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芸術は世界を変えることができるか?《村山知義の宇宙 レビュー》

2012 年 4 月 27 日 4,075 views No Comment

20世紀前半に活躍した日本人画家の作品を見たとき、どう反応してよいか分からないことがしばしばある。ひとつひとつの作品から受ける印象は悪くない。どれも力作であることは疑いようはないし、色使いや構成の巧みさからも、作家の技量の高さを窺い知ることができる。しかしどうにも釈然としないのは、彼らの作品にはどこか既視感がつきまとっていることだ。そしてそうした既視感の正体は大抵の場合、彼らが時代に先駆けて吸収してきた西欧の前衛芸術に由来することが多い。確かに彼らの作品が日本の前衛芸術運動の中で果たしてきた役割は、動かしがたいものなのだろう。しかしそうした痕跡を作品の中に目にするたびに、彼らの作品を手放しで賞賛していいものなのだろうかと、心の奥底でふっと疑念が浮かび上がるのである。

正直に告白すれば、村山知義の作品をいくつか見て最初に感じたのは、まさにその既視感だった。1922年の一年間をベルリンで過ごし、その翌年から本格的にキャリアを開始した彼の作品には、疑いようもなく当時のドイツ国内での前衛芸術の雰囲気が反映されている。例えば図録でも指摘されているように、彼の舞踏によるパフォーマンス作品は明らかに、村山が留学中に敬愛したというニッディ・インペコーフェンのものを下敷きにしたものだろうし、他の作品にしても構成主義やシュルレアリスムといった、当時の前衛でお決まりの用語で説明したくなりそうなものが多い。さらに言えば、彼は特定のスタイルを模索し続けることよりも、劇作家から絵本画家に至るまで幅広いジャンルで創作活動を行うことを選んだため、余計に作品の独自色が見えづらくなってしまっている。

もちろん今日と違って、海外が遥かに遠い場所であり、まだ西洋の前衛のかすかな面影がようやく地平に現れようかという時代にあって、村山の作品が強力なインパクトを持っていたことは想像に難くない。帰国してすぐに彼が開いた展覧会を回想して語った住谷磐根の「気が変になりそうであった」という言葉は、彼の作品が当時、どれほど抜きん出て異質なものであったのかを如実に物語っているだろう(図録 p.10.)。帰国後も日々大量の海外の文献に目を通すことを常としていた村山は、疑いようもなく時代の最先端を見知る数少ない日本人のひとりであったはずだ。

試しに1925年の作品である《コンストルクチオン》を見てみよう。ドイツ語で「構成」という意味のタイトルを持つこの作品は、廃材や毛髪、あるいは雑誌の切り抜きといった雑多な素材を寄せ集めることによって作られている。平面的な要素の放逐や、無関係な物体を切り貼りすることでひとつの構成物を創造するといった手法は、恐らく彼が西欧の前衛から学んだ所産によるものなのだろう。西洋の前衛との直接のつながりをもたない日本においては、この作品の出現はほとんど彗星のごとき唐突なものだったに違いない。岸田劉生の有名な麗子立像が1923年の作品であることを考えれば、村山の作品が当時いかに破格なものであったのかが自ずと理解されるだろう。

もっともこうした作品が我々に対して与えるインパクトは、今日ではかなり色あせてしまったものであることもまたひとつの事実である。そしてそれは、単に時代的な隔たりによるのではない。20世紀初頭の西欧の前衛運動を容易に俯瞰できてしまう我々には、村山が何を下敷きにしてこれらの作品を創造したのかがなんとなく推察できてしまうのである。そうして、国内にいち早く海外の前衛芸術を取り入れた先駆的な作品――こうした枠組み、要するに彼の作品を芸術史上のひとつのドキュメントとして見るという視点が、いつのまにか前景へとたち現れてくるのである。

しかし村山は決して、海外の前衛を国内に「紹介」するために創作行為に打ち込んでいたわけではないはずだ。かといって芸術家として成功を収めるためには海外の前衛の技法を取り入れるのが都合がよかったのだ、というような皮相な見方もどこか的を外しているように思える。少なくとも結果だけ見れば、村山の生涯は順風満帆のものだったとは言いがたい。幾度となく弾圧や拘留を経験した彼の人生は、どちらかといえばむしろ日陰者のそれである。彼自身の言葉を引き合いに出すならば、「私が自分をはかる価値批判のものさしとあなた方が私をはかるものさしとは多くの場合全く裏表」だったである(図録 p.249.)。

