人生の芸術化・芸術家のパロディ化?《草間彌生 永遠の永遠の永遠 レビュー》
いつから芸術作品の中に、作家の個人的な苦悩や心情が投影されるようになったのだろうか。そして鑑賞者は作品に芸術家の実人生を重ね合わせるという奇妙な構図。少なくとも、それは極めて近代的な現象であることは間違いない。恐らく絵画の領域でそれが一般化し始めるのは、せいぜいゴッホの辺りからだろう。例えばコローの作品を見る際に彼の面影をちらつかせる必要などほとんどないが、ゴッホの場合、彼の狂気じみた生涯を抜きにして作品を語ることなどありえないことだろう。彼は何を描かせても、自画像になってしまう画家であった。そして面白いことにゴッホ以降の多くの画家は、作品に実人生が投影されることを見越して、人生を「演じ」始める。典型的なのはサルバドール・ダリだろう。彼が遺した逸話や奇行の数々は、作品の受容の際にも決定的な影響力を持っているし、彼自身それを意識していなかったとはとても思えない。彼はいわば、人生そのものを作品化しようとしたのである。それならば奇怪なファッションに身をつつみ、自身の幻覚体験を臆面もなく曝け出す草間彌生は、まさにそのような系譜の最先端に位置しているのだろうか?
細かいモチーフで隙間なく満たされた画面、原色で水玉模様の描かれたオブジェ、それから真赤な髪とけばけばしい衣装に身を包んだ芸術家の姿――、おそらく普通の人が草間彌生について思い浮かべるのはこんなところだろう。作品を思い起こそうとするとき、そこに芸術家本人の姿が避けがたく現れるのは、草間彌生の重要な特徴のひとつである。それに実際に美術館に行ってみれば分かることだが、彼女の作品はそれ単体で見るときと、「草間彌生展」のように無数の作品が鑑賞者を取り囲む舞台では全く異なって見える。美術館の入り口の前にはすでに水玉模様のオブジェが置かれているし、会場の壁面も原色で統一され、来場者は美術館というよりもむしろ、「草間彌生」というクジラの腹の中に飲み込まれてしまったような感覚になる。おまけに作品のコンセプトはある意味画一的なまでに統一されているから、どれをとっても遠目から見ただけで草間彌生の作品であることが判然としている。
例えば《愛はとこしえ》と題された一連のシリーズは、それぞれの作品の差異を見分けることが困難なほど一貫した特徴でつらぬかれている。大きな白い画面に黒いマーカーで一気に埋め尽くされた作品群。細かい線と微生物のような気味の悪いモチーフ、あるいは単純化された人の横顔――、画面は黒の単色であふれるようにいっぱいで、ぎりぎりまで近づいてようやく描かれているのが何であるのかが分かるといった具合である。もっとも、もはやこの作品の前では、モチーフや構成から、何かを解釈しようというような試みは意味を成さないように思える。あるのはただ漠然と広がる「草間彌生的な世界」としか表現できない何らかのものしかない。それは花びらの一枚一枚を分解してばらしてみたところで、その花の不思議に迫ることができないのと似ている。
あるいは《チューリップに愛をこめて、永遠に祈る》と題されたオブジェでもそのことは変わらない。展示室内の白い壁面には赤い大玉の水玉模様が配置され、そこには同じ色と模様のほとんど悪趣味にも近い三体の大きなチューリップの活けられた鉢のオブジェ。曲線的でありながら大雑把な造形感覚は、他の多くの彼女の作品にも共通するイメージだろう。しかし一体鑑賞者はこの作品を前にして、何を考えるというのだろうか。ここでも他の場合と同様に、そこに現れるのは「草間彌生」という人物の漠然としたイメージだけで、作品の強烈なインパクトの前ではタイトルにつけられた「愛」とか「祈り」といったモチーフを思い起こすことすら難しい。あらゆる作品が最終的には「草間彌生」という芸術家本人のイメージに回収されてしまうところに、良くも悪くも彼女の作品の特徴があるのだろう(そして間違いなく、それこそが彼女のとった戦略なのだろうが)。
