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モホイ・ナジの作品はなぜつまらないか《視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション レビュー》

2011 年 8 月 29 日 4,101 views No Comment

20世紀の芸術を振り返るとき、しばしばそこでは世紀の転換期よりも、第一次世界大戦の終結が根本的な歴史的分岐点を示していることに気づかされる。もちろんそれには世界地図の再編や政治体制の変容といった外的な事情が大きく関わっていることは言うまでもない。しかしながら何よりも大きなことは、第一次世界大戦によって、楽観的な進歩主義や伝統への信頼といった、かつては当然のものとして扱われた幻想に終止符が打たれたことだろう。そのような精神的な激変の中、芸術家たちはかつての規範や伝統にただ乗りしていられるはずもなかった。むしろダダイストたちに顕著なように、過去は唾棄しなければならない否定的なものとすら映っただろう。彼らは何も無い荒野から、新たに芸術を作り出さなければならなかった。それはつまり、創作の前段階から、「芸術は何のためにあるのか?」といった根本的な問いに対しても、芸術家自らが回答しなければならないことを意味していたのである。

モホイ・ナジが芸術家への道を歩むことを決意したのも、まさに彼が兵役を終えた1918年のことであった。彼はハンガリーでアヴァンギャルド運動に関わったのち、1920年にベルリンへ移ることとなる。そこでダダやロシア構成主義、そして都市産業や技術革新に影響を受けた彼は、積極的にそれらを芸術作品に導入し始める。1920年に制作された《三角形のスケッチ》などの作品は、ある意味では没個性的に思われるほど、強く構成主義の影響を思わせるものである。直線と弧で描かれたフォルムと禁欲的なデザイン的構成――同時代の潮流を色濃く映しつつも反伝統的なスタイルに、ナジは何を求めていたのか。

「共産主義社会の実現のために芸術家たちは、プロレタリアートと共に戦わなければならない」と彼は1923年に『宣言』の中で述べる。「そして、われわれの個人的興味をプロレタリアートの興味のもとへ置くことを望む。これは共産党のなかで、プロレタリアートとの共同作業によってのみ実現可能である」

ナジは生涯にわたって共産主義に接近していたわけではないが、何より重要なのは、ここで彼は芸術を社会を改革するための道具として捉えていることである。このような思想は戦後の時代において集団的な性格を持つ、ひとつの大きな潮流であった。それまでの個人表現や代用宗教的な芸術を拒否し、彼らは、芸術は公共的なものであるべきだという信念を持っていた。そしてそれはいわば、戦後社会の(精神的・物質的両面での)再建という課題から必然的に産まれたものであった。

オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは当時の状況をこのように証言している。
「一九二四年から一九三三年に至るこの十年間は、ヨーロッパにとっての比較的静穏な時代であった。(中略)戦争と戦後の悪しき時代がわれわれの生活から奪った幸福と自由と精神の集中を取り戻さなければならない、という感情は、われわれがみな持っていたものである。人々はいっそう仕事をしたが、それでも心の負担は軽減されていた」。

世界の再建という課題は、とりわけ当時の知識人にとって重要な関心事であった。かつてとはまた違った形で、新たに戦後の社会を作り出さねばならないことを誰もが実感していたのである。もはや芸術家は社会に無関心でいることはできず、ナジが講師として活躍したバウハウスが理念としたように、芸術家は社会のなかのひとりの職人として、それに奉仕しなければならない。かつての理想のひとつであった「芸術のための芸術」は、19世紀的な時代遅れなものとして扱われ、実際的に有益なものこそが賞賛される条件となったのである。

とりわけ1923年にバウハウスの講師として招聘された後の彼の作品を見れば、ナジがいかに社会と密接にかかわりながら創作を行ってきたか分かるだろう。例えばクロル歌劇場のために彼が作成したオペラの舞台――幾何学的で硬質なセットは、彼がつちかってきた造形感覚をそのまま舞台芸術に転用したものであるし、雑誌や書籍のデザインにも同様にも構成主義的な要素は生かされている。実用という概念からは離れた写真による作品でも、その事情は大きく変わらない。そこで彼は光そのものを画面に捉えるという実験を行っているが、「私には特定の時代の造形にはその時代に合った手段で仕事をすることが当然と思える」とナジ自身が言うように、それも究極的な目的は新たな時代の創造という公共的な理念の下にあるのである。

しかし逆に言えば、それはナジとは違う時代を生きるわれわれにとって、彼の作品をいくらか魅力に欠けるもののように思わせる要因となっているようにも思える。もう少し客観的な言い方をするならば、彼の作品は容易に他の作家に類型を探し出すことのできる、独自の特徴の希薄なものが多いのである。ロシア構成主義の作家たちや、マン・レイといった同時代の芸術家と比較してみたとき、彼らとナジの作品とを明確に区別できる要素は残念なことに多くはない。

