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複数の世界/平均化された世界《世界制作の方法 Ways of Worldmaking レビュー》

2011 年 10 月 28 日 3,324 views No Comment

自分が見ている世界と他人が見ている世界が同じであるという保証はどこにもない。ぼくたちは普段、時代や社会という同じ文脈の中で活動しているから、それに気がつかずに(あるいは振りをして)過ごしていてもなんとかなるというだけのことだ。それどころか、そのような差異が表出したとしても、大抵の場合、ぼくたちはそれを調整して平均的な世界像を作りだそうとする。けれども偉大な芸術家たちが打ち壊そうとしてきたものとは、まさにそのような平均的な世界像であったとも言える。彼らはみな、まだ誰も見ていなかった世界を現出させることに心血を注いできたのである。

このことに関して、オスカー・ワイルドは自身の芸術論の中で次のように鮮やかに述べている。
「あるものを眺めるということとはあるものを見ることとは大違いなのだ。(…)現在、ひとびとは霧を見ている、だがそれは霧があるからではなく、あのような効果の神秘的な美しさを詩人や画家が教えてくれたからなのだ」
彼によれば、何世紀も昔から霧があったとしても、それはまだ誰も知らないものであったのだ。それは芸術家が示したことで、はじめて知覚されうるものとなったである。それならば裏を返せば、芸術家の役割とは、自分だけに見えている世界を、他人にも見えるような形で提示することなのかもしれない。

前置きはこのくらいにして先に結論だけ述べておこう。この『世界制作の方法』は間違いなく、関西では稀にみる優れた現代アートの企画展である。ここ数年でこのレベルの作品と企画とが揃った展覧会は、ほとんどなかったと言ってもいい。

この企画の趣旨を簡単に説明するならば、次のようになるだろう。作家にはそれぞれ一つの部屋が与えられる。そこが彼らの世界を創造する場所となる。この中で彼らは自分の見た世界を自由に描き出す。結果として現れるのは、作家の数だけ作り出された異なる世界である。我々はそれぞれの部屋で、それぞれの世界を目撃することになる。

だから普通の美術館と違って、個々の部屋を作家の展示スペースのように考えてはいけない。そこは作家の作品を置くための場所ではなく、まぎれもなく一つの世界なのである(もっとも幾人かの作家は、部屋の中に自分の作品を並べただけに終わっていたことも事実ではあるが……。ともかくそのような作品に対しては、ここでは触れないでおこう。この展覧会では、優れた作品とそうでない作品との差は、奇妙なほど歴然なものとなっているから、各々が確かめればいいと思う)。

それでは彼らはどのような世界を見て、どのようにそれを作り上げたのか?

大西康明の《体積の裏側》は、その題名が示すとおり、普通知覚されることのない物体の表面の裏側を可視化する。縦長の部屋の上からは、透明のビニール状の膜が垂れ下がっている。不穏な形に波打つ薄い膜と、それを天井から支える今にも切れそうな黒い接着剤でできた糸。その糸はグロテスクに膜の上にまとわりつき、天井と膜の間の空間でも互いに絡み合う。ここでは普段常にそこにあるけれども、決して見ることのできない物体の「裏側」に照準が向けられる。表面に触れることはできる。しかしその裏に辿り着くことはできない。見ることができない以上、そこにはどのようなものもあり得る。大西が示した「裏側」が空想であると切り捨てる証拠を、ぼくたちは一つも持ってはいない。それならばいっそのこと、その「裏側」が本物であると信じてみることにしよう。すると自分のいる空間の背後に、とたんに黒い糸が絡み合う様が浮かび上がり、世界は新しい奥行きを獲得する。見ることができないからこそ、なにもかもがありえる。しかもそれは、自分のいるすぐそばに常にある場所なのだ。それではグロテスクに絡み合う「裏側」が意味するものは、本能的に闇に対して感じるような、知覚の外側にあるものへの漠然とした恐怖感なのだろうか?