それでは幾多ものジャンルにおよぶ彼の創作活動は、いったい何を目的としたものだったのだろうか。そのことを考える上で、彼が本質的には活動の人であったという、美術館での展示からは読み取りにくい事実に目を向ける必要があるように思う。プロレタリアの運動家としても活動し、演劇へと活躍の場を移していった村山の生涯は、社会から身を置き、創作行為の中に閉じこもっていくような芸術家像とは対極の位置にあったはずだ。戦略的にメディアを利用し、さながらセールスマンのように自身を売り込んでいく彼の手法は、芸術家というよりも活動家のそれである。

恐らく彼がベルリン留学中に惹かれたのは、作品の単なる見かけ上の斬新さではなく、むしろ芸術に社会を変える力があるという熱い気運の方だったのではなかろうか。ワイマール共和国が息吹を上げたあの時代、多くの芸術家たちはこの新たな国家を創出する力が自分たちにはあるのだと(今日の感覚からすれば)ナイーブなまでに信じていたのである。しばしば20世紀初頭の前衛運動は反ロマン派という言葉で総括されるが、芸術が世界に及ぼす力に対する信頼という一点にのみ関して言えば、彼らはロマン派以上にロマン派的な芸術家であったのではなかろうか。

そういった視点を持ち出すならば、彼のトレードマークであった長髪のおかっぱヘアや、特異なファッションスタイルは、単なる自己演出以上の重要な意味を持っていたことに気づかされる。こうしたスタイルが当時の人々にとって、どのように受け止められていたのかを1925年に発行された『萬朝報』は端的に示している。村山が妻とともに写された写真には次のような見出しが付けられている。「この御夫婦 孰れが夫? 孰れが妻? 男が延ばし女は斬る 近代流行の一驚異」。要するに自らジェンダー的に曖昧なイメージを纏い、それを広くメディア上に敷衍させることで、村山は新たな時代の文化を創出することを試みているのである。ジェニファー・ワイゼンフェルドの言葉を借りるならば、「芸術の範囲を制限することを嫌い、芸術の日常生活のあいだの境界を打ち破ろう」としたのである(図録 p.246.)。

恐らくこうした日常と彼の芸術の交差を実感できない我々にとっては、彼の前衛性の本質はつかみづらく、どこか折衷的で気の抜けたものに映ってしまいがちなのではないかと思う。多分こうした見方は決して不当なものではないだろう。今日の時代へと直接的に侵入してくる力を失ってしまった以上、極端に言えば、展示物としての彼の作品は抜け殻のように見えたとしても不思議なことではない。

彼が最も力を入れていたはずの演劇上での創作が、もはや美術館という枠組みの中ではその有り様を極僅かにしか示すことができないという事実は、そのことを象徴しているように映る。例えば彼が舞台装置と衣装を担当した「朝から夜中まで」の舞台写真や装置の模型を見てみよう。バウハウス風の幾何学的な舞台、あるいは登場人物の写真が示す表現主義的で非日常的な衣装からは、この演劇がどのような趣向のものであったのかを類推することはできる。しかし実際にどのように役柄が演じられたのかだとか、その場に居合わせた観客の反応といった、身体芸術である演劇には不可欠な要素が、ここでは欠落しているのである。さらに言えば(少なくとも展示会場の中では)この演劇の筋すらも我々には知ることができないのだ。結局のところ、ここで展示されているのは、作品ではなくそのレシピに過ぎないのである。

彼の作品をどれほど展示という形で見たところで、村山が時代に与えたインパクトや影響力を理解することができないということを一旦我々は認めなければならないように思う。そして逆に言えばそれは、我々の生きている時代の一端が彼によってつくられたのだということの証左でもあるのである。長門佐季は村山やマヴォ周辺の作品について、次のように述べている。「現在の作品の『非在』こそが、彼らの活動とその意味についてもっとも明解に私たちに問いかけている」(図録 p.11.)。村山の活動や作品が、どの程度今日という時代を創出する上で意義のあるものであったのかを明確に知ることは残念ながら難しい。皮肉なことに、もしかするとそれを計るものさしは、今日の我々が展示という形で彼の作品を見たときに感じてしまう幾分冷めた態度なのかもしれない。

参考文献:展覧会図録



text:浅井佑太


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