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信仰の交差点 《當麻寺 - 極楽浄土へのあこがれ- レビュー》

2013 年 5 月 28 日 2,802 views No Comment

日本書紀の推古21年(613年)の条に「自難波至京置大道」とある。これは日本最古の官道に関する記述として知られ、そのルートは現在の国道166号と同じく、大阪の難波から二上山の南側を抜け、奈良の飛鳥京へ至るというものであった。飛鳥時代にはこの官道を通じてさまざまな物資が運ばれ、また遣隋使や留学僧が往来して大陸の文化を都へともたらし、飛鳥文化の発展に大きな役割を果たした。二上山の東麓に位置する當麻寺は、7世紀の創建以来、そういった交通の要衝として栄えながら、やがて極楽浄土信仰の聖地として人々からの深い帰依を集めていった。

そんな當麻寺の本尊である国宝《綴織當麻曼荼羅》の完成から1250年を迎えるのを記念し、奈良国立博物館において『當麻寺―極楽浄土へのあこがれ―』展が6月2日(日)まで開催されている。会場では、およそ30年ぶりに一般公開される《綴織當麻曼荼羅》をはじめ、普段はなかなか見ることできない寺宝の数々が一堂に会して展示されており、これらを通じて飛鳥時代から江戸時代に至る當麻寺の信仰の歴史をたどりながら、その魅力に迫ることができる。


當麻寺の背後にそびえる二上山の周辺には数多くの墳墓が残る。このことは二上山一帯の地域が「あの世」と深い繋がりを持つ土地として、古来より神聖視されていたことを裏付けている。平安時代後期に末法思想が普及すると、飛鳥から見て西方にある二上山は落日の山として重視されるようになり、その麓に位置する當麻寺はしだいに西方極楽浄土信仰の拠点となっていった。では、浄土信仰が広まる以前の當麻寺の様子はどのようなものであったのだろうか。

當麻寺の草創期については不明な点が多いが、現在の場所に創建されたのは7世紀後半にまで遡るとされている。現在の當麻寺において、中心となる堂宇は《綴織當麻曼荼羅》を安置する本堂(曼荼羅堂)であるが、創建当時に中心的役割を担ったのは弥勒仏座像を安置した金堂であった。堂内では現在も粘土によって造られた(塑造)弥勒座像を中心に、脱活乾漆造による四天王像が四隅に配されている。脱活乾漆造とは木の心棒に粘土で造形を施し、その上に漆を塗って麻布を張り重ね、麻布が像の形に固まったら粘土を取り除いて中空の像とする技法である。費用や時間、手間は掛かるが、軽くて丈夫なため火災時などに避難させることが容易であるのが利点である。

会場にはそんな四天王像のうちの《持国天立像》が展示されている。四天王像といえば威激しく、動きある姿勢を想像するが、《持国天立像》では顎髭をたくわえて静かに直立している姿が印象的である。解説によると、當麻寺の四天王像はいずれも明治時代に日本美術院による修理を経ているが、それ以前の状態は見るも無惨なものであったらしく、修理に際して大部分が後補されたそうである。《持国天立像》も例外ではなかったが、比較的当初の乾漆層を残していた。修復作業の中で、この乾漆層の内側には桶状に加工したキリ材を沿わせていたことが明らかになったが、このような手法は後世の脱活乾漆造の像、例えば奈良時代に造られた興福寺の阿修羅像などには見られないものであり、飛鳥時代の造仏技術を特徴付けるものとして注目される。


国宝《綴織當麻曼荼羅》が當麻寺に安置されたのは奈良時代の終わりから平安時代の初め頃と考えられている。先述したように、この時期に當麻寺の本尊であったのは金堂の弥勒仏座像であった。《綴織當麻曼荼羅》に関する当時の状況を明らかにした史料はなく、意外にも鎌倉時代になるまでその存在が広く世間に知られることはなかったとされている。

《綴織當麻曼荼羅》はおよそ4メートル四方もの大画面に、浄土三部経の一つとして重視される「観無量寿経」の諸説を綴織の技法で絵画的に示したものである。普通、同規模の作品を織物で表現するにはかなりの年月を必要とすると言われているが、當麻寺に伝わる伝説では奈良時代に極楽浄土を願って仏行に励んでいた貴族の娘(中将姫)が、天平宝字7年(763年)に仏の助力を得て、蓮の糸を用いて一夜で織ったとされている。中将姫の伝説についての詳細は、室町時代に作られた上・中・下の3巻からなる絵巻《當麻寺縁起》の中に見ることができる。余談だがこの中将姫の物語は、中世以降では1人の女性の苦難と救済の物語として人々に享受されるようにもなり、世阿弥や近松門左衛門らによる脚色が加えられながら、新たな物語へと発展していった。

