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歴史弱者の反撃?《今和次郎 採集講義─考現学の今 レビュー》

2012 年 5 月 29 日 3,151 views No Comment

図書館の本棚にぎっしりと詰め込まれた書籍を前にして、呆然と立ちすくむことが時たまある。お目当ての資料がどこにも見当たらないのだ。一時期ワイマール共和国時代のドイツについて調べものをしていたことがある。政治史だろうが思想史だろうが、この手の問題について書かれた文献は山のようにあるから、大抵の疑問は簡単に解決する。資料の多さがかえって妨げになるくらいだ。けれども「当時の家屋の間取り」だとか「パン一切れの値段」といった身近な疑問になればなるほど、どの本を手に取ればいいのか分からなくなってしまうのだ。そういう時、歴史は本流から外れたものたちの記録を容赦なく切り捨てていくものだということに気づかされる。

今和次郎が「考現学」を始めたきっかけも、恐らく似たようなところにあったのだろう。
「坪内先生や島村先生たちの舞台計画を手伝わされていたし……脚本のト書きに出てくる小道具には考古学の書に出てこないものがある」と彼はその動機について語っている。「現在でも50年、100年後のために(記録を)残しておけば助かる。目の前にいる人々の生活や風俗の記録を克明にやってみよう、と始めた」(図録p.42)
こうして彼は極めて日常的な身の回りの出来事を丹念に記録していくことになるのである。

今が提唱する考現学の実践は極めて単純なものだ。例えば『東京銀座街風俗記録』に収められた「図18 靴の<1>」という資料を見てみよう。この図から推察される今の観察方法は恐らく次のようなものである。銀座の通りを行きかう人々を20分ほど観察し(資料によると総計113人)彼らが履いている靴の色と種類をおおざっぱに分類していく。簡単なスケッチが添えられた図表には「赤靴と黒靴との割合・赤55% 黒45%」という記述がある。恐らく観察に費やした時間を含めたとしても、完成までに一時間もかかってはいないだろう。

こんな資料がいったい何の役に立つのか(そもそも統計的に意味があるのか)は全く分からない。けれどもそうした疑問などおかまいないしに、今とその仲間はこうした資料をいくつも作り上げていく。「洋服の破れ箇所」「茶碗のワレ方」「丸ビルモダンガール散歩コース」「おしめの紋模様」などなど。ペン画による簡素な図表のものがほとんどで、大抵は彩色や推敲の類のことはなされていない。言い方は悪いが小学生の自由研究のような、どこか暇を持て余したアマチュア的な趣すらある。

ところが面白いことに、今のこうした試みは同時代の人々に大いにウケたのだ。1927年に新宿の紀伊国屋書店で開かれた「しらべもの[考現学]展覧会」は大盛況を博したのである。当時の会場内の写真はその盛況ぶりを雄弁に物語っている。写真から見るに展示スペースはそれほど大きくない。今日の紀伊国屋書店でも時たま開かれる小規模の展示とほとんど変わらないだろう。しかし壁には調査結果が一面に貼り付けられ、それをほとんど覆い隠すかのようにして人だかりができている。日常の当たり前の光景がこうして記録されるやいなや、それは途端に好奇の的となったのである。

多分この盛況ぶりの理由は、今たちの調査結果の新奇さによるものではないように思う。それは当時の人々にとっては、予想の範疇を超えることのない当たり前のものであることがほとんどだったはずだ。それよりもむしろ、観察結果の内容以上に、そうしたものが突如として表舞台に現れたことが新鮮にうつったのだろう。どのような人々の前にも平等に映し出される時代の姿というものは、逆説的に表舞台からは退けられ、かえって見え辛くなってしまうものだ。実際に今和次郎と吉田健吉が中心になって行った東京銀座風俗記録によると、当為メディアで注目されつつあった洋装の女性は、銀座でさえ1%を占めるに過ぎないことが分かったという。時代や歴史というものは、その社会の実際の有り様とはまた違ったところで作られていくことの実例なのかもしれない。

