静けさの秘密 《シャルダン展 レビュー》
多くの場合、画家は光線の具合や季節によって変化する対象に感動し、同じモチーフを繰り返し描く。モネの睡蓮、セザンヌのサント・ヴィクトワール山など数えあげたらきりがない。繰り返し同じモチーフを描くこと。そこには自然の移りゆく変化と同時に画家の心境なども織り込まれ、時に見る者に美を感じさせるのである。
そんなあたり前のように思ってきたことが、実はそう単純ではないことに気づかされる展覧会に出会った。今、東京で開かれているフランス18世紀の画家シャルダンの絵画38点で構成された「静寂の巨匠」展だ。
今回の展覧会場にはモチーフも構図も光のあたり具合もまったく同じ絵画が2枚並んでかけられている。《羽根を持つ少女》だ。静物画で名をはせてきたシャルダン38歳の時に描いた人物画の一枚だ。見ている人はどこか「間違い探しのクイズ」に出くわしたような感覚を覚えるほど、一見したところまったく同じ絵だ。
右手にラケット、左手にそのラケットでついて遊ぶための羽根を持ち、かわいらしいドレスに身を包みポーズをとる少女。まず目が行くのは少女の横顏だろう。ぼんやりとした視線、つんとした小さな鼻、薄い紅色のほお。実にういういしい人物画だ。
少女のドレスの腰の部分には、鋏と針刺しが付いた青いリボンがついている。これが何を意味するのかは諸説あるが、薄茶色の何もない壁の前にたたずむ少女の像は、一瞬のうちに通り過ぎてゆくはかない時間のようなものすら感じさせる。
個人蔵となっている1737年に描かれたとされるこの絵のすぐ隣の同じタイトルの少女像。こちらはフィレンツエのウフィツィ美術館所蔵のものだ。比べてみると若干ウフィツィ美術館所蔵の絵は色が薄く顔の表情にも精彩を欠く感じはするが、まったく瓜二つの絵画だ。この2枚の絵がこうして並んで展示されることはこれまでなかったという。図録には次のようなちょっと謎めいたことが書かれている。
「オリジナルの油彩画をもとに同時代の工房作なのか(ただしこの時期のシャルダンの協力者の名前はまったく知られていない)、あるいはインスピレーションがあまり湧かなかったときの画家自身のレプリカなのか。東京の展覧会が解決してくれることだろう。」
実はシャルダンの絵にはこのほかにも同じモチーフを同じ構図で、同じ光のもとで描いたものがいくつかある。工房の弟子が模写したのではなく本人が描いたものだとすればそこにはいったいどのような意味が隠されているのだろか。
シャルダンはもともと静物画家としてスタートした。日常のごく身近な鍋やポットなどの台所用品や肉や魚、果物、それに狩りで仕留められたウサギなどをモチーフにした静物画が多く残されている。描かれているのは、ほとんどがテーブルの一角、そこに置かれた数個の皿やコップ、瓶や食材などに限られているのだ。
こうしたシャルダンの比較的初期の静物画のひとつ《錫引きの銅鍋》。この絵もまったく同じモチーフ、構図のものが2枚ある。今回の展覧会ではルーブル美術館所蔵のものが一枚だけ展示されているが、もう一枚はデトロイト美術館に所蔵されているという。
描かれているのはテーブルの上の銅の鍋と胡椒ひき、それに陶磁器製の片手鍋、卵が3個だけという実にシンプルな絵だ。板に油彩で描いたこの2枚の絵。一見したところまったく違いはわからない。
X線による調査の結果、どうやらシャルダンは大きなサイズの一枚の板を2つに分け、この2枚の絵を描いたらしいということがわかったという。金属製の鍋やコップを題材にした絵はシャルダンには多いが、銅の鍋といい、陶器製の片手鍋といい、その質感が見事にとらえられており、シャルダンの静物画の特徴をよくあらわした一枚と言ってよいだろう。
静物画からスタートしたシャルダンだが40歳近くになるとやがて人物や日常の光景といったいわゆる風俗画も描くようになる。それは一説によれば経済的な理由も大きかったという。当時、風俗画の注文は多く、よく売れる絵をシャルダンは描き始めたのだ。
先ほど紹介した《羽根を持つ少女》のほかに《買い物帰りの女中》や《病後の食事》《デッサンの勉強》など何気ない日常の一場面を描いた作品がほとんどだ。
この時代の多くの画家が演劇的で華やかな光景を描いていたのに対して、シャルダンの風俗画は、動きを極力避け、動作の静止した状態を描いている。そしてこの時代までよく行われたモチーフに寓意を込める、あるいはその絵で何かを物語る、あるいは何かを象徴するといったことも、シャルダンの絵画からは感じられない。静寂の画家といわれる所以かもしれない。
シャルダンのこうした風俗画は当時の貴族などの富裕階級に人気が高かったという。シャルダンの絵をもとにした版画も多くつくられ、よく売れた。中産階級のごく日常の様子を淡々としたタッチで描く手法が、人気を呼んだのだ。
