一方で、ルドンの初期の油彩画や木炭画の中には単に自然の描写にとどまることなく、神話や叙事詩の世界からヒントを得て描いたいくつかの作品が含まれている。森の風景を描いた写生画には、明らかに空想と思える人物が出現し、魔物が住むかのような不思議な森の光景を描いた絵が登場するのである。こうした絵は後に「黒の画家」と呼ばれるルドンのあの空想に満ちた夢の世界への移行を予感させるものだ。当時ルドンは風景画の大家コローから次のような助言を得ていたという。
「空想的なイメージの隣に自然に直接取材した事物を置くように、そうすれば想像の世界も現実的になる」(図録より)

「黒の画家」の始まりはいったいなんだったのか。それに明確な答えはない。しかし1870年に始まった普仏戦争が一つの大きなきっかけだったことだけは確かなようだ。結果的にはフランスが敗北するこの戦争に従軍したルドンは、この年を境に大いに変身をとげることになる。それまでのどちらかといえば現実逃避型の生活を、戦争という過酷な現実を前に大きく変えざるを得なかったのである。

30歳後半からの「黒の画家」と呼ばれる時代、ルドンが絵を描くのに用いた手段は版画だ。中でも石版画は多く、ルドンはその生涯に172点を残している。

ルドンの最初の石版画集が11点の作品で構成される《夢のなかで》だ。版画一枚一枚には「孵化」や「発芽」、「車輪」、「冥府」、「地の精」、といったタイトルが付いており、どこか生命の誕生から死までを一つの話の筋のようにしているようにも見える。

しかしそこに描かれたイメージは卵の中に描かれた人の横顔、空中に漂う目玉、骰子を背負って森を歩く人など、多様で難解である。ルドンは自らこの版画集についてこう述べている。
「そこで展開されている不確定であいまいな世界については作品を見る人が自由に連想を繰り広げていけば良いのだ。」(図録より)

ルドンの言葉通り、私たち見る者は自由にイメージをふくらませていけばよいのだが、その後のルドンの石版画や木炭画を見ていくと、そこには共通するある種のこだわりが見えてくる。その一つが人体の器官、特に眼球へのこだわりである。

版画集《夢のなかで》の一枚「幻視」という作品。巨大な眼球が中央に描かれ、まばゆいばかりの光を放っている。そこはどこかの宮殿であろうか、両脇には太い柱がたち、手前の階段の前には格子模様の床が広がる。眼球の出現を驚いてみつめる男と女・・・。

一説にはギュスターブ・モローの歴史画に感化されたルドンが描いたものだという説もあるが、モローの洗礼者ヨハネの首に代わって描かれているのは眼球である。

ルドンの眼球をテーマにした作品にこんなものもある。《エドガー・ポーに》と題された石版画集に登場する「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」では大海原の水平線の上に気球に乗せられた眼球が大空へと昇っていく。眼球が見つめるのは上空はるかかなた。下に黒々と描かれている無表情な海と海岸と思われる陸地にはわずかに植物らしきものが描かれている。

ルドンは精神的な意味あいからも生物学的な観点からも眼という器官を重視していた。眼をよく見開き、その眼を通してルドンは自然の細かい仕組みを観察し、そこに独自のイメージを付け加えていたのだ。

1887年に描かれた《蜘蛛》という石版画がある。そこには蜘蛛の足や体などが観察に基づいて緻密に描きこまれている。しかし異様なのはその蜘蛛の胴体にはなぜか顔が描かれていることだ。上目遣いの眼、いかにも笑っているような口元、実に奇妙な絵だ。

こうしたルドン独特の描き方は《蜘蛛》という作品だけではない。薄暗い沼にはえた奇妙な花。沼から生える一本の植物に人間の横顔を描いた木炭画《沼の花》だ。

この絵もまた自然の緻密な観察で得たイメージに人の顔を重ねている。それはかつてコローから得た助言「空想的なイメージの隣に自然に直接取材した事物を置くように・・・」を実践しているかのようでもある。

こうした黒を基調にしたルドンの作風が1890年頃を境に大きく変化する。黒い怪物たちが跋扈する絵から一転して色彩にあふれたファンタジックな絵に一変するのだ。花などの静物画や人物画、風景画などそれまでのルドンの絵からは想像もできなかったような絵だ。

実は冒頭に紹介した《眼をとじて》はその黒から色彩へと変化するきっかけとなる絵なのだ。ルドンの《眼をとじて》はリトグラフや油彩など数点あるが、今回展覧会で見ることができるのは1890年に描かれた石版画によるものだ。

手前に広がる波打ち際と横にのびる水平線、その上に眼を閉じた巨大な頭部が浮かび上がる。眼を閉じた頭部は処刑された洗礼者ヨハネの首など殉教者のイメージだとも言われるが、長い髪、少しこけた頬など私には深い眠りあるいは瞑想する人の顔に見えてならない。当時ルドンは夭折の詩人のゲランの次のような一節に深く魅了されていたという。
「物事を知る真実の眼は魂の内なる眼である。我々の眼が閉じられたとき我々は自然と魂の接触を確立できるのだ。」

ルドンは「黒の画家」と呼ばれた時代、人体の器官としての眼球をことさら強調して描いてきた。その眼という器官を使って自然を細密に観察し、そこに空想上のイメージを加えて奇怪な夢を描いていたのだ。

それが一転して眼はとじられることになる。これ以降のルドンの絵に登場する人物はいずれも眼をとじた顔を描いた作品がほとんどだ。物質から超越したどこか精神的なものが凌駕する領域へとルドンの絵画は変身したのだ。

今回の展覧会で最後に目にするのが遺作となった《聖母《だ。全体がくすんだ赤で統一されたその絵は1916年ルドンが亡くなったときイーゼルにまだ架けられたままだったという。物を凝視する眼という器官にこだわり、眼を通して世界を見つめていた時代は終わり、眼を閉じて世界を眺めるというルドンが最後に到達した世界が、ここには凝縮されている。

ところで《眼をとじて《の大きさだが、31センチ×24センチ、A4ほどの小さな絵だ。周囲の人に図版でこの絵を見てもらったら、やはりほとんどの人が大きい絵に違いないと答えた。多くの人がなぜ大きな絵と感じるのか、それはいまだによくわからない。もしかしたら、それは内なる眼をもって自然を眺めたときに感じる世界の広さではないだろうかとも思うのである。

参考文献:本江邦夫著「オディロン・ルドン」(みすず書房)、展覧会図録


text:小平信行


『オディロン・ルドン ―夢の起源―』の展覧会情報はコチラ


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