在外至宝ずらり 《特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝 レビュー》
アメリカで最も歴史のある美術館の1つに数えられるボストン美術館が所有する日本美術のコレクションは、およそ10万点にものぼる。この世界的にも貴重なコレクションの礎を築いたのはエドワード・S・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲローら、日本美術をこよなく愛した3人のボストニアンであった。明治維新以降、日本中が一丸となって近代化・西洋化を押し進めていく中で、3人の元には様々な経緯で手放された美術品が集められた。後にボストン美術館へ寄贈されることになるそれらの作品の中には、日本の美術史上欠かすことのできない作品も多く含まれていた。
大阪市立美術館で6月16日まで開催されている『特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝』では、ボストン美術館が誇る膨大なコレクションの中から厳選された日本美術の優品、約70点が5つの章に分けられて展示されている。出品作品の中には国宝級・重要文化財級の評価を受けているものや、曾我蕭白の《雲竜図》のように長い修復作業を終えて本邦初公開となるものも含まれており、1点1点が非常に見応えのある展覧会となっている。
第一章「仏のかたち 神のすがた」では、奈良時代から鎌倉時代にかけて制作された仏画や仏像のコレクションが展示されている。それらの多くは保存状態も良く、鮮やかな色彩を今に伝えているが、中でも《法華堂根本曼荼羅図》は海外にある奈良時代の仏画の遺例として注目されている。
奈良時代の仏画作品は、国内においても奈良県薬師寺の国宝《吉祥天像》などの数点しか確認されていない。《法華堂根本曼荼羅図》では釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)という山において諸尊や衆生に法華経を説く様子が描かれている。霊鷲山はインドに実在する山で、晩年の釈迦が法華経や無量寿経を説いた場所として仏画の中に度々登場する。山頂の形が鷲に似ている、山中に鷲がいることなどが名の由来と言われている。《法華堂根本曼荼羅図》を見ると、中央に座す釈迦が身にまとっている衣に見られる朱色が、奈良時代のものとは思えないほど鮮やかに残っていることに驚かされる。また背景描写に関しては、下地となっている麻布の変色や岩絵の具の剥落によって把握しづらい部分があるが、本展の図録に掲載されている赤外線調査時の写真と見比べることで、険しい山岳の様子が描かれていることが確認できる。ここに見られる山や谷の表現については、唐の時代の絵画様式との関連性が指摘されており、本図が中国における初期山水画について考える上でも重要視されている理由となっている。
《法華堂根本曼荼羅図》の背面には1148年(久安4年)に記された銘文があり、そこからかつて東大寺法華堂(三月堂)に伝わっていた仏画であることが明らかになった。奈良時代から明治時代に至るまで、主要な法会の本尊とされていた本図は、明治政府が命じた神仏分離令により生じた廃仏毀釈運動のなか、1884年(明治17年)にビゲローの手に渡り、後にボストン美術館に寄贈された。国内にあれば間違いなく国宝に指定され、厳しい管理の元に置かれるであろう本図を、本展では驚くほど間近に見ることができる。
《弥勒菩薩立像》は鎌倉時代を代表する慶派の仏師、快慶の作品である。快慶の作風は同時代に活躍した運慶と同じく写実的でありながら、繊細で理知に富んでおり「安阿弥様(あんなみよう)」と称される。《弥勒菩薩立像》に見られる曲線的な体の表現や衣の襞の形、目の部分に水晶を嵌め込む玉眼技法の使用などは慶派の仏像の特徴をよく伝えている。1906年(明治39年)にこの像が修復された際、内部に納入品が見つかり、その内容から1189年(文治5年)に快慶の手によって造られた仏像であることが明らかになった。これは現在確認されている快慶の仏像の中で最も古く、その造仏活動について知る上で欠かすことのできない作品となっている。