《羽根を持つ少女》に続いて描かれた《食前の祈り》もよく似た2枚があり、今回の展覧会で比較して見ることができる。テーブルにスープの皿を並べる母親とそれを待つ2人の子供。一見なんの変哲もない日常の光景を描いた作品だが、立って配膳をする母親や何かを訴える仕草をする子供など、シャルダンの絵にしては珍しく少々動きのある3人の人物を描いたものだ。そこに描かれているのは裕福で穏やかな家庭の一コマであり見る者を平穏な気持ちにさせてくれる。
今回展示されているのはルーヴル美術館とエルミタージュ美術館に所蔵される2枚の絵だが、よく見ると先ほどの少女像とは違い、この2枚の絵には異なる点が一か所ある。エルミタージュ美術館所蔵のものには手前に卵の入った鍋が描かれているが、ルーヴル所蔵のものにはないのだ。
ルーヴル所蔵が描かれたのは1740年、エルミタージュ所蔵のものが描かれたのは1744年となっていることから、一枚目をかいた後、シャルダンはどこか物足りなさを感じたのか、床に卵の入った鍋を書き加えて2枚目の絵が完成した可能性がある。
いったんは風俗画を描いたシャルダンだが、50歳頃から以前描いていた鍋やコップ、水差しそれに食材などごく日常の身の回りにある品々を再び繰り返し描き始める。中には花瓶に活けられた花の絵や、かごに盛られたいちごの絵など、以前にはなかった色彩豊かな絵も数点ある。しかし基本となるモチーフは、机の上に置かれた鍋やコップなどの台所用品であり、桃やぶどう、パンや野菜などの食材であった。もしシャルダンが絵に描かなければ、誰からも忘れ去られてしまいそうな、本当に日常のごくありふれたものばかりである。
繰り返し描かれたこうした日常の世界。繰り返し同じモチーフを描き続けた背景にはいったい何があったのだろうか。
「シャルダンは新しい主題を考案することに四苦八苦した。彼はいつも新境地を開拓しようとしたが、常に目的を達成したわけではない。時として彼のイマジネーションは枯渇した。シャルダンは意欲を失ったのであろうか」(図録より)
この時代多くの画家が絵の勉強をするためにイタリアなどに足を運んでいたにも関わらず、シャルダンは生涯、生まれ育ったパリを離れなかったという。そして一時期風俗画を描いたものの再び静物画に戻り、モチーフも日常の身の周りの世界から離れることはなかった。シャルダンの絵画からはどこか自制心のようなものすら感じさせる。今回の展覧会の監修を行ったルーヴル美術館名誉館長のピエール・ローザンベール氏は次のように語る。
「シャルダンは大胆にも当時でただ一人物語ることを拒んだ画家である。彼は全ての逸話を、物語を、画趣あるもの、叙述的なものを避けた。当時の現実的な問題を暗示するものは何もないし、道徳、教訓、イデオロギーも何一つない。」(図録より)
絵画はこの時代まで過剰なまでに物に秘められた寓意や、人間の性や金銭への欲望などを表現してきた。もちろん今もあらゆる芸術の根源にはこうした人間の欲望があるといってよいのだが、シャルダンンの絵はそういったものが希薄だ。
そこから醸し出される不思議な静けさ。欲望や騒音に満ちた現代において、シャルダンの醸し出す静寂は貴重な静けさなのだ。
今回の展覧会では見ることができないが、実は晩年、健康上の問題からパステル画へと転向したシャルダンが描いた自画像がある。ルーブル美術館に所蔵されている《日除けをつけた自画像》と《イーゼルの前の自画像》の2枚に描かれた70歳の半ばをこえ、80歳も目前にした画家シャルダンの自らの顔。それはあの静寂に満ちた絵を描いてきた人物とは思えないほど強烈な自我を露わにした男の顔だ。
1775年、76歳の時に描かれた《日除けをつけた自画像》。肌の色つやといい目の鋭さといいい、とても70代半ばとは思えない男の顏だ。そこからは、あの静物画を描いてきたのがこの男なのかと思わず疑ってしまうような、何かを求め続ける強い意志が感じられる。
そして1779年、死の直前に描かれたという《イーゼルの前の自画像》。頭の青いヘッドバンドと手にした赤いクレヨンが印象的だ。こちらを見つめる男の顏はさすがにやせ衰えているが、画家としての鋭いまなざしが見る者をとらえる。
自画像を見ていると、もしかしたらシャルダンは最後まで自らの絵に満足できていなかったのではないかと思えてくる。対象を徹底的に見つめ忠実に描くが、それを超えてさらに何かを表現したい・・・。自画像からはそんな欲望すら感じられるのだ。
平凡でありふれたものを描くことについては「魔術師」とも呼ばれたシャルダンは次のような言葉を残している。
「絵画は絵具ではなく、感情で描くものだ」(図録より)
参考文献:「シャルダン」ガブリエル・ノートン著(西村書店)、展覧会図録ほか
text:小平信行
『シャルダン展 ― 静寂の巨匠』の展覧会情報はコチラ
ページTOPへ戻る▲
コメント投稿欄