ところでよく知られていることだが、彼女の創作の動機とインスピレーションは、基本的に幼少時に患った統合失調症による幻覚が元になっている。図録の記述を引用するなら「日々襲い掛かる幻覚に飲み込まれそうになる。いつしか恐怖から逃れるために、そのイメージを紙に描きとめるようになったという。その行為が彼女を心の闇の奥底に陥ることから救った」(1) のだそうだ。個人的な苦悩の解放が芸術へ昇華するという、極めてありがちで辟易させられるようなエピソードのようにも思えるが、この場合、草間彌生の作品に投影される作者の存在とは一体なんなのだろうか。ゴッホの場合と同様に、作家の病んだ精神と芸術上でのその戦いの記録なのだろうか? けれども幸いなことに、少なくとも彼女の作品からは、前時代的でうんざりするような「死への憧憬」といったモチーフや「病んでいる私」を見せ付けられるようなことはない。オブジェ作品に端的に示されているように彼女の作品は基本的にネアカだし、ほとんどの作品は「真剣さ」よりもあえて「キッチュさ」を押し出しているようにすら見える。そのことからも、やはり彼女の作品を単に病の発露として捉えることは間違っているように思う。
結局、彼女の作品をとりまく「草間彌生的なもの」の正体を解き明かすには、彼女が何を演じようとしているのかを理解するのが一番の近道なのだろう。少なくとも彼女が「演じている」ということだけは間違いない。60年代に挑発的なパフォーマンスで名を馳せたことからも分かる通り、草間彌生は自己演出にかけては天才的な才能を発揮する芸術家なのだ。だから彼女の一挙一動をそのままに受け取るのは、あまりにナイーブ過ぎるように思われる。「精神的な病から逃れるための創作」といういかにもな出発点と、そこからの予想に反して、結果として現れる作品のある種のけばけばしい安っぽさ。だいたい《LoveForever》という作品のタイトルからして何か性質の悪いジョークのようだし、携帯電話のデザインを請け負ったところからも自身の作品をあえて通俗化しようとする意思が透けて見えるように思える。
つまるところ彼女は典型的な芸術家像(要するにゴッホのような)の壮大なパロディを演じようとしているのではないかと、ぼくは思う。そう考えれば、奇抜な出で立ちをして「ゼンエイゲイジュツカの草間彌生です」と名乗る彼女の姿は、「芸術家という存在のパロディ」としてすんなりと納得できる。だから彼女は自分が他の人々からどのように見られているかに非常に敏感だ。あるテレビ番組で「これから何を描くのか」と訊かれた彼女は「私の手に聞いてください」と答えたそうだが、この受け答えなどあまりに鮮やかで恐れ入ってしまう。もっともこれを図録の評論のように「たしかに事前に用意された構想などというものはなく、すべては筆の動きとともに始まるのである。しかしそれを単なるオートマチズム(自動記述)とみなしてしまってはなるまい」(2) などと糞真面目に解釈するのは、どうにも馬鹿げている。カメラの前で彼女は「ゲイジュツカ」を演じているのである。むしろ彼女の作品が工芸品のレベルにまで単一的となっていることに注目すべきだ。もちろんそれは自動記述でもなんでもなく、人々が期待する「草間彌生的なもの」を慎重に嗅ぎ取り、それを画面の上に描きあげていくのである。自身の作り上げたイメージをひたすら自己増殖させていくという手法。恐らくここにこそ、彼女の作品に見られる同語反復性と、作品自体が作家を喚起させるという特性の最大の理由があるように思う。
しかし一体いつから芸術家は自身の個人的な苦悩をひけらかしてまわるようになったのだろう。果てには、病や心痛こそが芸術家の証であり、自殺が作家の価値を押し上げるといったような極めて歪な構造にまで辿り着いてしまったように思う。そう考えてみれば、自身の病んだ精神の体験をキッチュなものへと変えてしまう彼女の創作姿勢は、実のところそういった「ゲイジュツカ像」に対する強烈なアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。少なくとも草間彌生が演じようとしている人生は、そういったものとは対極にあるような印象を受ける。演技を止めた瞬間に彼女が何を考えているのかは知るよしもない。しかし案外、自分の作品に寄せられた「糞真面目な芸術評論」を見て笑い飛ばしているというのが真相なのかもしれない。もっともぼくには、その方が自分の傷ついた心を押し売りしてまわる青白い顔をした青年よりも、よほど健全な芸術家の姿のように思えるのだが。
1.展覧会図録 p.148
2.展覧会図録 p.12
text:浅井佑太
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