《弥勒菩薩立像》はもともと奈良県にある興福寺が所有していた仏像である。今年2013年は興福寺にある南円堂の創建1200周年にあたり、これを記念して南円堂と北円堂に安置されている仏像が6月2日まで特別公開されている。先日足を運んでみたが、ここでは快慶の師であり、また運慶の父でもある仏師、康慶の《不空羂索観音菩薩坐像》《法相六祖像》を見ることができる。これらの作品は興福寺を中心に活躍し、慶派と呼ばれる仏師系譜の基礎を築いた康慶とその弟子達によって1189年(文治5年)に造られたとされている。それは奇しくも《弥勒菩薩立像》と同じ制作年であり、今展と関連して師と弟子の作風を見比べられる機会となった。
第二章「海を渡った二大絵巻」では、平安時代に描かれた《吉備大臣入唐絵巻》と鎌倉時代に描かれた《平治物語絵巻 三条殿夜討巻》が全場面展示されている。いずれの作品も各地の社寺などに納められ、厳重に守られていたものであったが、幕末以降美術市場に出され、やがて海を渡ることとなった。当時、特に《吉備大臣入唐絵巻》の海外流出は正規ルートでの商取引であったにもかかわらず国内で大きな反響を呼び、このことが美術品に関する法整備が急務であることを当時の人々に実感させた。同作品流出の翌年に「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が成立することになる。
そのような経緯のある《吉備大臣入唐絵巻》は、奈良時代に遣唐使として唐に渡った実在の人物、吉備真備の活躍をユーモアを交えつつ活き活きと描いた作品である。もとは全長24.5メートルにも及ぶ1巻の巻物であったが、1964年の東京オリンピック記念特別展で初めて里帰りした際に、保存や展示の観点から全4巻に改装された。
唐に到着した直後に高い楼閣に幽閉されることになった真備は、その地で客死し幽鬼となった阿倍仲麻呂に出会う。唐の皇帝は幽閉中の真備に「文選」の解読や囲碁の勝負といった無理難題を出すが、真備は仲麻呂の助けを借りてそれらを解き、遂には無事帰国する、というのが大まかな話の流れである。物語そのものの持つ面白さに加え、真備と仲麻呂が超能力で空を飛ぶ様子や試験問題を盗み聞きしている様子など、画中に描かれた豊かな人物表現が思わず笑みを誘う。他の会場と比較してみても、より多くの人が長い時間を掛けてこの物語に見入っているようであった。
第三章「静寂と輝き」では、鎌倉時代後期に主に禅僧を通じて伝来した水墨画による作品と日本の絵画史において最大の画派である狩野派の初期作品が展示されている。日本において禅僧や絵仏師が中国画の影響を受けつつ制作した水墨画は、足利家が禅宗を庇護した室町時代に全盛期を迎えた。しかし1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱以降、水墨画の担い手はしだいに狩野派などの職業画家へと移っていった。そして初期の狩野派は水墨画を手掛ける一方で、金地や金雲と鮮やかな色彩を用いた作品も制作した。
本邦初公開作品の1つである《金山寺図扇面》は中国江蘇省にある寺、金山寺の様子を赤、緑、金の彩色でもって扇面に細やかに描いたものである。金山寺を主題にした他の作例には、禅僧であり水墨画家でもあった雪舟が、中国旅行の道中で目にした風景を描いた《唐土勝景図巻》(原本は失われ、弟子達による模写が残る)などがある。16世紀初頭に制作されたとされる《金山寺図扇面》の左隅には狩野派の祖とされる狩野正信の子、元信の作であるとする印が見られるが、実際に本人が描いたものとは断定されていない。しかしこの作品が水墨画に見られる画題を扱っている点や、後の桃山時代に盛行する金碧画(きんぺきが)の最古の作例である点などを踏まえると、初期狩野派に属していた画家の手によるものであることは間違いなさそうである。ちなみに、会場には《金山寺図扇面》を含め、狩野元信に関係する作品が4点出品されていたが、現時点で元信の作品であることが言及されていたのは《白衣観音図》の1点だけであった。
第四章「華ひらく近世絵画」では、桃山時代以降に狩野派をはじめとする諸画派が腕を競った障屏画の作品をはじめ、京都において新たな装飾美の世界を生み出した琳派の作品や、精緻な花鳥図で独特な世界を表現した伊藤若冲の作品などが展示されている。
