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清濁併せ呑む 《中国 王朝の至宝 レビュー》

2013 年 3 月 28 日 2,235 views No Comment

広大な国土に多様な民族が共存してきた中国では、古来より様々な地域で育まれた文化が集まり、互いに影響しあいながら融合していくことで、多彩で包容性のある中国文明へと発展してきた。このことは中国を流れる全ての川が、やがては海に行き着くことに喩えられる。

神戸市立博物館で4月7日まで開催されている『中国 王朝の至宝』展では、中国最古の王朝と言われる「夏」の時代から「宋」の時代に至るおよそ3000年の間に制作され、現存している多種多様な文化財、約170点が展示されている。この展覧会は、昨年の10月から12月にかけて東京国立博物館で行われていたものの関西版である。展示構成は時代順に全6章からなり、近年の発掘成果として2008年に南京市で発見された黄金の仏塔《阿育王塔》も特別展示されている。


エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明といった古代の文明が、いずれも大河流域に発生し、独自の国家や文字を生み出したことはよく知られている。中国の古代文明においては、長く黄河の中・下流域で栄えた「黄河文明」を軸に考えられることが多かった。しかし近年の発掘調査によって、中国各地にはもう1つの大河である長江流域をはじめ、様々な文化圏が黄河文明と平行して存在し、多元的な発達をしていたことが明らかとなってきた。

第一章「王朝の曙」では、黄河流域の中原に存在した最初期の王朝である「夏」や「殷」に関係する青銅器や玉器と、長江上流域の四川盆地から出土した金の装飾品や石像などが2つの文化圏を比較するように展示されている。

四川省成都市の郊外にある金沙遺跡は、2001年に行われた下水道工事の際に発見された。遺跡の面積は現時点で5平方kmにも及び、中国における21世紀最初の考古学的大発見とされている。会場にある《金製仮面》は同遺跡から出土した金製品のうちの1つである。高さが3.7センチ、幅が4.9センチの黄金のマスクで、金の薄版を巧みに加工して作られている。使用法ははっきりしないが、ブロンズ像や石像に貼り付けて部分的な装飾としていたと推測される。この《金製仮面》を含め、金沙遺跡からは紀元前12〜10世紀頃のものとされる金製品が200点以上出土しており、こういった金の多用が長江における文明の特徴の一端を示していると考えられている。

金製品以外では、青銅器《虎》や石器《虎》などの出土品も周囲を深い森に囲まれた地域の文明であったことを想像させる。その一方で、金沙遺跡の出土品の中には黄河文明の特徴を思わせる青銅器や玉器も多数含まれている。このことは長江文明が独自性を維持しつつ他の文化圏との交流を行っていたことを示し、中国古代文明の一極集中ではない多面的な有り様を表していると言える。

長江上流域にあたる四川省成都市の周辺は古来より「蜀」と呼ばれ、後の三国時代にこの地域を支配した劉備玄徳によって建国された国もまた蜀と呼ばれるようになった。ちなみに「三国志演義」などで日本でも馴染みのある蜀の正式な国号は「漢」であり、蜀という名は後世になって統一王朝の漢と区別するために、便宜上つけられたものである。ともに三国時代を争った魏や呉と異なり、中国の内陸部にわざわざ拠点を置いた蜀の劉備は、そこが1つの文明を生み出すほど豊穣な土地であることを熟知していたのだろう。


第二章「群雄の輝き」では、黄河文明の流れを汲む「斉」や「魯」の出土品と、長江中流域において独自の土着文化を持つ「楚」の出土品が第一章と同じように比較展示されている。ここではそれぞれの地域に見られる空想上の動物の表現に注目したい。

山東半島にあった斉の都の付近で発見された《儀尊(ぎそん)》は、長い耳と二股に分かれた蹄を持つ牛とも豚ともつかない動物をかたどった青銅器である。紀元前4〜3世紀頃に作られたと考えられている。背中の部分に水鳥を模したつまみ蓋があり、そこから酒などを入れ、口の孔から出す仕組みになっている。架空の動物でありながら、どっしりとした体格や筋肉の形状が巧みに表現されている。また全身には雲気文などの文様が金や銀、トルコ石、孔雀石を埋め込むことによって華麗に装飾されている。所々に失われた部分があるが、中国各地で見つかっている類似品と比べ、最も完成度が高く保存状態の良いものとされており、黄河流域で高度に発達した青銅器文化の様子を見て取ることができる。

