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装飾美の共演 《開館15周年記念特別展Ⅰ 江戸絵画の至宝-琳派と若冲- レビュー》

2013 年 2 月 28 日 2,576 views No Comment

今年で開館15周年を迎える細見美術館では、同館所蔵の優品を扱った記念特別展が企画・開催されている。 2013年3月10日(日)まで開催されている第1弾となる展示では江戸時代の美術・工芸を代表する琳派の画家達と江戸時代における奇想の画家の1人である伊藤若冲にスポットが当てられている。画風は大きく違えど、ともに動植物を好んで描き、装飾性の強い作風で知られる両者の作品約60点が前期と後期に分かれて展示されている。


俵屋宗達、本阿弥光悦らを祖とする琳派の流れついては、昨年同じく細見美術館で行われた酒井抱一展のレビューの中でも少し触れたことがあるが、今回の展覧会では前回以上に琳派の主要な画家達が勢揃いしており、画家ごとの作品数は少ないながらも、時代や地域を越えて受け継がれた琳派の系譜をたどることができる展示内容となっている。細見美術館が「琳派美術館」と呼ばれる由縁は、やはりこの所蔵品の充実ぶりにあると言える。

江戸中期に活躍した渡辺始興は狩野派や大和絵、写生画などの多様な様式の作品を描き分けた画家であった。様々な流派に師を持ち、それぞれの画風を学んだことがそういったことを可能にした。琳派の様式についても晩年の尾形光琳に師事していたことが有力視されている。始興の《簾に秋月図》は中秋の名月とその光によって照らし出された桔梗、薄、藤袴などの秋草が、画面手前にある簾越しにうっすらと見えているという趣深い作品である。月の色には作品のベースとなっている絹地の白さが活かされ、月の周囲に施された淡い藍色の外隈が月をさらに引き立てている。鑑賞者は本来見えるべき秋草の色彩を、簾の外に僅かに顔を出した桔梗の鮮やかな色彩などから想像するしかないが、そういった心理的な機微もまたこの作品を魅力的に感じる1つの要素となっている。   

ところで琳派の画家達が好んで用いた技法に「たらし込み」と呼ばれるものがある。この技法は琳派の祖である俵屋宗達が創案したとも言われている。その工程は、まず墨や絵の具を塗り、その場所が乾く前に濃度に変化を加えた墨や絵の具を垂らすことで、滲みによる自然な形や色の表情を生み出すというものである。江戸時代後期に活躍した中村芳中は、同じ琳派の画家達の中でも特にたらし込みを多用したことで、独自の画風を確立した。

朝顔と雌日芝(メヒシバ)をモチーフにした芳中の《朝顔図》では、細長い蔓や葉の先に至るまで、あらゆる部分にたらし込みによる彩色が見られる。朝顔の葉の部分には、薄墨に緑青を滲ませて表情をつけた上に金泥による葉脈の描写がされているが、最も目立つ朝顔の花の部分には金泥等による細部描写は見られず、むしろ大胆にデフォルメされた花が青の上に白のたらし込みによって、より一層平面的に表現されている。江戸琳派の1人である鈴木其一の《紫陽花四季草花図》の中にも朝顔が描かれており、この2作品を見比べることで両者の画風の違いがはっきりと確認できる。

《宇治橋図団扇》は先に挙げた芳中が生涯を通して私淑していた尾形光琳の作品である。宇治は古くから貴族達にとって俗世(都)から離れたの理想の地であった。そのため宇治の風景は伝統的な大和絵の中に描かれることが多く、中でも宇治橋は宇治を象徴するものとされた。このことは大和絵の流れを汲む琳派の作品の中にも少なからず影響を与えている。《宇治橋図団扇》では丸みを帯びた金地の画面の中に直線的な宇治橋が配され、橋の下には銀泥で川の流れが描かれている。解説によると画面を横切る橋の構図に関しては宗達の銀扇の中に類例があるようで、おそらくはそれを参考にしていると考えられるそうである。そういった琳派様式の伝播という要素に加えて、金と銀の大胆な組み合わせや「光琳水」とも呼ばれる水流の意匠など、小さな画面の中にも光琳の優れたデザインセンスが感じられる作品と言える。


1716年、尾形光琳は59歳でこの世を去った。奇しくも同年、京都の青物問屋の長男として生まれたのが伊藤若冲であった。江戸時代の奇想の画家として曾我蕭白、長沢蘆雪らと肩を並べる伊藤若冲の作品は、代表作の1つである《動植綵絵》で知られるように、動植物の独特の形態や細部にまで施された緻密な筆致、濃密な彩色に大きな特徴がある。またそれらの作品には良質の画材が惜しみなく使われており、200年以上経った今でも鮮やかな色彩が保たれている。その一方で若冲は水墨画による作品も多く残しており、会場においても細見美術館が所有する優品が数点出品されている。

