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パリに生きる人々とともに《生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー レビュー》

2013 年 2 月 28 日 2,082 views No Comment

ロベール•ドアノーはフランスを代表する写真家で、とりわけそのパリを舞台とした写真でよく知られている。例えば、市庁舎前を行きかう人々の間でキスを交わす恋人同士を写した《パリ市庁舎前のキス》は、ほとんどの人が一度は目にしたことがある作品だろう。美術館「えき」KYOTOで2013年2月24日まで開催されていた『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー レビュー』展はそのドアノーの生誕100年を記念して開催された回顧展である。

ドアノーはパリ及びその郊外を中心として活動し、そこに生きる人々の日常の一瞬の輝きをとらえた。最も有名なのは映画のワンシーンのような《パリ市庁舎前のキス》かもしれないが、ドアノーの真骨頂はパリの人々の日常を愛情とユーモアをもってとらえた写真にある。酒を立ち飲みしながら自慢げに語る《脚を交差した客》、パンを片手に神妙な顔で流しの奏でるアコーディオンに耳を傾ける《音楽好きの肉屋》、満面の笑みの《八百屋の売り子》、酒を飲み過ぎたのか少し目がすわっている酒場の浮浪者《ココ》、身なりはボロボロだが堂々とした立ち姿と表情でタバコを吹かすラペ岸の初老の《カップル》…。ドアノーの写真において人々は豊かな表情を見せ、それを見ているこちらも思わず笑みがこぼれそうになる。また彼らの表情や仕草はそれだけで本人やその場についての何らかのストーリーを感じさせ、そこから見る者の想像は膨らむ。《音楽好きの肉屋》がこの表情で聴き入っているのはいったいどんな曲なのか?流しの表情からして曲調はアンニュイな感じだろうか?あるいは肉屋はただ美人の流しに見とれているだけなのか?

ドアノーは撮影した人々の名前と住所を手帳に記録していて、知り合った記念としてプリントした写真を後日自分で彼らの自宅に届けていたという。彼はただ被写体として彼らを撮るだけでなく、そのひとつひとつの出会いを喜びとしていた。「被写体の人間性まで写したような写真」といった表現をすることがあるが、ドアノーの写真には、被写体の人間性だけではなく、ドアノーの人間性も写し出されているように思われる。基本的に写真そのものには写らないが、写真が撮影される現場には当然ながら写真家も同席している。そこで被写体がどのような心理状態となるかは、写真家の振る舞いや存在感、写真家と被写体となる人間の関係によって少なからず左右されるだろう。ドアノーの写真に写る人々の自然体で親しみに満ちた表情や態度は、彼らとドアノーの心の距離の近さがあればこそのものなのだ。ドアノーはカメラを正面から覗いて被写体に向けることを「挑発と同じ」だと言って、撮影の際カメラの上から覗き込むローライフレックスを愛用し、その「礼儀正しさ」と「慎み深さ」を讃えていた。実際撮影者のカメラの覗き込み方の違いが被写体の心理にどの程度影響を与えたかはわからないが、そのような視線のあり方に気をつかい被写体に敬意を払うドアノーの人柄は、人々の感情に影響があったに違いない。

ドアノーが主に好んで撮影したのは庶民や「社会からはみだした」人々だったが、『ヴォーグ』の仕事をしていた時期には、ポージングや表情作りがうまくスタイルもいいモデルを撮った写真もある。しかしこの時期の作品を集めた「『ヴォーグ』の時代」のセクションでも、目を引くのはそれらの写真ではない。プロのモデルの華麗な振る舞いを写したグラビアよりも、社交界のパーティー会場における人々のキマらない表情や仕草をとらえたものの方がずっと魅力的だ。男性とワルツを踊りつつも他の男性に投げキスを送る女性(《ワルツを踊るキス》)。パーティー用のドレスに毛皮のコート、真珠のネックレス、羽飾り付きの帽子と、過剰なまでに豪華に着飾った貴婦人たち(《ギャラリー•シャルパンティエのオープニング》)。彼女らはゴシップ話でもしているのだろうか、語る方も耳を傾ける方も大きく目を見開いている。立派な化粧も手伝ってその顔は迫力十分である。妖怪じみているとまで言ったらさすがに失礼だろうか。「『ヴォーグ』の時代」においてもドアノーのユーモアは健在だが、この時期のベストは《通り過ぎる女性》だろう。ホテルのロビーを画面手前から奥に向かって進んでいく一人の貴婦人、彼女はビロードのマントを羽織っているが、そこにはギラギラと光る素材(金糸?)で孔雀の羽の模様があしらわれている。傍らにはスーツ姿の男が手を後に組んで立っているが、彼は顔こそ貴婦人の方を向いてはいないものの、刮目して視線はそちらにくぎ付けであり、思わず目で追ってしまったというのがありありと伝わってくる。正面から見た彼女があまりに美しかったのか、はたまた先ほどのゴージャスに着飾った貴婦人たちの上を行くほど衝撃的なメイクと衣装なのか。画面では彼女の後ろ姿しか見えないが、見る者はそれを想像せずにはいられない。ここでも秀逸なのは男の表情であり、それが見る者の好奇心と想像力を刺激する。ドアノーは、「私が面白いと思う写真、自分で上手くいったと思う写真は、結論を出さず、物語を最後まで語らず、見る人々が好きなように物語を続けてもらえるように開かれた写真だ」と語る(※1)。これに則ればこの《通り過ぎる女性》は大成功の一枚といえるだろう。しかしながらドアノー自身はやはりヴォーグでの仕事はあまり性に合わなかったようで、2,3年の短期間でその仕事を終えている。彼は環境が整っていて快適なスタジオやホテルよりも、街中の雑然としたふれあいを求めたのだった。

ドアノーにとって写真を撮るというのはどういうことだったのか。それについて彼は次のように語る。「おそらく、瞬間で消え去るイメージを捉えたいという欲望、あるいはもっと単純に、この世界に生きる喜び、またそこで起こる出来事を目撃できる喜びを刻印する方法として、私は写真を撮ってきたように思う」(※2)。ドアノーは「自分は芸術家ではない」と言い続け、写真が分析的に語られすぎることにも反発していたという。本人が言うように、ドアノーが写真を撮った動機には特に難しい理屈があるわけではない。それを評論家が不必要に言葉を連ねて分析しようとするのが彼には煩わしかったのかもしれない。ただ自分が今自分をとりまく人々とともにいられる喜び、過ぎゆく今このときをいとおしく思う気持ち、そしてこの瞬間をとどめたいと思う気持ち、それらの感情からドアノーは写真を撮っていた。ドアノーと言えばパリの写真というイメージだが、彼はパリという場所に特別関心があったというよりも、自分と同じ時、同じ場所で生きる人々がいるがゆえに、その時にそこを撮らずにはいられなかったのだろう。そしてドアノーにとってその気持ちは写真に関する理屈や理論よりもずっと重要だったに違いない。自分とともに生きる人々や今このときへのいとおしさ、ドアノーの写真を観るときには下手に理屈をこねるよりも、それを素直に感じるのが一番なのかもしれない。


※1.展覧会図録、p.183より
※2.「パリ•ドアノー ロベール•ドアノー写真展」図録、p.68より

主要参考文献:展覧会図録、「パリ•ドアノー ロベール•ドアノー写真展」図録(2008, クレヴィス)


text:佐々木玄太郎


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