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果たして現代の「九相図」か?《松井冬子展  レビュー》

2012 年 2 月 28 日 6,363 views No Comment

「九相図」という絵がある。人間が死んで腐敗し骨へと変ずるさまを九つの段階に描いたものだ。日本にはこの「九相図」なるものが鎌倉時代以降多数描かれている。人間の体が死後どのように変容していくのかという様相を描いた絵。そこにはいったいどのような意味が込められているのだろうか。一説によれば、出家した僧侶が肉体への執着を絶つため、死をイメージすることがねらいで描かれたものだという。人間の死をリアルに、しかもおぞましく描き出すことが目的なのである。

私たちは日常生活の中で様々な死を体験するが、現代社会においてその様相を目撃することはまずない。死んだ人間はきれいに化粧を施され花に包まれて火葬にされる。私たちが目にするのは粉々になった骨であり、そこには肉体の片鱗すらもない。現代社会においては意識的に死の実態を避けて通っている。

死んで腐乱し、野犬や鳥に肉体をついばまれる様子を事細かに観察し描写することは並大抵の精神力では不可能のように思える。「九相図」には生きるということの現実からなんとしても逃れなければならないという強烈な思いが込められているというのだ。

今、横浜美術館で最近注目集める日本画家の松井冬子の個展が開かれている。今回の展覧会の特徴は100点以上の近作を年代ごとではなく9つのテーマにわけて展覧するという方法がとられていることだ。「受動と自殺」「幽霊」「ナルシシズム」などのテーマの一つが「九相図」である。

2004年の大作「浄相の持続」から始まり頭部と上半身の背骨が横たわる「四肢の統一」までの6枚の絵は、人間が死んで最後は骨になるという様相を描いており、それはまさに現代の「九相図」だというのだ。

「九相図」シリーズの最初の一作「浄相の持続」。腹が裂け、内臓をさらけ出し、横たわる若い女が無数の花に囲まれるという衝撃的な構図だ。描かれているモチーフ一つ一つは実に写実的であり、これまで日本で描かれた「九相図」のどこかおぞましい陰鬱な雰囲気とは違って、どこか美しささえ感じさせる。花に囲まれた横たわる女性。その顔の表情は死者のものとはどこか違い挑発的でさえある。腹が裂け、内臓が飛び出すというある種空想の中の光景ではあるが、不思議なことに絵からはどこか清らかな雰囲気さえ漂ってくるのだ。

そして「九相図」に加わったのが昨年描かれた「転換をつなぎあわせる」と「四肢の統一」の2枚だ。この2作は8年前の「浄相の持続」と比較するとその印象は微妙に異なる。全体に柔らかみが増しているのだ。「転換を繋ぎ合わせる」の横たわる人骨といい、そこに絡みつく蛇といい、どこか悪夢のようなシーンではあるが、「浄相の持続」よりさらに清らかさが増している。

この進化の背景には明らかに日本画の技術の向上が見て取れる。日本画ならではの絹本着色という極めて手のかかる手法に磨きがかかり、柔らかなタッチがより強調されているのだ。

仏教絵画である「九相図」のねらい、すなわち「出家者が肉体に対する執着心を断ち切るためにその不浄の様子を脳内に思い浮かべる不浄観という観想修行に用いられる絵画」(展覧会図録「松井冬子の「九相図」連作」山本聡美より)が、松井の「九相図」の連作にあてはまるかどうかは大きな疑問だ。

また、今回の展覧会では「腑分」というテーマが設けられている。かつて医学者は人体を解剖し、それを記録に残すために絵を描いた。それが「腑分け図」だ。客観的な目で眺める必要があったからその描き方は写実的であり、江戸時代の「腑分け図」はある意味科学的な観察記録でもあった。

「腑分」というテーマでくくられる松井の作品は「完全な幸福をもたらす普遍的な万能薬」から始まり「一輪の花」までの11枚。長い髪をたらした女性が口から内臓を垂らしながら歩く姿を描いた絵や、頭の一部が割れ、血管や脳の内部を描いた絵など様々な情景が描かれているが、これらの作品も前述したいわゆる解剖図に相当するところの「腑分け図」とは大いにイメージが異なる。そこに描かれたものは確かにどこか遠くを眺めるような悟りきった女性の表情と不気味な臓器ではあるが、それらは対象を凝視し写実的な手法で描くことで美的な対象物として消化されているようにさえ思えるのだ。

