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洋画普及への使命感《近代洋画の開拓者 高橋由一展 レビュー》

2012 年 9 月 28 日 3,995 views No Comment

幕末明治を代表する洋画家である高橋由一は、自身が制作するばかりでなく、日本における洋画普及のために様々な事業も行った。油絵を見たこともない人が多く、画材もろくにそろわないような状況の日本において、画塾を開き、展覧会を催し、美術雑誌を刊行し、自ら美術館建設の構想まで行ったというその業績は、まさに近代洋画の開拓者と呼ぶにふさわしい。本展はその高橋由一の全貌を紹介する展覧会である。

「色のない写真よりも鮮やかな油絵、それは写真よりも長持ちする」
これは、由一が洋画を普及する際に主張した、写真に対する油絵の優位性である。一見あまりに単純に思えるこの主張であるが、ここには由一の油絵観がよく表れている。現代の感覚からすれば、二つのメディアの差異を由一が言うようなレベルで比較して優劣を言うことは無意味に感じられる。さらに意地の悪いことを言えば、現代の写真技術の前ではこの主張は全く成り立たなくなってしまう。しかし、この由一の主張の素朴さを現代の視点から批判することに大した意味はない。重要なのは、この主張が切実な意味をもっていたという当時の時代背景を理解することであり、由一が油絵に求めた役割をここから読み取ることである。そこで目を向けるべきなのは、由一が油絵と写真を同じ次元で考えていたことだ。両者はいずれもものの姿を写し取ることができるメディアであり、その「事物の再現」ということこそが、由一が油絵に認めた最大の価値であった。事物の再現という役割に重きを置いていたからこそ、同じ役割を持つ写真と比較し、わざわざこのような主張をする必要があったのである。

絵を描く際に由一がいかに写実性や迫真性にこだわっていたかは、その作品を見ればよくわかる。彼の質感表現へのこだわりは尋常ではない。たとえば本展の目玉である《鮭》の切り身の部分と皮の部分の質感のリアルさを見ても、それは納得できるだろう。ただし《丁髷姿の自画像》のように、由一は細部の描写にこだわるあまり、絵全体のバランスをくずしてしまうこともあったようだ。吉原の売れっ子小稲を描いた《花魁》は、かんざしや衣服の質感表現は見事であるし、顔も陰影を駆使して立体的に描かれており、迫真性は十分である。しかし描かれた小稲本人は気に入らなかったらしく、「私はこんな顔じゃありません」といって泣いて怒ったという。表現のリアルさはともかく、美しい花魁の肖像画としては少々迫力がありすぎたようである。

由一の写実性追求は、その画題選びにも反映されている。由一は静物画を描くときには、身近なものから様々な材質•質感のものを集めて、それを描き分けてみせる。生の豆腐、焼き豆腐、油揚げを並べてその異なる質感をそれぞれ表現してみせた《豆腐》などはその好例といえる。鎧兜や太刀、弓矢などを並べて描いた《甲冑図》も、金属、布、木、漆など、それぞれの材質を描き分けるのが重要なテーマのひとつだろう。洋画を普及しようと奔走していた由一にとって、これらの作品は洋画の表現力の豊かさを人々に見せつける意味もあっただろう。実際、その写実性は当時の日本人にとっては驚愕的ともいうべきものだった。油絵は当時、見世物小屋の見世物にもなっていたが、そこで油絵を目にした客は「画がものを言いそうだ」と口々に驚きの声を発したという。

また、様々なものを写実的に描くという行為の背景には、洋画を学ぶ者としてその表現力を多くのもので試してみたい、という由一自身の探究心もあったのではないだろうか。たとえば《鵜飼》では、夜の闇とかがり火の明かりの明暗の対比や、船同士の遠近感の表現など、いかにも洋画らしい技法が用いられ、一方で描写の面では水面(及びそこに映るかがり火)や煙までも写実的に描き出されている。まるで学んだ技術を全部使ってやろうとでもいうかのように、洋画ならではの描写が随所に見られる。このような作品を描くことで、洋画であればこそ可能な表現を人々に積極的に見せようとすると同時に、由一自身も新しい技術を実践できることを楽しんでいたのかもしれない。

ところで、由一にとって洋画の写実性はなぜそれほど重要だったのだろうか。一つには、由一が「写実に徹すればそのモノのありようをすべてとらえることが可能だ」と考えていたことがある。その理念に則って、彼は懸命に微に入り細にうがって絵画で対象を再現しようとした。また、写実を尊ぶのは一つには彼の生きた時代とも関係があるのかもしれない。いうまでもなく由一の活躍した維新前後は歴史の大きな転換点であり、文明開化とともに多くのものが生まれると同時に多くのものが失われていく時代であった。由一も自分がそのような時代に生きていることに自覚的で、その時代の移り変わりを記録に残すための道具としても洋画を捉えていたのだろう。たとえば《甲冑図》は武士の世の終わりを暗示するとともに、失われていく前時代の品の記録ともなっている。また、本展の最後で紹介されている東北風景画は、三島通庸の押し進めた土木工事の成果を描いたものである。これらは近代化によって生まれた新しい風景を記録したものといえる。

由一の歴史に対する意識は強く、自分の業績も歴史に残るものとして自覚していたようだ。明治26年に弟子たちとともに開いた洋画沿革展覧会では、開催当時までの日本での洋画の沿革を示したが、その内容は洋画の沿革の歩みと由一の歩みが重なるように構成されていた。この展覧会で由一は自らを日本の洋画史上に位置づけようとしたのだろう。また晩年には自らの画業と洋画普及事業の一部始終をまとめて、『高橋由一履歴』を出版して記録を残している。自分が激動の時代に生きていること、そしてその中で自分は歴史的な役割を果たそうとしていること。その自覚があったからこそ、洋画普及を自らの使命として様々な事業に挑んでいくことができたのだろう。本展の作品群と資料を見ると、洋画への思い入れとともに、その強い使命感が伝わってくる。

なお京都国立近代美術館ではこの高橋由一展と同時に、コレクション•ギャラリーにて「京の由一 田村宗立—京都洋画の先覚者」という特集展示を行っている。田村宗立は由一と重なる時代に生き、南画や仏画を学んだ後、写生画に傾倒して洋画を学び、京都洋画の礎を築いた画家である。由一展と比べれば決して大きな展示ではないが、油彩による屏風作品(!)の《越後海岩図屏風》など非常に興味深い作品を目にすることができる。由一展を訪れる際には、こちらにもぜひ足を運んでみてほしい。

参考文献:展覧会図録


text:佐々木玄太郎


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