若冲が絵に目覚めたきっかけははっきりしていないが、30歳の頃には家業と平行して本格的に絵を学び始めていたと言われる。40歳の時に早々と家督を弟に譲ると、その後は世間の雑事を避け、酒色にふけることもなく絵に没頭する日々を送った。若冲は絵を学ぶために一度は狩野派の門を叩いたりもしたが、最終的には独学により自らの画法を確立していった。

若冲が制作の中で重視したことは既に絵に描かれたものを見て学ぶのではなく、目の前にある実物を腰を据えて観察し、描くことであった。それを実践するために若冲は数十羽の鶏を自宅の庭で飼い、日々観察と写生を繰り返したのだが、この鶏こそ生涯を通じて若冲が最もよく描き、彼の作品の代名詞にもなったモチーフであった。

6曲1双の《鶏図押絵貼屏風》もその1例である。この屏風では1扇ごとに独立した画を貼る「押絵貼」の形式がとられている。俵屋宗達の《風神雷神図屏風》のように屏風全体を1つの大きな画面とするのではなく、ここでは連続性のない12画面によって作品が構成されている。押絵貼屏風に描かれる画題は、月次の花鳥画や風俗画など互いに関連性のあるものが多い。《鶏図押絵貼屏風》では様々にポーズをとった雄鶏と雌鳥の番が、時にには雛鳥を交えつつそれぞれの画面に描かれている。滑稽とも思える鶏の表情には若冲独特の感性が感じられる他、濃墨で一気に描かれた尾羽を持つ躍動感溢れる雄鶏と、こぢんまりとした雌鳥との対比も見事である。画中では主役である鶏と僅かな地面の描写を除き背景や陰影は一切描かれていないが、このこともまた早い筆さばきで描き分けられた羽の様子をより一層引き立てていると言える。

《鶏図押絵貼屏風》には「米斗翁八十二歳画」という署名が残されている。これにより、この作品の制作年は若冲が82歳であった寛政九年(1797)と推定されている。しかし解説によると、還暦を迎えてからの若冲は元号が変わるごとに1歳加算していたらしく、実際の制作年も1、2年ほどずれる可能性が指摘されている。署名にある「米斗翁」(斗米庵とも)が若冲の号であり、1つの作品を一斗分の米に定めるという意味が込められている。今でいうところの15キログラムの米に相当する。このことが真実であったかどうかは疑わしいが、よく言われるように若冲は売ることを前提に作品制作を行ってはいなかった。

当時、絵を生業にしていた画家たちの作品の価格は、材料費と制作日数によって決められていた。一方、隠居したことで時間的、経済的な制約のない環境で制作を続けることができた若冲の作品には当人の趣味・趣向が強く反映された。会場にある《糸瓜群虫図(へちまぐんちゅうず)》では、糸瓜とその周辺に配された蝶や蝗、蝸牛といった11の動物が、葉脈や短い毛に至るまで細かく描かれている。その中でも特に虫害や病気によって変色した病葉(わくらば)の表現には執拗なまでの描写が施されており、若冲の並々ならぬ拘りが感じられる。病葉は若冲のトレードマークのように扱われることも多いが、実際にどれほど華麗な作品であっても若冲は病葉を描いている。ここにも作品が売れることを第1に考えた他の画家との違いを見ることができる。

明治時代以降になると、若冲をはじめ江戸奇想と呼ばれる画家達の名はしだいに忘れ去られ、彼らの作品の中には二束三文で海外に売られたものも多くあった。長く日本の美術史から見過ごされていたそれらの作品にいち早く注目したのがアメリカのプライス夫妻であり、夫妻が蒐集したコレクションは質、量ともに現在では世界一と言われている。そのうちのほとんどはこれまでに何度か日本に里帰りを果たし、若冲らの再評価に大きく貢献してきた。今年2013年にも東日本大震災復興支援の一環としてプライスコレクションが東北三県を巡回する展覧会が予定されている。関西からは少し遠いが、3月から9月にかけて開催されるそうなので近くまで行く機会があれば足を運んでみたい。

参考文献:琳派・若冲と雅の世界 図録(細見美術館)
   

text:上田祥悟

『開館15周年記念特別展Ⅰ 江戸絵画の至宝-琳派と若冲-』の展覧会情報はコチラ


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