一方、斉などの中原の国々から蛮族とみなされていた楚では、人々の土着的な信仰を反映した神秘的な動物像が生み出された。紀元前4世紀頃に作られた《鎮墓獣》では、方形の台座の中心から蛇のような動物の胴体がのびて、鎌首をもたげている。肉食動物を思わせる顔はかなり平面的に表現され、口からは長い舌を出している。さらに頭からは本物の鹿の角を生やす。このような木彫の像は楚の支配した地域の墓から発見されることが多く、鎮墓獣という名前が示すように、邪気や悪霊から墓を守る目的で作られていたと考えられている。 大きな角を持ち、鎌首をもたげ、舌を出す表現には侵入者を威嚇する意味が込められている。会場に展示されている《鎮墓獣》の全体には黒漆が塗られ、その上から赤・黄・金で華麗な模様が描かれていたようだが、今では剥落を免れた僅かな部分のみに、その面影を見ることができる。中原の青銅器によく見られる獣面文のように平面的な怪獣の顔から、本物の鹿の角が生えるという見慣れない組み合わせからは、独特な造形的センスが感じられる。


続く第三章「初めての統一王朝」では、中国史上初の統一王朝となりながらも短命に終わった「秦」と、およそ400年に渡って安定した統治を行った「漢」の出土品を見比べ、統一王朝下で新たに誕生した2つの文化の特色について見ることができる。このように今回の展覧会では、中国史上文化の中心となった2つの地域や王朝の文物を章ごとに対比して展示しており、鑑賞者にその特質と変遷を分かりやすく提示している。


第五章「世界帝国の出現」では、諸外国との活発な交易の中で新たな文化が花開いた「唐」王朝にスポットが当てられ、都の長安と副都の洛陽から発見された遺例の数々が紹介されている。唐の時代には政治的な中心が長安であり、宗教的な中心が洛陽とされた。そしてこれら2つの大都市にシルクロードを通じて西方の文化が流入したことにより、両都は国際色に富む華麗な唐文化の発信地となった。

かつての長安にあたる西安市から出土した《花鳥文鏡》(736年)では、八花形の青銅鏡の背面に植物から採取した樹脂が厚く塗られ、その上には花や鳥の形に薄く切られた夜光貝やアワビ貝が貼り付けられている。また貝による文様のない下地の部分にはラピスラズリやトルコ石、琥珀などの砕片が散りばめられている。同時代の遺例で洛陽の郊外から出土した《双鳥文鏡》(778年)では、金の薄版を切り抜いて作られた石榴と、銀の薄版を切り抜いて作られた唐草をくわえて飛ぶ一対の鳥が、漆を塗った円鏡の背面に貼り付けられている。鏡の周縁には銀の連珠文が等間隔に配置され、背面全体の色彩を引き締めている。

中国における銅鏡の遺例は殷の時代にまで遡ることができるが、《花鳥文鏡》に使用されている螺鈿の技法や、《双鳥文鏡》に使用されている平脱の技法は、唐の時代になってから目覚しく発達した。華麗な装飾が施された鏡が数多く制作され、それらの鏡の一部は周辺諸国へも伝播した。これらの伝来品は当時の人々の目を楽しませただけではなく、そこに施された高度な技術・技法でもって各国の文化に多大な影響を与えた。日本では東大寺正倉院の宝物の中に《花鳥文鏡》や《双鳥文鏡》に類するものをそれぞれ確認することができる。

今後、中国での発掘作業が進むことで期待されることの1つに、そういった正倉院の宝物に関連する出土品の発見が挙げられる。日本国内における類例の少なさから、今なお不明な点の多い正倉院の宝物であるが、中国での類似品の発見により調査が大きく進展する可能性は十分に考えられる。ただ今回の展示品を見ながら感じたことであるが、ほとんどが土の中に埋まっているという状態なので、玉器や陶器、金器などはともかく、染織品や漆工品について当初の状態が維持されていると考えるのは難しい。

参考文献:展覧会図録
   

text:上田祥悟

『<特別展>中国 王朝の至宝』の展覧会情報はコチラ


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