六曲一隻からなる《松島図屏風》は江戸時代中期を代表する琳派の画家、尾形光琳による作品である。師から直接画技を学んでいた他の画派とは異なり、琳派の画家達は各人の私淑によって主題や図様、技法を学び、取捨選択をしながら受け継ぐことで流派の一員としてのアイデンティティを保っていた。このような家系にとらわれない断続的な流派の継承は、時代や地域、身分を超えた広がりを見せ、琳派の特色の1つとなっている。《松島図屏風》に見られる荒磯の図もまた、琳派の祖・俵屋宗達が活躍していた時代から受け継がれている主要な画題の1つであった。光琳は敬愛する宗達に倣って4度松島の図を描いているが、その中でも本図は宗達による六曲一双の《松島図屏風》(アメリカのフリーア美術館が所蔵)の右隻を参考にしたとされている。六曲一双の屏風を六曲一隻で表現した光琳の《松島図屏風》では、荒波が打ち寄せる磯の、よりダイナミックで色彩感の強い表現が見られ、宗達の作品をそのまま模したのではない光琳独自の解釈を見ることができる。
ちなみに《松島図屏風》とは日本三景の松島を描いたものでは無く、大阪の住吉近くの海岸を描いた、もともとは《荒磯屏風》と呼ばれていたものであった。《松島図屏風》と呼ばれるようになった原因は、江戸時代後期に活躍した江戸琳派の祖である酒井抱一にあるとされている。光琳が宗達に私淑したのと同じように、光琳に私淑した抱一は、しかしながら宗達と光琳の関係については詳しく知らなかった。そんな抱一が、光琳による《荒磯屏風》を見た際に、それが宗達の作品を模したものであるとは知らず、松と島が描かれた図と判断し、それがやがて《松島図屏風》という名で定着することになった。当初は光琳の作品のみが《松島図屏風》と呼ばれていたが、後に手本となった宗達の作品も《松島図屏風》と呼ばれるようになり、現在に至った。これは1つの説に過ぎないが、何とも琳派らしい経緯ではないだろうか。
第五章「奇才 曾我蕭白」では、ボストン美術館が所有する世界最大の曾我蕭白コレクションの中から選ばれた代表作11点が展示され、蕭白の最初期から晩年に至る制作活動の一端を窺うことができる。編年的に様々な作品を紹介してきたこれまでの章とは違い、最終章では蕭白1人にスポットが当てられている。
江戸時代における奇想の画家の1人として近年評価が高まっている曾我蕭白だが、その出自や画系については今だに謎が多い。あまりにも個性的な画風と数々の奇行により、江戸時代において既に異端の画家と呼ばれていた蕭白の作品には贋作も多いが、それは当時一般の人々の間で蕭白の評判がそれなりに高かったことを示している。蕭白の画風は中国の故事などに由来する伝統的な画題にデフォルメを加え、卓越した水墨画の技法によって、時に醜悪に、時に剽軽に描き出すというものであった。会場にある《風仙図屏風》は中国の仙人陳楠(ちんなん)が、旱魃から人々を救うため、池に潜む龍を追い出して天の水門を開かせようとする様子を描いた作品である。龍を思わせるような大きく渦巻く黒雲とそれに対峙する男の鬼気迫る構図や、風に吹き飛ばされて転がる滑稽な表情をした人々の表現からは蕭白らしい特徴が見て取れる。また岩や樹木が平筆によって勢いよく描かれているのに対し、水しぶきや人物などは墨の濃淡活かしつつ、細く丁寧な線で描かれており、綿密な筆致と粗放な筆致の巧みな使い分けがなされていることが分かる。
絵画に美しさを求めなかったとも言われる蕭白は、同時代に活躍していた画家の中で「写生」を重要視していた円山応挙に何かしら思う所があったらしく、ある時「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水よかるべし」と語ったいう。これはつまり応挙の絵は単なる説明図であり、精神性が感じられないことを非難した言葉だと考えられる。明治時代以降、国内で蕭白の名が忘れ去られていく中で、残された作品群にいち早く目を付けた海外のコレクターたちは、そこに宿る独特な精神性を早くから見抜いていたのだろう。
参考文献:展覧会図録
text:上田祥悟
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