鎌倉時代に入り、しだいに教団化しつつあった浄土宗には、それまで宗派の開祖や教えを説くための図像がなかった。それは諸行を排して念仏に専念することを重視した結果であったが、やがて礼拝のための図像が必要とされ始めると、當麻曼荼羅の存在が注目されるようになった。その理由は當麻曼荼羅に描かれていた内容が、浄土宗の開祖による観無量寿経の解釈と一致していたからであった。これらの事情に加えて、中将姫の説話の中で語られた當麻曼荼羅の成立における「奇跡」が当時の人々の信仰を集めた結果、當麻曼荼羅は寺の内外で転写が繰り返され、広く一般に知られるようになっていった。

8世紀の日本では他に類を見ないほど高度かつ繊細な綴織を駆使し、絵画的な図様を表した大作である《綴織當麻曼荼羅》を改めて会場で見てみると、その大きさに圧倒されると同時に、全体的に激しく傷んでいる様子が確認できる。実際、後世に補修・補筆された部分も多く、それ故に長い間絵画か染織品か判断できなかったという話も残っている。《綴織當麻曼荼羅》の損傷は、鎌倉時代には既に問題になっていたようで、建保5年(1217年)には1回目となる転写が行われ、「建保曼荼羅」が作られた。「建保本」とも呼ばれるこの曼荼羅は、三十三間堂で知られる京都の蓮華王院に納められた後、再び當麻寺に戻されたのだが、残念なことに現存していない。その後、室町時代に2回目の模写が絹地に行われたが、こちらは文亀2年(1502年)に図柄が完成したことから《文亀曼荼羅》または《文亀本》と呼ばれ、今回の展覧会に初出品されている。《文亀本》は「建保本」をもとに制作された可能性が高く、《綴織當麻曼荼羅》の最も古い正統な同寸模写本として位置付けられている。会場には他にも関西圏を中心に集められた當麻曼荼羅が数点展示されており、《文亀本》との比較を通して、それらがオリジナルからどのように派生していったのかを見ることができる。(残念ながら《綴織當麻曼荼羅》の展示は5月6日までで終了しているが、《文亀本》は最終日の6月2日まで展示されている。)

當麻寺が所有する工芸品の中で注目したいのは、當麻寺奥院の国宝《倶利迦羅龍蒔絵経箱》である。この経箱は平安時代に作られた蒔絵作品の数少ない遺例であるとともに、倶利伽羅不動の尊影を意匠として扱った最初期の例として重要視されている。現在では身1段と蓋のみが残っているが、もとは3段造りの構造であったと言われている。

一般に不動明王が右手に持っている、龍が巻きつき炎に包まれた剣のことを倶利迦羅剣(くりからけん)という。作名にある倶利迦羅龍(王)とはこの倶利迦羅剣が、不動明王の化身として単独で磐石に突き立った姿で表された尊影のことを指している。檜の木地に黒漆が塗られた《倶利迦羅龍蒔絵経箱》の蓋表では、中央に倶利迦羅龍(王)を配し、その左右に制叱迦(せいたか)童子、矜伽羅(こんがら)童子をそれぞれ配す典型的な不動三尊の様子が、金銀の蒔絵で表されている。よく見ると龍の背と腹や、童子の肌色の違いを金と銀を蒔き分けることで表現しており、各素材の持つ装飾効果を巧みに利用していることが窺える。


當麻寺はその独特な立地場所から、時代ごとに様々な信仰の拠り所となってきた。それらは時に、當麻曼荼羅と浄土教の出会いのような偶然性を含みつつ、互いに反発し合うというよりは、それぞれの信仰にとって最適な着地点を見出していった。そういった信仰の積み重なりが、當麻寺やその周辺地域における聖地としての地位をより強固なものにしていったと言えるだろう。

最後に、今回の展覧会では展示期間が細かく管理されている作品が多いので、足を運ばれる際には奈良国立博物館のホームページ等で展示状況を詳しくチェックすることをお勧めしたい。
                                
参考文献:展覧会図録
   

text:上田祥悟

『當麻曼荼羅完成1250年記念特別展「當麻寺 - 極楽浄土へのあこがれ-」』の展覧会情報はコチラ


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