エキソニモの《ゴットは存在する》は逆に、普段知覚している世界を異なる方向から照らし出す。薄暗い部屋の中には、円形にノートパソコンが並べられ、その前には二つのマウスが手のひらのように合わせられ、画面に向かって祈りの姿勢をとる。画面を覗き見ると、『神』と題されたフォルダの前をポインタがひっきりなしに動き回る。ここでは本来、電子空間を支えている「はず」の人間の不在が強調され、その空間は自立的なものとして姿を現す。この部屋はいわば、電子空間というゴットが支配する場所であり、ぼくたちは単なる鑑賞者以上に排除された存在となる。けれど彼らが示した空間は、日常から離れた特殊なものなのだろうか? 電子世界の向こう側に本当に人が存在していることを確かめられるときは限られている。掲示板に書き込んだコメントに返されるレス、しかしそれを書いたのは本当に人なのか、あるいは画面の向こう側に存在する人ではない何者かではないのだろうか。例えば、このレビューを書いている「ぼく」は実在する人物なのか、ひょっとすると単なるプログラムが書いているに過ぎないのではないのか。ここでは《体積の裏側》の場合とは反対に、あえて事物の表面を強調することで、本来存在するはずの裏側(つまり実際に電子空間を操作している生身の人間)の不在が描き出されている。

けれどもこの展覧会でもっとも優れた作品は、恐らくクワクボリョウタの《10番目の感傷(点・面・線)》だろう。その最大の理由は、純粋な視覚的な面白さに起因していることは間違いない。ここでは現代アートがしばしば疎かにしてきた視覚的な要素と、コンセプトとが高い次元で綜合されている(手の内が明かされたからといって、価値が下がるレベルの作品とは思えないが、これから展覧会に行く予定の人は、この段落は読み飛ばした方がいいかもしれない)。部屋の中は、真っ暗になっていてほとんど何も見ることができない。少し目がなれてくると、地面には何かが置かれていることだけが、ぼんやりと知覚できる。やがて点のような光源が動き始める。光源をとりつけた鉄道模型が、様々な物体が脇に散りばめられたレールの上を一周する――それがこの作品の全てである。けれども、ここで鑑賞者の前に現れるのは、地面に置かれた物体ではなく、それが壁の上に投射する影の姿である。列車の移動とともに、その影は大きく形を変え、そしてその影の姿から、それを作り出した物体が何であるかをぼくたちは知ることができる。けれども実物と影との間のギャップがどれほど大きなことか! ここで世界を形成しているのは、明らかに実物ではなく影の方である。物事の裏側の存在の大きさと、それが照らし出される角度によって、まったく異なったものとなってしまうということを、ここまで鮮やかに表現した作品をぼくは知らない。そして驚くことに(これが現代アートでは驚くべきことなのだが)、この作品は視覚的な要素だけでも完全に新しく、独立して成立するものなのである。

いくつかの自分が優れたものだと思えた作品について、ぼくは作品の紹介をかねて、ここで簡単な解釈を試みてみた。けれどもそれとて、実はぼくが見たひとつの世界像に過ぎないということも告白しておかなければならない。それは他人に伝えることはできても、自分にだけ有効な世界像という範疇から逃れることはできないものなのである。恐らくこの展覧会に行った人にとって、彼らの作品はぼくとはまた違う知覚の仕方で捉えられ、新たな世界像が生み出されることになるだろう。そしてまさにそのような知覚の方法こそが、ここでは求められているのだと思う。

ぼくたちは普段、あまり意識してはいないだけで、それぞれ異なった世界の中に生きている。自分だけの意識・自分だけの感覚をもって世界をとらえているのだ。普段の社会の枠組みの中でも、そのような自分だけの世界と、異なる世界とは一瞬一瞬交差し続けている。そしてその度に、ぼくたちは、その差異を修正し、平均的な世界をつくりだそうとする。けれどもそのような平均的な世界さえも、常に過去の誰かによって打ち壊され、新たに作り出された「暫定的な」世界像に過ぎない。オスカー・ワイルドにならって言うならば、遠近法が発明されたとき初めて世界は奥行きを獲得したのであり、ガリレオが地動説を唱えたとき、ゆっくりと地球は太陽の周りを動き始めたのである。今ある世界がほんの数分後には、まったく異なった知覚の方法で捉えられる可能性を否定することは誰にもできない。

だから一度、平均的な世界像を作り出す作業を一度やめてみるといいと思う。それは無数の世界の最大公約数である、ひとつの錯覚に過ぎないのだ。平均化する作業が染み付いた身体から逃れることは容易ではないかもしれない。けれども「暫定的な」世界の中で生き続けることはできない。それは同時に、この一瞬の間にも古くなり、死滅しつつある世界でもあるのだ。そこから抜け出すことができたとき、ぼくたちの目の前に開けるのは新たな世界なのか、あるいは本来の世界の姿なのか。

参考文献:展覧会図録、『嘘の衰退』オスカー・ワイルド全集Ⅳ 西村孝次訳


text:浅井佑太

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