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薄気味の悪い展覧会《解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァー レビュー》

2012 年 2 月 28 日 3,431 views 2 Comments

確かに魅力的な展覧会だ。切れば血が吹き出そうな、異様な凝縮力に満ちた作品に出会う機会はそう多くはない。しかし会場を後にしてしばらくすると、どこか気味が悪い気分になってくる。そしてその感情はますます膨れ上がり、会場での興奮をかき消すほどにまでになる。その理由はうまく言葉にすることはできない。けれどどうやら、作品そのものに対して嫌悪感を抱いているというわけではないらしい。どちらかと言えば、アール・ブリュットの支持者たちの言葉に乗せられるかのように、彼らの作品にこそ芸術家たちが失ってしまった「本物の芸術」があるのではないかと少しでも考え始めている自分に対して薄気味の悪さを感じるのである。

「アール・ブリュット」、あるいは「アウトサイダー・アート」という言葉は、近年ではもはやほとんど説明が不要なほど、人口に膾炙している美術用語なのかもしれない(両者の細かい違いにはここでは深く立ち入らない)。個人的な感覚では、ヘンリー・ダーガーのドキュメンタリー映画が公開されて以降、こういった特異な芸術家のあり方が頻繁にメディア上でも取り上げられるようになってきたように思う。つまり一般的な芸術家たちとは違い、美術界での成功を求めず、「芸術的教養に毒されていない人々が制作した作品」(※1)の作り手のことである。そして彼らの支持者に言わせれば、こういった作品こそが嘘のないホンモノの芸術なのである。

だから今回の「解剖と変容」展でスポットライトの当てられた二人の作家も、少なくとも、美術学校に通いコンクールに出展するといった、普通の意味での芸術家としてのキャリアを持ち合わせてはいない。図録の記述を信用するなら、ルボシュ・プルニーは統合失調症による自らの精神状態と折り合いをつけるための自己探求として制作を始め、アンナ・ゼマーンコヴァーは子供の成長とそれに伴う母親としての自我の喪失を埋めるために創作へと向かったのだ。どちらも元々は美術界での成功を夢見ていたわけではない。

それゆえ両者の作品は、作家の個人的な体験や生い立ちと深く結びついている。幼少のころから死んだ動物を解剖することに夢中になっていたというプルニーは、新聞雑誌や解剖図集の切り抜きを寄せ集め、それをコラージュ的に重ね合わせ、異質な解剖図を画面に作り上げる。ゼマーンコヴァーはかつて子供たちの部屋や衣服を装飾するために用いていた技法を使い、ビーズや鎖編みでできた装飾的な画面を作り出す。どちらの作家の作品も、ある種の同語反復的な執拗さを感じさせると同時に、変化の乏しさは否めない。もっとも彼らの作品には、アール・ブリュットの支持者たちが「生(brut)の芸術だ」と賞賛するだけの異様な迫力に満ちていることは認めなければならないだろうが。

しかし結局のところ、こうした「アール・ブリュット」における根本的な原動力とは本当のところ一体なんなのだろうか? 「美術界の外で行われる表現活動に光を当て、それを美術界に取り入れる」という一見寛容で(そして同時に傲慢な)イデオロギーがそこではしばしば繰り返されてきたように思うが、それは単なる体のいい隠れ蓑にしかぼくには思えない。この運動の根底にあるのは実のところ、狂人崇拝の一種か、あるいはもっと皮肉な言い方をすれば見世物小屋の精神に他ならないのではないか。アール・ブリュットのコレクターたちを見てみるといい。彼らの多くは結局のところ、作品の制作者が何らかの精神的な疾患を抱えているとか、過去に犯罪を犯したことがあるという理由で、その奇怪な作品に価値を見出しているのである。

例えばアール・ブリュット・コレクション館長のミシェル・テヴォーはこう語る。
「アール・ブリュットだけでなく芸術一般において、錯乱にも似た狂気、狂った仮説の投影、現実との断絶は、精神の優れた機能で人間の才能だということ。芸術に期待すべきは異常な何かだ...狂気がなければ、それは芸術ではない」(※2)
実のところ、彼らはただ自身の求める天才像に、狂人の姿を重ね合わせているに過ぎない。突拍子のない言動と奇行、異常な立ち振る舞い、誇大妄想――なるほど確かに、こうしたステレオタイプな天才像を容易に彼らは満たしてくれるだろう。それに何のことはない。そもそもこの運動の創始者の理念からして、「創造力豊かな“狂人”や門外漢にインスピレーションを求め」(※3)るものだったのである。美術外の表現に承認を与えるという「寛容な」イデオロギーは、実はそれをオブラートに包むための後付けのものに過ぎない(考えてみれば、黙々とひとり制作に取り込む市井の人にスポットライトが当てられたことなど、今までにどれほどあっただろうか?)。

