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所有すること・されること《感じる服 考える服:東京ファッションの現在形 レビュー》

2012 年 3 月 29 日 2,732 views No Comment

美術館に行くと、ふとそこに展示されている作品を持って帰りたくなるときがある。そういうのは大抵の場合、会場の中心にあるような大作ではなく、どちらかというと目立たない小品の方だ。たった一枚飾ってあるだけでも、部屋を満たす空気は見違えるように素晴らしいものになるだろう。もっともそんな願いが叶うはずもなく、ポストカードや図録で我慢することを強いられることになる。そもそも美術館に行けば、誰もが作品を鑑賞する機会があるということは、その作品が誰か一人だけのものではないということの裏返しに他ならないのである。

もしかすると、この「所有する」という感覚は、今日の美術の世界ではかなり縁遠いものになってしまったのかもしれない。それは芸術家の側にとっても恐らく変わらない。基本的に彼らは「誰かに所有される」ことを前提として作品を作らない。少なくとも宮廷画家のように、作品を所望する特定の依頼主からの注文を受け、彼の求める絵画を制作するといったスタイルを取る芸術家は現代ではほとんどいないだろう。制作の動機は種々あれど、彼らは普通「特定の誰か」ではなく、自身の理解者が現れることを期待しつつ、一種の匿名の空間に向かって作品を放つのである。

そのように考えてみれば、ファッションという芸術のあり方は、今日では他に類を見ないほど「所有する」ことと直接的に結びついたものかもしれない。それは単に実用品であるに留まらず、身に纏うことによって初めて意味を持つ。もちろんパリ・コレクションに見られるように、明らかに「日常で誰かが着る」ことを意図しない展示用のファッションもあるわけだから、話はそう単純ではないのだろう。しかし面白いことに、本展に参加している若い世代のデザイナーたちはみな、美術館という場所の中でさえ、最終的には誰かに所有されることを意識しているように見える。

それを端的に示しているのは、ショップ空間として制作されたスペースに並べられた森永邦彦の衣服だろう。全ての衣服には、実際のショップでそうであるように値札がつけられている。作品の展示ということだけを考えれば、本来値札をつける必要など全くないだろう。これはここにある衣服が、誰のものにでもなりうることの意思表明に他ならない。美術館にある絵画や彫刻が、「誰のものでもない」という意味でみんなのものであるのだとすれば、ここに展示されている衣服は、「誰のものでもありえる」という意味でみんなのものなのである。

「僕は服を売って食べていく職業なので、どうインパクトや新たな驚きをつくるのかということと、最終的にはそれを日常に着地させる、ということを忘れないようにやっています」 (※1)

所有され使われるものであるからこそ、それは最終的には日常に帰ってくる必要がある。森永の製作する衣服は、立方体や縦に引き伸ばされたマネキンに着せられており、一見歪なものに見えるが、どれも普通の人間が着ることのできるように綿密に計算されているという。彼にとって、衣服の原型を疑うというコンセプトは、実際に人が日常で身に纏うことで初めて成立するものなのである。

展覧会という一種の匿名の虚空ではなく、衣服を着る特定の個人に向けて制作を行うのであれば、必然的にその取り組み方は変わってくることになるだろう。その意味では、神田恵介と写真家の浅田政志とのコラボレーションがひときわ目を惹きつける。彼らのプロジェクトは言葉にしてしまうと単純なものである。募集に応じた高校生たちのもとに二人が出向き、「その日だけの制服をその子たちのためにつくって、記念写真を撮る」(※2) 。もっとも彼らにとって重要なのは、出来上がった衣服や写真の方ではなく、それを作るに至るまでの過程の方なのだろう。実際に神田は衣服を作るに際して、単に高校生のプロポーションや顔立ちといった外面的な要素にとどまらず、喋り方だとか、何を考えているのか、とかいったものにまで立ち入っている。最終的な写真には現れなくとも、そこに至るまでには途方もない時間がかけられているのである。常に相手の顔が見える位置から衣服をつくる彼の姿勢は、「誰かのものになる」その瞬間にまさに照準を合わせている。それゆえ神田は手縫いという、手近で微修正がきく方法をとっているのだろう。

