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生きているもの・想像力の源《所蔵品展 人のかたち、生きもののけはい レビュー》

2011 年 9 月 28 日 3,214 views No Comment

アクアリウムで巨大な鮫を飼育することはできないし、逆に水族館の大水槽に熱帯魚を放ったりはしない。箱には箱に見合った中身が求められる。そういう意味では、伊丹市立美術館は、美術史の見出しに名前の挙がるような有名画家の回顧展を開くような恵まれた箱とは言えないかもしれない。重文指定となっている旧家や庭園のそばに併設された美術館は、スペースとしてはかなり狭い部類に入るし、外観もすぐにそれと分かるようなものではない。過去の企画展を振り返ってみても、美術史の本流からはそれた絵本画家や日本の作家の展覧会をつつましやかに開催しているという印象がある。しかしそれは逆に、国立西洋美術館のような大美術館では決して取り上げられないテーマを得意としているとも言えるだろう。美術館には美術館にふさわしい企画が求められるのだ。

今回の所蔵品展『人のかたち、生きもののけはい』は、人や生きもののかたちをモチーフとした日本の画家や漫画家の作品を集めたものである。美術や工芸の世界では、しばしば生物は重要なモチーフとして扱われてきた。もちろんそこには西洋美術に顕著なように、動物や人の姿をあたかも本物であるかのように描くことも含まれるが、単にそのような直接的な例に留まらず、人々はデフォルメしたモチーフを装飾として用いたり、あるいは技術発明の想像の源として利用したりしてきたのである。一例を挙げるなら、ユーゲント・シュティール様式の建築の装飾には、しばしば動植物をモチーフとした彫刻があしらわれている。それは遠目で見る限り、優美な曲線の集合のように見えるが、確かにそこには「生きているもの」の姿がかたどられているのである。そしてそれは、建築という無機質な塊に、生き生きとした生命力を吹き込む力にもなっている。

もっともそのような美術史的な知識は、今回の展示を見る際にはほとんど不要と言ってよいものかもしれない。各々の作家が、生きているもののどのような部分に刺激を得、それをどのように表現しようとしたかを見ることには、単純に面白いものがある。人それぞれに、着眼点はまったく違うし、それを表す方法も、色彩の配置の仕方もすべて異なっている。見ているものは同じはずなのに、それをどのように見るのかで答えがすっかり変わってしまうところは、その対象が「生きているもの」であることが大きく関係しているのだろう。彼らはどれひとつとして一様ではなく、一定のフォルムを持ちつつも、常に多様な要素を持ち合わせている。そこに生命のもつ神秘と、無機物には存在しない面白さがあるのである。

たとえば武田秀雄はそれを骨格の段階に戻して提示する。けれどもそれは、単なる骨格標本を作り出す試みではない。骨となった「生きているもの」はそこから、新たに組み替えられたり、もしくはポーズを取らされたりして、生きている時とは異なった様相を見せる。黒の背景に浮かび上がる単色の骨には、切り詰められた生物のフォルムと、その奇妙な美しさが表れる。躍動する馬の姿をモチーフにした作品では、胸骨の中から鳥が羽を伸ばし、あたかもこの鳥が馬の推進力を与えているかのようで面白い。武田は生命のフォルムを支える冷たい骨格の中にこそ、生命力の源を見ているのかもしれない。

一方小牧源太郎の《紗鶏》では、対象をカラフルなオブジェのように扱う。遠目では単なる装飾としか思えないほど、紗鶏は流線型にデフォルメされ、原色に近いけばけばしい色彩で塗られている。よく見ると背中のうえには、小さな人間がもみあっており、尻尾の上にも爬虫類が座っている。ここでは生きているものの姿は、大きな模様のようにして描かれているのである。そこには、どことなく、ファンタジーや童話の世界を思い起こさせるユーモアが感じられる。

浅野竹二の《生きもののけはい》では、先ほどの彼らとは少し違う捉え方を試みているように思う。赤や青といった基本的な色だけでまとめられた画面には、太めの黒い線で「何か」が描かれている。タイトルから推察するに、それは生き物の気配なのだろう。しかしそこには同時に、奇妙に懐かしい感覚が宿っているようにみえる。彼の絵には、言うならば、幼少時代の子供の下手糞な絵を思い起こさせるようなところがあるのである。子供のころに漠然と捉えた、生きているものの感覚を、彼は子供にしか描けないような形で切り取ったのではないだろうか。そこにはデッサンの技術や、ある種の定型表現を知らないものにのみ捉えることのできる、原始的な生命の息吹があるように思う。

他にも渡辺豊重の可愛らしいオブジェや、谷川晃一のワッペン風にデフォルメされた動物たちのタペストリーなど、作家たちの表現の方法や着想はどれも異なっていて楽しい。

「生きているもの」の姿は、つねに人々の想像力を刺激してきた。そこには無生物にはない、何か必然的な力や魅力が多分に存在しているのだろう。生命体を何らかの形で、作品へと移し変える行為は、いわば「生きているもの」を「生きていないもの」へ移し変える行為と言ってよいかもしれない。そこには移り変わり、やがて死んでいく生命体を不変のものとして留めておきたいという思惑もあるのだろう。しかし人々が時計やアクセサリーといったほんの些細なものにさえ、生命を模倣させようとしてきたことを考えれば、それはむしろ、本来は無生物である物体に生命力を注ぎ込もうとする試みのように思われる。

人々が生物を作品に取り入れる際に誇張された部分やデフォルメされた部分は、おそらく彼らが生命力の証として感じたとったところなのだろう。そのような見方をするならば、武田は生物の切り詰められた骨格の中に、小牧は流線型のフォルムとその鮮やかな色彩の中に、生きているものにしか存在しないような要素を感じ取ったのかもしれない。あるいは浅野の場合ならば、それは漠然とした感覚としか言いようのないものにまで、抽象化することで初めて実現できるものだったのだろう。

伊丹市立美術館のこぢんまりとした展示室の風景は、生きているものたちで溢れていて、鑑賞者の目を素直に楽しませてくれる。難しいことを考えながら、真剣に見つめる必要のあるような作品はほとんどないだろう。どれも気楽な気分で、なんとなくそこに描かれた生き物の特徴や色彩に目をやればいいと思う。美術館の近くには、いくつもレストランや喫茶店が立ち並んでいる。何かの機会に立ち寄って、帰りがてらカフェで一服する、そういう気軽な美術館の楽しみ方も悪くはないのではないだろうか。美術館には美術館にあった楽しみ方があるように思う。


text:浅井佑太

『所蔵品展 人のかたち、生きもののけはい』の展覧会情報はコチラ


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