僅かではあるが本展でも取り上げられている、ズデニェク・コシェックにも視線を移してみよう。彼は統合失調症のために、自分が世界のあらゆる事象を決定づけており、天候や自然現象を操作できると信じきっている。彼は自然現象を操るためにノートや地図の上に、複雑な記号や文字を書き連ねていく。言葉は悪いが、仮にこんな人物が身の回りにいたとすれば、それは単なる物笑いの種にしかならないだろう(もしくは治療の必要な病人だ)。しかしひとたび、彼が天候を操るために書いた紙切れが芸術作品として展示されるやいなや、それは真剣な議論の対象となり、「生の芸術」として絶賛されるという奇妙なカラクリ(恐らくは金銭的な取引の対象にまで持ち上げられるのだろう)。そしてそうしたロジックが何処か本当らしく思わされてくるところに、「アール・ブリュット」という装置の薄気味悪さの正体はあるように思う。

結局のところ、こうした傾向の背後にあるものは、技術的なものの圧倒的な軽視と過剰な天才崇拝なのではないだろうか。つまり技術的に優れた作品が、アカデミックだとか没個性的だとかという理由で退けられ、反対に稚拙なものであっても個性的だとか新鮮だといって持ち上げられる。なぜなら芸術家は職人であってはならず、天才は他人と全く異なっている必要があるのだから。そして芸術作品の良し悪しは「感性」という、分かったような分からないような、不確かな概念に回収されてしまう。20世紀初頭辺りから、美術史の動向を俯瞰してみればそのことがよく分かる。そこでは子供の描いた乱雑な絵が画家たちの模範となり、果ては馬鹿げたことにチンパンジーの描いた絵が高値で取引される。そして1960年代に流行するLSDの服用によるサイケデリックアート。恐らくアール・ブリュットもこれらの路線に連なるものなのだろう。そしてこうした過程の中では、それまで人間が培ってきた技術的なものは、何か呪いの源であるかのように避けられていくのである。

「芸術」の元々の意味が「技術」であるといった歴史的な議論を展開するつもりはない。しかしダ・ヴィンチやミケランジェロといった過去の芸術家が同時代の人々に賞賛されてきた最大の理由は、何よりもまず彼らの圧倒的な技術力であったことを思い起こすべきだ。「才能」や「天才」といった言葉は、本来そういった「技術」に対して向けられたものなのである。ところがいつしかこの言葉は独り歩きして、独特な感性だとか、何か異常なものを指し示すようになってしまったように思う。そして不幸なことに、職人的な技巧は、どれほど卓越したものであっても、この言葉にはもはや相応しくないものなのである。

アール・ブリュットの作家たちの作品の面白さを否定するつもりは全くない。少なくとも彼らはただ、誰のためでもなく、自らのために創作活動をしているに過ぎない。しかしその受容が、どこか病的なものであることもまた否定し難いものだろう。そして恐ろしいことに、その病的な異常さこそが、アール・ブリュットの支持者たちを突き動かす根源なのである。どこか異常で狂気めいたものが真に優れた作品なのだという考えは捨てるべきだと思う。少なくとも、止むに止まれぬ表現衝動の結果としてそこに異常なものが表出することと、初めからそれを狙うのとは区別しなければなるまい。端的に言って後者はエセである。果たしてミシェル・テヴォーの言うように、「芸術に期待すべきは異常な何か」であって、「狂気がなければ、それは芸術ではない」のだろうか? ぼくは決してそうは思わない。なぜなら、今の時代でも、芸術と人間とのもう少し幸福な関係は、どこかに存在しているようにぼくには思えるからである。

※1.展覧会図録p.164  ※2. ibid. p.8  ※3.ibid. p.76


text:浅井佑太


『解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠』の展覧会情報はコチラ


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2 Comments »

  • birochana said:

    ツイッターから辿り着きました。
    ただのド素人ですが、あの展覧会を「狂人礼賛」とは受け取れませんでした。
    普遍的な何かへの問いかけと、表現の驚きを与えてくれる事が
    芸術の意義や喜びだと、私は思っていますが、あの映画(団体)の主題は
    まさにそうであると解釈しました。

  • 55museum (author) said:

    >> birochana 様

    コメントありがとうございます。
    人それぞれ様々な感想がありますよね!
    birochana 様の感想読んで、改めて考え直してみたり…
    そういう考える機会を持てるのが芸術に触れる醍醐味かな、と思ったりもします。

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