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八雲たつ 《大出雲展 レビュー》

2012 年 8 月 28 日 2,486 views No Comment

日本最古の歴史書である「古事記」は、古代の神話や伝説、歌謡といった要素を取り入れながら天地開闢から推古天皇に至るまでの記事を収めた、日本文化の起源を考える上で欠かすことのできない書物である。上・中・下の全3巻からなる古事記の中で、主に神話について記載されている上巻は別名「神代巻」と呼ばれているが、そこで語られている神話のおよそ3分の1は出雲の土地と深い関わりを持っている。そういった神話の中に登場する出雲の記述に加え、出雲大社をはじめとする古くから出雲の地に所縁のある多くの寺社の存在は、今なお人々に「出雲=神々の国」というイメージを抱かせる要因となっている。

今年、2012年は古事記編纂1300年の節目に当たり、また来年の5月には現在修復事業が進められている出雲大社において、60年ぶりに御祭神を仮殿から本殿に遷座する「大遷宮」が行われる。(平成の大遷宮)これらを記念し、現在京都国立博物館で開催されている《大出雲展》では、出雲の古社・古寺に伝わる宝物類や遺跡の発掘調査によって出土した品々が一堂に展示され、古代から中世にかけて出雲の地で育まれた文化や信仰のかたちを見ることができる。


古事記はその原本が既に失われており、現存するものはすべて後世の写本である。それら写本の序文には古事記の成立事情が記されており、それによって今から1300年前にあたる奈良時代の和銅5年(712年)に官人であった太安万侶の手によって古事記が完成し、元明天皇に献上されたことなどが明らかになっている。古事記の写本は約40本確認されているが、その中でも今回出品されている国宝《古事記 上巻》は南北朝時代の応安4年(1371年)に作られた、現存する写本としては最古のものであり、原本について調べる上でも重要視されている。愛知県の真福寺で書写・校訂が行われたため「真福寺本」と呼ばれている。古事記をはじめ、奈良時代初頭に行われ始めた歴史書の作成には、天皇による王権強化の意図があった。歴史の始まりには古代社会における多様な信仰や伝承を含んだ神話が取り入れられ、王権に神聖さが加えられた。


京都国立博物館と島根県立古代出雲歴史博物館が共同で企画している今回の展覧会には大和政権以降、しだいに日本の中心となっていく近畿地方と、神話の中で重要な位置を占める出雲との文化的な繋がりを感じさせる作品が多く出品されている。その1つが全国的にも類例の少ない鹿形埴輪である。島根県平所遺跡から出土した重要文化財《埴輪 鹿》では、角を持った雄の鹿が首をひねって後方を見る「見返りの鹿」が表現されている。胴から足にかけての欠損がひどく全体像は把握しにくいものの、埴輪とは思えないほど鹿の形を忠実に再現した美しい造形が見られる。国内にある様々な埴輪の中でも最も写実的な作例の一つとされ、出雲を代表する埴輪として知られている。これに類する作品として、奈良県四条遺跡から出土した《埴輪 鹿》が挙げられる。平所遺跡のものと同じ「見返りの鹿」だが、やや小型で角もなく、そのために雌の鹿と考えられる。耳や口、尾の部分が推定復元されており、当初の状態に近い形で展示されている。写実性に関しては平所遺跡のものと比べてやや劣るが、数少ない鹿形埴輪の中でも「見返りの鹿」の埴輪は出雲と奈良でしか確認されておらず、これら2つの地域の関係性を考える上で興味深い。


平成の大遷宮に向けて現在修復中の出雲大社本殿は、江戸時代中期の延享元年(1744年)に建てられたもので、その高さはおよそ24メートルである。神社としては十分破格な大きさであるが、伝承によるとかつての出雲大社本殿はさらに壮大な規模を誇っていたと言われており、大和朝廷時代に当たる「上古」の時期には約96メートル、平安時代を中心にした「中古」の時期には約48メートルの高さであったと伝えられている。しかし高さが100メートル近い木造建築は、現代の建築技術を持ってしても実現不可能と言われており、それがかつて実際に存在していたとは考えづらい。そのため山頂に本殿を建て、山の高さを含めて計測したのではないかという意見なども出されている。

その一方で、「中古」の時期に建てられていたとされる高さ約48メートルの本殿に関しては、いくつかの参考となる記述が残されている。平安時代の中期頃に貴族子弟が使用した教科書「口遊(くちずさみ)」には、当時の大建造物のおぼえ歌として「大屋を誦して謂う。雲太、和二、京三」という1節が記載されている。これによると最も大きいとされる「雲太」は出雲大社を指し、次いで大和にある東大寺大仏殿(和二)、京都の平安神宮(京三)といったの順に並んでいる。東大寺大仏殿は平安時代末の源平争乱の中で焼失したが、創建時の高さが約45メートルであったと伝えられており、これらのことから当時高さ約48メートルの本殿が存在したという伝承には一定の現実味があるように思われる。会場中程にはその本殿を文献の内容に沿って10分の1のスケールで再現した《古代出雲大社復元模型》が展示されている。推定復元模型とはいえ、高さが4.8メートルもあるので会場内で見るとなかなかのインパクトである。本殿が9本の高い柱で支えられ、そこから地面まで長い階段が延々と続くという独特な構造を1つの建築物としてみると、絵やイラストなどで見るのとはずいぶん違った印象を受ける。

復元模型のすぐ側には2000年に出雲大社の境内から出土し、大きな話題を呼んだ重要文化財《宇豆柱》が展示されている。この《宇豆柱》では3本の杉の大材がまとめられて1本の巨大な柱となっており、発見当初は古代の柱の一部ではないかという声も上がったが、その後の調査によって平安時代よりも更に時代を降った、鎌倉時代の本殿の一部であるとする見方が強くなった。《宇豆柱》に見られる3本の材を束ねる柱の構造は、古代出雲大社本殿の平面図とされる《金輪御造営差図》に見られる柱の表現に一致する。《金輪御造営差図》の存在は江戸時代中期の国学者である本居宣長が、自らの随筆《玉勝間》にその写しを掲載したことで世間一般に知られるようになった。しかし宣長自身、《金輪御造営差図》の内容に疑問を持つと述べているように、この図は長い間その信憑性が疑われ続けてきた。《宇豆柱》の発見によって同図の評価は完全にひっくり返ったと言えるだろう。また今年に入って初めて《金輪御造営差図》の実物が公開された。今回の展覧会にも出品されているので、従来出回っていた写しと見比べてみると、実物にのみ記述のある箇所が数点確認できる。今後これらの調査によって、古代出雲大社の真相にまた一歩近づく発見がなされるかもしれない。

参考文献:展覧会図録
   

text:上田祥悟

『古事記1300年・出雲大社大遷宮 特別展覧会「大出雲展」』の展覧会情報はコチラ


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