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大器晩成 《ホノルル美術館所蔵 北斎展 レビュー》

2012 年 2 月 28 日 3,517 views No Comment

2010年は浮世絵師葛飾北斎の生誕250周年記念の年であった。北斎の誕生日にあたる同年10月31日には、検索エンジンの大手であるGoogleのトップページのロゴが、北斎の代表作《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》をアレンジしたデザインとなっていて印象的であった。

19世紀の後半にヨーロッパで始まるジャポニズム運動の発端になったのが、フランスの版画家が目にした《北斎漫画》であったという話はよく知られている。その《北斎漫画》の作者であり、当時の西洋美術に大きな影響を与えた日本美術の代表格である北斎に対する関心は、国内外を問わず今なお高い。1998年にアメリカの「Life」誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」では、北斎が日本人として唯一人選出されているほどである。また日本に先駆けて浮世絵の蒐集・研究が行われていた欧米諸国には、幕末から明治時代にかけて海を渡った良質の浮世絵が数多く点在している。

京都文化博物館で現在開催中の『北斎展』では、アジア美術のコレクションで知られるアメリカのホノルル美術館から、これまで館外に出されることのなかった北斎の浮世絵作品170点が、彼の生誕250周年を祝して里帰りしている。今回の展覧会では開催期間中に展示作品の総入れ替えが行われるため、このレビューでは前期展に出品されていた作品を主に取り上げたい。


平安時代の仏教的な厭世観を起源とする「憂き世(つらい世の中)・浮世(はかない世の中)」の思想は、江戸時代になると現世を肯定的に捉え、浮かれ楽しく暮らそうという享楽的世間観へと変化した。「浮世」は現代的、当世風、好色といった意味を表すようになり、浮世絵、浮世笠、浮世茶屋など、他の語の頭に付いて使われた。中でも浮世絵は当世の流行ものを描いた風俗画のことを指し、その題材は演劇・文学・ファッション・事件・諸国の名所など実に多彩である。

浮世絵には木版による「浮世絵版画」と絵画と同様に作者直筆の「肉筆浮世絵」がある。後者は主に富裕層からの需要に応じて制作される一点物で、その希少性ゆえに重視されている。一方、庶民の手に広く行き渡った浮世絵版画は、様々な情報を伝えて流行を作り出すメディアとしての役割を持ち、大衆文化の発展に大きく貢献した。ただ、大量に摺る必要のあった浮世絵版画に使用された紙や顔料は、必ずしも質が良いとは限らない。特に色などは劣化しやすいため、浮世絵の展覧会では作品保護の観点から極力照明が落とされている。

そういった配慮が感じられる会場内を進んで行き、まず最初に展示されているのが《富士見西行図》である。各地を遊行していた西行法師が、その道中に背後にそびえる巨大な富士山に驚き、見上げている様子を描いている。北斎が浮世絵師としてデビューして間もない頃の作品で、当時は「春朗」の名で役者絵の名門勝川春章に弟子入りしていた。ここで扱っている「富士見西行」の画題は古くから親しまれてきたもので、絵の中の西行に見られる荷物の持ち方、笠のかぶり方は「西行掛・西行背負(じょい)」、「西行被(かづき)」という言葉にもなった。旅人としての西行の姿に当時の人々は強い憧れを抱いていたのかもしれない。《富士見西行図》は後に西行と同じように全国各地を旅し、代表作《冨嶽三十六景》を手掛けることになる北斎の源点を思わせる作品だろう。

春朗期の別の作品に《新板浮絵 樊噲鴻門之会ノ図》がある。中国史における楚漢戦争の端緒となった名場面「鴻門の会」を描いたもので、こちらも馴染みのある題材である。ここでは漢の高祖劉邦の臣下である樊噲(はんかい)が宴席での主君の危機を知り、門番の兵士を盾で突き飛ばして乱入する様子が描かれている。興味深いのは中国風の建物を西洋の透視画法を用いて精密に描写している点で、表現に強い遠近感を感じることができる。このような浮世絵は近景が浮き出たように見えることから「浮絵」と呼ばれ、その起源は西洋画法の影響を受けた中国版画の流入にあるとされている。

これら2作品をはじめとして、北斎の初期の作品には古くからある画題を浮世絵版画という枠の中で忠実に描こうとする姿勢が感じられる。同時に北斎は役者絵に重きを置く勝川派に属しながら、子供絵、浮絵技法による名所絵、玩具絵、宗教画、相撲絵、絵暦など、様々なジャンルの絵に挑戦している。このことが後に森羅万象を描くとまで言われた北斎の、多彩な表現力に繋がっていったと言える。

若い頃から制作への意欲が旺盛であった北斎だが、34歳を過ぎた頃に勝川派から破門される。その原因としては、師である春章の在世中に他派の画風を学んだことや、兄弟子との不和が挙げられている。思わず納得してしまう破門理由だが、北斎はこれを契機に花鳥画や漢画などにも目を向け、更に幅広い分野の作品を制作し、世に出し始めた。その多種多様ぶりの一端は後年に出版された《北斎漫画》にも見ることができる。

《北斎漫画》は当初、北斎の弟子たちのための絵手本として摺られた一冊本であったが、好評につき十五編まで出版され、職人たちの図案手引集としても広く使われた。《北斎漫画》という名は、たいした理由も無く漫ろに描いた絵という意味で付けられた。そのような名前の由来とは裏腹に、本の中には人物、風俗、道具類、動植物、建築物、風景、歴史、妖怪などの精密なスケッチが4000点近く収められており、まるで百科全書を思わせる。注意して見ると、《北斎漫画》の中で様々な仕事をしている人々の様子を描いたものなどは、似たような姿の人物を会場内にある実際の浮世絵作品の中に見つけることができて興味深い。