例えば1920年代に印刷画として製作された《どのようにして私は若く美しいままでいられるか?》。ダダ風のタイトルを持つこの絵は、ナジの作品の中では比較的ウィットにとんだものである。構図は単純で、画面の中央少し右側に黒い円が描かれ、その中にはひとりの女性の影が見える。そして円の左上には、弧にそってひとりの人間の影が落ちていく様子を伺うことができる。作品そのものは洒落た感じがして、面白く感じるところもある。しかしそのタイトルの付け方からして、隠す気配すらないほどダダの影響を感じさせるし、絵の構図そのものにしても(実際はどうあれ)極めてありふれた印象を見るものに与えるだろう。この作品がナジによって創られたに違いないと思わせるような必然性は、ここには存在しない。

もっともそのことは、決してナジだけではなく、当時の芸術家の多くに当てはまることでもある。19世紀的な個人主義芸術を否定し、社会参加を謳ったが故に、彼らの作品が集産的な特徴を帯びていたということは、この時代の芸術作品を性格付ける要素のひとつだろう。当時の社会形成に大きな影響を与えた芸術家の作品が、しばしば今日では資料的な価値しか持っていないことは、芸術の意味を考える上で興味深い事実である。

戦後のヨーロッパ社会において、「芸術は何のためにあるのか?」という問いに対して芸術家たちが新たに答えなければならなかったように、恐らく我々は「芸術家とは何であるのか?」という問いに答えなおさなければならないのだろう。少なくともナジは、19世紀と同じ意味で自分のことを芸術家であるとは思っていなかったに違いない。「社会革命家が政治活動を起こすのと同様の力強さをもって、芸術は社会生物学的な問題の解決を求めて突き進む。いわゆる芸術の「非政治的な」アプローチというものは謬見である」と彼自身述べているように、彼にとって芸術と実践は切り離すことのできないものであった。工業デザインの制作という面では彼は職人であったし、アメリカでルーズベルトを支持するために走り回ったという面では活動家でもあった。あるいは大工が金槌を手に取るのと同じような意味で、ナジは芸術を手がけたのかもしれない。つまり彼にとって芸術は目的ではなく手段の一つに過ぎなかったと言っても、大きく誤ってはいないだろう。それならば彼の業績を評価するには、彼の作品そのものよりも、彼の作品が与えた影響や、同時代に意味したものこそを重点的に見る必要があるのかもしれない。

そのような視点で彼の作品を見るならば、モホイ・ナジが手がけた多くの工業デザインがなんの注釈も抜きにしても、今日に繋がっていることは理解できるだろうし、彼がいくつかの舞台を手がけたクロル歌劇場は、現代の舞台演出を考える上ではほとんど伝説的な存在となっている。あるいは非物質的な光を造形要素として扱う彼の写真芸術は、今日のグラフィックアートの先駆けとして見なすことができるかもしれない。作品そのものは古くなっても、そこにこめられた精神は確かに今日でも生きていると言えるなら、それこそナジが芸術によって目指したものと言えるのではないだろうか。そしてそれは裏を返せば、もはやそのような類の芸術作品の場合、作品という概念そのものが、従来の基準では測りがたい曖昧なものになっていることの証に他ならない。そもそも彼が作り出そうとしたものは「作品」なのだろうか? 「作品」を見ることが、ナジを理解することに繋がるのだろうか?

かつて詩人のコクトーは「生きている間は人間で、死んでから芸術家たるべきだ」と言って、20世紀の新しい芸術家のありようを説いた。しかし仮に死後であったとしても、果たして彼らは、それまでと同じような意味で芸術家になることができるのだろうか? もしくはそもそも芸術家になる必要などあるのだろうか? 芸術を囲う枠組みそのものが変化した今、もはや美術館という制度そのものが、彼らの芸術を保存する場として有効なのかどうかさえ怪しくなっているように思われる。仮に大量生産や複製を前提とした作品をゴッホの作品と同じように展示したとすれば、それは作品のアウラの欠如を強調する結果に終わるだけだろう。さらに言えば「作品の展示」という形態そのものが、彼らの芸術を評価する上で適したものなのかさえ疑わしいではないか。

正直なところ、私にとって展示されたモホイ・ナジの作品の多くは退屈なものだった。もちろん、だからといって、ナジの芸術家としての価値を否定しようとしているわけではない。むしろ「同時代の創造」という目的のために制作された芸術作品が、一世紀後の人間にとってかつてと同じ価値を持つことの方がおかしなことなのだろう。それに「生活の改善」を芸術の役割に求めたナジなら、そのようなことは期待してはいまい。役割を終えた後、不要になるという芸術の有り様を認めることは間違ってはいないと思う。芸術の意味や役割は確かに変化した。それは否定しがたい事実である。しかしそれがどのように変化したのか、その変化にどのように対応すればよいのかは未だに定まってはいない(展覧会という制度そのものが基本的には100年前と変わっていないことは、そのことを端的に示しているのではないだろうか?)。あるいはそのような明確な指針の不在こそ、現代という時代の特徴として受け入れなければならないことなのかもしれない。ナジのような芸術家をどのように捉えればいいのか、私にもまだ分からない。

参考文献:展覧会図録、シュテファン・ツヴァイク、原田義人訳『昨日の世界』みすず書房


text:浅井佑太

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