生きとし生けるものを待ち構えるのは死であり、そのことから目をそらすわけにはいかない。生きるということは皮膚の一枚下に内臓を抱え込み、血液が流れ、食べたものを消化し排泄するという現実だ。

「人間は生きているもので、開いたらそこには内蔵があるものなのだから、それは現実であり事実であって臓物を描くことは真実をみつめることと同義だ」(図録より)と松井は語り、一本一本の髪の毛、肌の質感、臓器の感触までもが見る者に伝わるように時間をかけて細密に描ききる。そのために実際に動物を解剖し、その内臓をつぶさに観察する。腹を切り、取り出した内臓を凝視し、手にとってその感触を確かめる。こうした徹底した観察を通して松井はそこに美しさを発見する。この独特の美的な感覚をもとに、松井は日本画という旧来からある表現手段を使って自らの思いを一枚の絵として表現しているのだ。

多くの人が感じる美の一つに「花鳥風月」がある。花や鳥、山や風景を見て人は美しいという感動を残したいがために人は絵を描く。それと同じように松井は生き物の内臓にも美を見出しその感動を絵筆に託して絵を描く。

「美意識の価値観は人によって異なり「美しい」ものの性質はその対象が持つ特性にあるのではなく自我の活動の中にある。わたくしの美は著しく主観に左右され・・・しばしばおぞましいとされるものにこそ、そっとするような美を見出している。」(図録より)

松井の世界観を具現化しているのは冷徹なまでのリアリズム絵画の手法だ。対象を徹底的に眺め一枚の絵に仕立てあげていく松井の絵にさらに強烈なインパクトを与えているのが、写実絵画を超えた情念の世界である。現実に存在する光景を写真のように描く写実絵画とは異なり、絵の全体構成は極めて強い個人的なメッセージに満ち溢れている。

このことをよく物語るのが今回の展覧会の「部位」と名づけられたコーナーに並べられた本画を描くために描かれたいわゆる「下図」と呼ばれるデッサンあるいは習作だ。骨格標本や人物モデル、臓器を描いたもので、一枚一枚は実にリアルに描かれている。こうして描かれた素材を組み合わせて本画ができていくわけだが、そのプロセスに女性として生きる松井の独自の世界観が大きく作用する。

例えば「ややかるい圧痕は交錯して網状に走る」という作品がある。老木のもと髪を振り乱した女性、手や口からは内臓とおぼしきものを吐き出しあるいは振りかざしながら歩いている。3年前に描かれた大作だが、今回はそのための鉛筆によるデッサンが7枚出品されている。一つ一つのデッサンはモデルや人骨の標本を描いた実にリアルで写実的なものだが、それらが組み合わされ本画になったとたん、そこには松井のオリジナルな世界観が現出する。

これは写実という手法で描かれたパーツをある種壮大な虚構の世界へと組み上げていく想像力のパワーといっても良いかもしれない。

描かれているものは内臓や骨などであり、それらは普段私たちの眼の前から遠ざけられているものだが、それらを徹底した写実で描き、それらを松井の独自の世界観で組み合わせて絵は出来上がっていく。不思議なことに描かれた絵はグロテスクだとか悪趣味だとかいう指摘とは程遠い世界なのだ。

なぜなのかと見る人は問い続け、言葉によって多くの評論が書かれている。松井自身が語る言葉や絵につけられたタイトルもまた見る者に多くの謎をつきつける。さらに今回の展覧会では松井の絵を9つのテーマに分けて見せている。

しかし絵はこうした言葉の世界をはるかに超えた何かをもって見る者に語りかけてくる。私たちはこの言葉による評価付けをいったん取り払って絵を見たほうがよさそうだ。「九相図」や「腑分」としてくくられたとたん絵の持つ真のメッセージはかき消されてしまうように思えてならないからだ。

参考文献:展覧会図録


text:小平信行


『松井冬子展 -世界中の子と友達になれる-』の展覧会情報はコチラ


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