春朗の時代の《富士見西行図》から45年後に、北斎は《冨嶽三十六景》の制作に取りかかった。「赤富士」こと《凱風快晴》や「The Great Wave」こと《神奈川沖浪裏》など、世界的にみても特に知名度の高い作品を含む《冨嶽三十六景》のシリーズは、出版された当初から評判が高く、北斎の浮世絵師としての地位を不動のものにした。当時、北斎が富士山にまつわる連作を発表した背景には、江戸時代の後期に流行した物見遊山と信仰を兼ねた神社仏閣詣や各所巡りが関係している。江戸で北斎の作品の出版を請け負っていた版元の永寿堂は、多くの人が盛んに自らの信奉する山まで遠出し、登拝するのに目を付け、北斎に様々な富士図を描くように勧めた。その狙いは的中し、霊山でもある富士山を諸方から眺め見た北斎の斬新な浮世絵は、爆発的な人気を博すこととなった。その結果、《冨嶽三十六景》は最初に予定していた36図(表富士)に10図(裏富士)を追加出版した46図の揃物となっている。

《冨嶽三十六景》を概観してみると、どの図からも「ベロ藍」と呼ばれる鮮やかな紺青色が際立って見えてくる。ベロ藍はドイツのベルリンで開発された、現在のプルシアンブルーにあたる色である。かつて北斎は版元から渡されたベロ藍を見て《冨嶽三十六景》を制作する意欲を高めたとも言われており、その魅力的な色合いはすぐに浮世絵における流行色となった。《冨嶽三十六景 甲州石班澤》などのいくつかの出品作品では、全体の景色がベロ藍による濃淡のみで描かれているのに気付く。これは以前のレビューでも少し触れた「藍摺絵」と呼ばれるもので、ベロ藍が需要の増加にともなって大量に輸入された結果誕生した、独特の浮世絵表現である。


ところで《北斎漫画》や《冨嶽三十六景》では当初の出版計画と実際の出版物との間にかなりの差が生じている。その理由として、浮世絵版画の出版には浮世絵師の意志以外にも版元の意向が大きく関わっていたことが挙げられる。出版物は人々に売れることが大前提であり、そのために版元は人々の興味を引くような企画を練り、浮世絵師に提案していた。版元と絵師の関係は今日の出版社と人気漫画家の関係に似ているかもしれない。売れる、売れないに関わらずひたすら作品を描き続けられる画家と違い、絵師はより職業的に絵を描き、売上状況よって常に左右されていた。《北斎漫画》や《冨嶽三十六景》では人気があったために追加出版するケースがみられたが、評判が悪ければ北斎のような有名絵師であっても制作を中止せざるを得なかった。

《百人一首うはかゑとき(乳母か繪説)》は大判の浮世絵版画としては北斎が最後に手掛けた揃物である。このシリーズは、鎌倉時代に成立して江戸時代には庶民の一般教養になるまで普及した「小倉百人一首」の歌意を、乳母が子供に易しく教えるように、浮世絵で解説するという主旨のもと企画された。当然100図の出版が予定され、北斎も意欲に燃えていたが、27図目で突然中断することとなった。その理由の1つには北斎の版元であった永寿堂が没落したことが言われている。しかし最大の原因は、北斎が歌の内容に沿わない独自の解釈で絵を描き、さらに難解なものにしてしまったことにあるようだ。「あしひきの 山鳥の尾乃 したりをの なか/\しよを ひとりかもねん」(山鳥の長く垂れ下がった尾のように長い秋の夜を、ひとり寂しく過ごすのか)を扱った《百人一首うはかゑとき 柿の本人麿》では、画面の奥のあばらやの中に外を眺めて夜を過ごす人物が確認できるものの、近景には川で漁をする人々と長く棚引く焚火の煙が描かれている。解説によると北斎は足を引きずるように網を引く漁師の姿から「あしひきの」を連想させ、空へのびる煙を山鳥の尾羽のように表現したと考えられるそうである。この一首を見るだけでも、子供が易しく学べるという意図からはかけ離れていることが分かる。時間に余裕があれば、これら一首一首と本気で向き合って謎解きしてみるのも面白いかもしれない。


北斎は高齢になってから大成したと言われるように、代表作とされている作品の多くは50歳以降に制作されている。先に挙げた《北斎漫画》の初編は54歳頃、《冨嶽三十六景》にいたっては72歳頃に手掛けている。北斎が75歳の時に出版した《富嶽百景》の中では、今までの人生を振り返り、70歳までに描いた自分の絵にはろくな物がないとした上で、110歳まで生きて絵を描き続ければどんな物でも生きたように描けるようになると語っている。1849年に90歳でこの世を去った北斎は、生涯を通じて3万点を超える作品を残した。19歳の頃に絵師としてデビューしたことを踏まえて単純計算すると、毎年420以上の作品を描き続けていたことになる。このことは北斎が死の直前まで独自の画境を追い求めて研鑽を積んでいたことの偉大な証と言える。

参考文献:展覧会図録


text:上田祥悟

『ホノルル美術館所蔵 北斎展 -葛飾北斎生誕250周年記念-』の展覧会情報はコチラ


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