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作品と非作品《中原浩大 Drawings 1986-2012 コーちゃんは、ゴギガ? レビュー》

2012 年 10 月 30 日 2,414 views No Comment

中原浩大はしばしば「関西ニューウェーブ」や「ネオ•ポップ」の代表的作家として語られる。中原の作品でよく知られるのは、本展の紹介文でも挙げられている、床を覆い尽くす毛糸の編み物《ビリジアンアダプター》や、13万個のレゴブロックを用いて創られた巨大モンスター《無題(レゴ•モンスター)》、アニメのフィギュアを用いた作品《ナディア》等だろう。しかし本展で紹介されるのは、そういった展覧会において発表される作品とは別に、中原が個人的に継続してきた「ドローイング」である。本展は、最初期から新作まで中原による多数の未発表のドローイングを紹介し、20年以上に及ぶ彼のドローイング行為の全貌に迫ろうとするものである。

展示品の中には、後に正式に作品化されたもののイメージプランや習作のようなものもあるが、大半は特にはっきりした目的意識もなく描きたいように描いたその場限りのドローイングである。描くものは手足、カマキリ、ゾウなど具体的なものもあれば、より抽象的な形や模様のようなものもある。中原はドローイング一点を描くのに五分もかけないというように、これといって構想を練るわけでもなく、思うまま即興的に描いているのだろう。画材は水彩紙にクレヨンや鉛筆といった手軽なものがほとんどだ。ものによっては紙の切れ端や包装紙に描かれたものもある。思考を経ずして気の向くままに描かれたドローイングは、時間をかけて構想を練りつつ制作される作品に比べて、より原初的な感覚がそのまま表れたものとして提示される。

これらのドローイングを中原は「“迫害や試練のないままのお絵描き”行為として温存し生き延びている」として、作家としての作品制作とは別の次元に位置づけている。中原にとってドローイングとは、短時間でカタルシスを得るために描くもので、自分のためだけに実効性をもつものなのだ。ようするに、ここで展示されているドローイングは中原の「作家」としての「作品」ではない、と言えるだろう。しかしそこには当然、作家である、作品である、とは何なのかという問いが浮かんでくる。そして、その作品でないものを集めて展覧会で展示するとはどういうことなのだろうか?

本展を観たときはじめに考えたのは、これは本来作品でないものを美術館や展覧会という制度でもって作品化(美術化)しているのかではないか、ということであった。もともと作品でないものを美術作家が描いたものであるからといって美術作品のように扱い、それについて批評するというのは少し違和感があった。しかしこのような考え自体、実は作品と非作品、美術と非美術をはっきりと区別する考え方に基づいたものである。美術館やギャラリーその他の場所において観衆に向けて発表されるものだけが美術作品なのか?あるいはプロの作家が制作するものだけが美術作品たりえるのか?様々な意図のもとに様々な形式で行われる多様な次元の創作活動を、そのような基準で美術作品とそうでないものに区別することにどの程度の意味があるのか?本展が問いかけているのも、この美術制度をめぐる問題なのかもしれない。

中原はおそらくそのような美術制度の区切りに居心地の悪さを感じている。中原が自らの作品について語る際にたびたび言及するのは、その作品と自分との関係、自分の中でのその作品の位置づけである。そこからは展覧会で発表すること(見せること)よりも自らの中での制作の根拠の確かさ(好きなように作ること)に重きを置く姿勢が見て取れる。それは発表することを前提とせずに個人的な活動としてドローイングやツバメの写真(後に「ツバメ」シリーズとして作品化され発表された)が制作されているところにも表れている。そしてそのような姿勢のもとでは、自らが作家であるかどうかや、制作しているものが美術作品であるかどうかということは重要な問題ではなくなっていくだろう。中原はときとしてプロの作家として活動することにおける煩わしさを表明し、96年以後長らく作品発表を控えて美術の表舞台から身を引いていた。これは、展覧会に出品するためにプロの作家として振る舞い、美術の制度に適応することに対する違和感の結果であろう。

そして今、再び表舞台での活動を開始すると同時に、中原はそれらの美術作品やプロの作家という区切りを乗り越えていこうとする指向性を見せているように思われる。先にも触れたように中原は、ドローイングを他者や外部から不可侵の個人的なもので他の作品制作とは別物とする「お絵描きコーちゃん」宣言を行っている。しかしそのようにドローイングの位置づけを断っておきながらも、今回の展覧会ではそれらをあえて一挙に公開(発表)しているのである。それは自己矛盾というよりも、「お絵描きコーちゃん」による個人的なお絵描き行為と、プロの作家である中原浩大の作品制作及び発表の境界の融解としてとらえられるべきだろう。このように考えれば本展は、発表を前提としない状態で個人的に制作されたものを美術館の展覧会で発表することで、プロの作家という身分や作品/非作品といった制度の区切りを曖昧化する試みであるといえる。

「発表を前提とせず自分のために描かれるドローイングこそ、何の意図も束縛もなく、個人の素のままの感性が表出されたものだ。これこそが自由な本当の芸術だ」などと持ち上げる気は毛頭ない。(そのような考え方はアウトサイダー•アートやアール•ブリュットこそが真の芸術だ、という主張とほぼ同質のものだろう。それはそれで偏狭な見方と言わざるをえない。)しかしプロの作家であることや作品を展覧会で発表することが芸術(あるいはより広く創造行為とでも言うべきか?)にとって本質的なことなのかどうかを疑い、美術制度を相対化することの意義は認められるべきだろう。美術館やギャラリーの展覧会におけるプロの作家の作品の発表、という美術の主流として現在受け入れられている形式も、実際には多様なレベルの芸術のあり方の一つに過ぎないのだから。

主要参考文献:展覧会図録、「Artist Interview中原浩大 ちゃんとした美術の使い方」『美術手帖』1996年10月号(美術出版社)、能勢陽子「Artist Interview 中原浩大」『美術手帖』2011年6月号(美術出版社)


text:佐々木玄太郎


『中原浩大 Drawings 1986-2012 コーちゃんは、ゴギガ?』の展覧会情報はコチラ


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