光琳にまねぶ 《酒井抱一と江戸琳派の全貌 レビュー》
伝統的な大和絵の流れを汲みつつ、雅で装飾性豊かな「琳派」の表現は安土・桃山時代の末に活躍した俵屋宗達、本阿弥光悦らによって生み出された。その様式は後に登場した尾形光琳、尾形乾山らによって大成され、絵画を中心として書や工芸の分野にも大きな影響を与えた。江戸時代の後期に活躍した酒井抱一は京都を中心に発展していた琳派の様式に強く憧れ、その様式を学んでいく過程で江戸に特有な粋で洒落た美意識や叙情性を取り入れて「江戸琳派」と呼ばれる新様式を確立させた。
細見美術館で開催中の《酒井抱一と江戸琳派の全貌》では酒井抱一とその後継者たちの作品が前期・中期・後期に分かれて展示され、江戸琳派の起こりと活動の軌跡を見ることができる。その一方で、出品作品の中には抱一が手掛けた浮世絵や仏画など、琳派の枠には収まりきらないものもあり、通常の琳派に関する展覧会とは一味違った、抱一の多岐にわたる制作活動の実態を知ることができる展示内容となっている。
酒井抱一は1761年(宝暦11年)に姫路藩主酒井雅楽頭家(うたのかみけ)の次男として生まれた。江戸幕府の治世に一族から大老や老中を多く輩出していた酒井家は、大老四家の1つに数えられる名門であったが、中でも酒井雅楽頭家には代々風雅の理解者が多く、文芸に重きを置く家風で知られていた。そういった環境のもとで育てられた抱一は、若い頃から書画や俳諧に親しみ、やがて狂歌や浮世絵などの市井の文化にも深い関心を払うようになった。この頃の抱一は同じ大名家の子息であった悪友たちと遊郭に足繁く通う奔放な生活を送っていたと言われている。前期展示作品《遊女と禿》は抱一が27歳の時の作品で、浮世絵師歌川豊春の艶やかな美人描写を模している。歌川豊春は江戸時代後期に浮世絵の分野で一大勢力を築いた歌川派の祖として知られているが、抱一との師弟関係については不明瞭な点が多い。《遊女と禿》に見られる遊女の手の仕草などは手慣れた筆致で描かれており、抱一がこの作品と同じ時期に多くの美人図を描いていたことが想像できる。
名家の御曹司でありながら破天荒な日々を送っていた抱一だが、37歳の時に突如出家し、酒井家を離れることになった。20代の頃に盛んに描いていた豊春様式の美人図も、これ以降はほとんど描かれなくなる。出家の動機についての詳細は不明だが、抱一の良き理解者で姫路藩主であった兄・酒井忠以の死後に家中での居場所が狭くなったことが理由の1つと考えられている。結果的に武家の身分から脱することになった抱一は、隠者として市中に暮らしつつ様々な芸術や文芸に触れる中で、独自の画風を模索していった。
そんな抱一に多大な影響を与えたのが尾形光琳の作風であった。もともと酒井家には光琳が江戸に滞在した際に制作した作品が残されており、抱一が光琳に傾倒していくきっかけになったとも言われている。また当時の知識人の間において光琳は専門的な職業画家とは違い自由な意思で絵を描く文人画家という評価をされており、それを受けて抱一が光琳に自身と重なる部分を見出していたとも考えられる。
抱一による《八橋図屏風》(出光美術館蔵)は光琳の《八橋図屏風》(メトロポリタン美術館蔵)を模した作品である。「伊勢物語」に登場する八橋を題材にした光琳の作品としては国宝の《八橋蒔絵螺鈿硯箱》なども有名だが、いずれの作品においても具象的に描かれた燕子花の群生と意匠化された直線的な橋との対比が目を引く。光琳と抱一の《八橋図屏風》を見比べてみると、前者よりも後者の方が全体的に明るく、マットな印象を受ける。その理由として、光琳が紙本に描いたのに対して抱一は絹本に描いている点や燕子花の葉に元の絵より明るめの色を使っている点、燕子花の株の数や間隔を調整することで背景の金地を広く見せている点などが挙げられる。下地の選択から細部の描写に至るまで、光琳の作品をそのまま写すのではなく自分なりの工夫を加えようとする抱一の姿勢が感じられる。
抱一は光琳の百回忌にあたる1815年(文化12年)に《光琳百図》を刊行した。これは当時抱一が知り得ていた光琳の作品の中から約百点を選抜し、編集した作品集であった。抱一による光琳研究の成果といえるこの《光琳百図》は、現在でも琳派を研究する上での基本資料とされているが、初の個人画集として出版されたことに対する美術史上の意義も大きい。展覧会期間中では、中期と後期に展示される予定である。
光琳の百回忌に際して抱一は自宅で法要を執り行っている。市井の画家であり、また僧でもあることを抱一が強く意識していたことは、自ら画僧と名乗っていたことにも現れている。そんな抱一の元には仏画制作の依頼も寄せられた。前期に展示されている《灑水観音像》をはじめ、特別注文であった仏画の多くには高価な絵の具が贅沢に使用されており、現在に至るまで鮮やかな色彩を保ち続けている。
《白蓮図》では琳派らしい画面構成の中に、今にも散ってしまいそうな蓮の花弁と、その下で入れ替わるように頭を出している蓮の蕾が対照的に描かれている。蓮の花は俵屋宗達の《蓮池水禽図》に見られるように、早くから琳派の画家達に好まれていた画題であったが、仏画を多く手掛けた抱一にとってはより仏教的な意味合いの強いモチーフだったと考えられる。古来より仏教の世界では、泥の中から花を咲かせる蓮をこの世の煩悩に染まらずに咲く悟りの花と捉えてきた。抱一は散る間際の蓮の花と若い蕾をひどく対照的に描くことで、輪廻や再生といった意味も付け加えようとしたのかもしれない。また《白蓮図》が描かれている絹地には年月の経過を思わせる退色が見られるが、白蓮に使われている顔料は前述の仏画同様に高価な物であったらしく、今でも色がよく残っている。
最後に展覧会の後期に展示される予定の作品の中から《夏秋草図屏風》を取り上げたい。四季の草花や鳥を詩情豊かに描く抱一のイメージを体現したかのようなこの屏風絵は、重要文化財にも指定されている抱一の代表作であり、かつては尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に表装されていたことでも知られている。作品保護の観点から現在は別々に表装されているので解説を読まないと気付かないが、抱一は表面にある光琳の《風神雷神図屏風》と自身の作品が呼応するように制作を行っている。具体的には光琳が風神雷神図を金地に描いているのに対して、抱一は夏秋草図を銀地に描いている。また風神図の裏面には風に吹かれる秋草を描き、雷神図の裏には雨に打たれて垂れる夏草を描くなど、光琳の絵を強く意識した構成であることが分かる。抱一が自らの絵を通して光琳の美意識に答えているかのような《夏秋草図屏風》をぜひともこの目で確かめてみたいと思う。
余談だが、生涯を通じて光琳を敬愛し続けた抱一は光琳の風神雷神図も2曲1双の金地屏風に写している。そのモデルとなった光琳の風神雷神図も実は俵屋宗達の作品を模したものであることはよく知られている。同じような主題や図案が時代や地域を超えて断続的に受け継がれることは琳派の一つの特質であるが、その中でも《風神雷神図屏風》を手掛けることは最大のステータスシンボルであったのかもしれない。
参考文献:展覧会図録
text:上田祥悟
『琳派展ⅩⅣ 生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌』の展覧会情報はコチラ
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