こうした文献やメディアの上では容易に浮かび上がっては来ない生活の実態への眼差しは、彼の生涯を支える通奏低音のようなものだったと言っていいだろう。例えば農村の民家調査を元にした今の著書『日本の民家』の記述は、単なる民家の記録に留まるものではない。
「この家には、冬四ヶ月の間壁の半分までを雪に埋めてくらす人たちが住っているのだ……」と彼は津軽の民家について記述するのだが、それに続いて、そこで暮らす人びとの心情への配慮がなされる。「でも、寒いのと暗いのと、焚火の煙とで、眼を悪くし、またひとりでに不活発になりなまけるようになる。男たちは酒でも飲まなければすごせない心になる」(図録p.77)
彼にとっては資料や統計によって一般化や抽象化のできない、そこで生きている人々の生活の実態こそが「現在」を形づくっている重要な契機なのである。

そして彼の考現学は単なる「現在」という地点だけではなく、それに繋がる未来を見据えている。例えば彼が尽力した農村生活の改善運動などに、そのことは顕著に現れているだろう。こうした試みの前には、単なる資料からは見えづらい農村の生活の実態を把握しておくことはほとんど必須の要件のはずだ。そしてそうした生活の実態を見知り記録してきたからこそ、彼は提言することができるのである。「概していえば、在来の日本人は風流生活に傾きすぎた。……いいかえると、生活というものを投げやりに始末しすぎていた。……住生活という概念は、それは住居建築およびその施設と、それに並べて、住居事務の運営のあり方とを含めて考えなければ至当ではない」(図録p.248)。要するに、「現在」を認識することなしに「未来」を思い描くことはできないのである。

歴史を記録するという行為は、常に何らかの取捨選択の作業である。そこでは大抵の場合、一貫性と連続性とが最優先され、その網から零れ落ちたものたちは沈黙を余儀なくされる。
歴史という法廷の場で発言を許されるのは、大量の資料に裏打ちされた時代の記念碑だけなのだ。そしてそれはある意味で当然のことである。数十年というスパンが僅か数十ページに圧縮されてしまうこともある歴史の中で、誰が市井の人々や農村でくらす一人の百姓の声に耳を傾けるだろう? 結局のところ、歴史と過去との関係は、決して重なり合うことのない影絵と実像のようなものなのだ。

恐らく今和次郎の活動は、そうした歴史形成のあり方に対する一種の反撃行為なのだと思う。とりわけ東京大震災による荒廃した都市を新たに再建しようとするにあたって、実際の人間の生活から乖離した過去の記録が役に立ってはくれないことを彼は痛感したに違いない。彼は当時を振り返ってこう述べている。「しかし私たちはそのときの東京の土の上にじっと立ってみた。そしてそこにみつめねばならない事がらの多いのを感じた。……そこで人びとの行動、あらゆる行動を分析的にみること、そしてそれの記録のしかたについてくふうすること、そんなことが、あの何もない荒地の上の私を促したのである」。p.168

最後に彼の調査記録のひとつである「東京場末女人の結髪(1926)」を見てみよう。そこに描かれているのは、ほとんど説明の不要なほど単純なものだ。「東京・淀橋大通ニテ採集」と右すみに記され、そして画面には28種類の結髪のペン画がおさめられている。恐らくこうした記録は歴史記述からは省かれるだろうし、実際今日の我々が当時の結髪について調べようとすれば想像以上に苦労するだろう。こうした記録を歴史という枠組みの中に、ある種の論理的一貫性をもって組み入れることは確かに難しい。しかし彼が残したスケッチはあたかも、「偉人たちや歴史上の事件と同様に、我々も『現在』という時代をつくりあげてきた一員であるのだ」と同等の権利をもって声高に主張しているようにうつるのである。

参考文献:展覧会図録



text:浅井佑太


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