「服の根幹から手で縫い上げるっていうのは、ともすれば、わかりづらいし地味だけれども、だからこそ、ジワジワ伝わっていくかもしれない」 (※3)

だから彼がつくる衣服はどこか野暮ったいけれど、洗練された製品にありがちなよそよそしさがない。それはショーウィンドウのマネキンや、プロポーションの整ったモデルのためのものではなく、「彼の知っている誰か」が着るためのものなのである。

ところで、「所有する」という感覚から衣服について述べてきたが、逆に衣服に「所有される」という感覚についても語ることができるかもしれない。衣服を身にまとうということは、衣服を自分の一部にすると同時に、自分を衣服の一部にすることでもあるからだ。例えばあからさまなブランド品を身につけた人は、知らぬうちにそのブランドの広告塔となっているだろう。あるいは衣服は記号としての役割を果たし、それを着る人が所属している集団や極端な場合は思想までも表すことすらある。そうした場合、良し悪しは別にして、「衣服を着ている」というよりも、「衣服に着られている」と言ったほうが適切に思えてくる。けれどそれは場合によっては、束縛ではなく、むしろ心地よい自分の居場所を与えてくれるものでもあるのだろう。

そうした意味では、「着飾るためでなく演じるための服」というコンセプトを打ち出す廣岡 直人は、身体が衣装の一部となることを肯定的に捉えているように思える。ゴスロリパンクというスタイルを生みだし、コスプレやアニメといったサブカルの文化に合わせてブランドを展開していく彼の衣装は、まさに種々のコードを組み合わせることで成り立っている。展示会場では30体のマネキンがチェーンで吊り下げられ、壁面には額縁に入れられたコレクションの写真が敷き詰められる。集められた衣装が作り出す雰囲気という点では、彼の展示は全体の中でも際立っている。あるものはビジュアル系、ゴス、あるいはそれらの融合と言ったように、どれもが何らかのコードによって連関しているからだ。

確かに日常性という感覚は希薄だが、これらの衣装は単なる展示用というわけではなく、それを着る顧客が実際に存在している。もっとも神田がある特定の個人に対して衣服を製作しているのに対し、廣岡は何らかの特定の集団に対して衣服をしつらえているように見える。彼の衣装を実際に着る人のことを想像してみるといい。明らかにその衣装は、その人が帰属している文化や集団を声高に主張することになるだろう。彼のファンが多数存在しているということは、そうした記号を自身の身体にまとわせることがファッションの重要な契機であることを物語っているように思える。ここでは衣服に「所有される」という感覚は、ある種の快感なのである。

考えてみれば今日にいたるまで、美術館という制度は、芸術の領域から「手元にある」という感覚を隅へと追いやってきたように思える。小説ならば一冊の本として本棚に置くことができるだろうし、音楽にしても楽譜やCDといった媒体はある程度その感覚を満たしてくれるだろう。それに対し、美術館という制度は、まさにわれわれの日常と芸術作品を隔離することで成り立つものである。そのような視点からすれば、ファッションとは「所有する」という感覚がまだ密接に結びついている最後の領域なのかもしれない。しかも実際に身体にまとうものであるがゆえに、衣服に自分が所有されるという、全く逆ベクトルの感覚についてすら語ることができる。「所有する」ことと「所有される」ことは、ここではメビウスの輪のように、どこかで繋がっていて、絶えず入れ替わるものなのである。衣服は身体の延長線上に捉えられるものなのか、あるいは身体をすっぽりと覆い隠す記号なのか。所有するという感覚と、所有されるという感覚のせめぎ合いの中にこそ、ファッションの魅力はあるのかもしれない。

※1 展覧会図録 p.40.  ※2 ibid., p.76. ※3 ibid., p.72.


text:浅井佑太


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