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二重化の二重化/綜合 《名和晃平─シンセシス レビュー》

2011 年 7 月 28 日 2,631 views No Comment

展覧会名の「シンセシス(synthesis)」とは、複数のものを「一緒に(syn)+置く(thesis)」ことを意味する。「綜合」や「合成」と訳される。それが単なる「総合」と異なるのは、そこに新しい存在が生まれてくるから。その結合からは、いわば「ハイブリッド」な存在が生まれてくるのだ。ただし名和による「綜合」は、他動詞的ではなく自動詞的。つまり名和は、何かを「綜合する」のではなく、何かが「綜合してくる」ようにその条件を整える。その際彼が利用するのが、複数のメディア間の違いだ。アナログの鹿とデジタルの鹿。鹿を二つのメディアの間で往還させるならば何が生じるのか。そこで鹿はどのように「解体」され、どのように「綜合」されてくるのか。メディア間で「二重化」する事物。事物はメディア間を移動することで、様々な姿に「二重化」され「綜合」される。

《PixCell-Double Deer》:散りばめられた透明なクリスタルの球体によって、びっしりとデコられた鹿の剥製。鹿の姿は、大小様々な光の粒子に分解される。球体には、反射光と透過光からなる様々な像が映り込んでいる。レンズのように拡大された表皮。周囲の光景。周囲の球体。鹿そのもの。そのひとつひとつの水晶玉に、鹿の像、鹿のイメージが小宇宙のように閉じ込められている。様々な不純物を含む鹿のリアリティが、鹿の表面で濾過されて、無色透明な水泡となって鹿の表面に吹き出してきたかのようだ。クリスタルの球体が、鹿のリアリティをみるみるうちに「吸い取って」ゆく。

現実の鹿を、デジタル画像に「変換」すること。デジタル・データに「圧縮」すること。そこでは、鹿の重さ、臭い、感触はすべて捨象され、鹿の存在は、有限個の「画素(Pixel)」に解体される。名和は、鹿を覆い尽くすクリスタルの球体をPixCell(画素細胞)と呼ぶ。いわばPixCellとは、いったんPixelに分解された鹿をふたたび三次元に復活させる「細胞(Cell)」なのだ。名和は、ネット上の画像をPCにダウンロードするように、ネットで「剥製」を検索し、取り寄せ(=ダウンロード)、自身のアトリエに「保存」する。名和はいわば、現実の事物を、JPEGやGIFファイルと同様に、彼オリジナルのPixCellファイルに変換/圧縮しているのだ。PixCellの鹿。PixCellのヒョウ。PixCellのキューピー。

注意すべきは、PixCellが単なる「画素」ではなく「Cell=細胞・容器・小部屋」と呼ばれる点。「細胞」とは、生物の最小単位であると同時に、生物のすべての情報をDNAとして「圧縮」して閉じ込める「容器」でもある。名和によるPixCellへの「圧縮」は、鹿の存在のすべてを、ひとつひとつのクリスタルの球体の中に「像」として「圧縮」し「閉じ込めて」ゆく。

鹿は、メディアからメディアへと移行するたびに、その姿を変える。生存環境としての「自然」メディアから、鑑賞・保存のための「剥製」メディアへ。さらに、情報交換のための「デジタル」メディアから、彫刻の素材としての「芸術」メディアへ。そして美術館や批評からなる「アートワールド」メディアへ。このレビューもまた、鹿を「言説」に「変換」するひとつのメディアなのだが、鹿という存在それ自体もまた、様々なものを表象するメディアに他ならない。神獣としての鹿。狩猟の対象としての鹿。中世貴族の紋章としての鹿。美術館の前身である貴族の陳列室に飾られた剥製としての鹿。鹿の身体には、太古から様々な人々の想いや欲望が無数にまとわりついている。

名和はこの作品を制作するにあたり、ネット検索したそうだが、その画面には、様々な鹿の画像や言説が溢れ返っていたことだろう。いわば、そのイメージのひとつひとつが、クリスタルの球体の中に閉じ込められて、鹿の周囲に無数の球体となって吹き出し、結晶化してきたとも言える。しかも球体は互いに互いを映し合っている。それらは相互に「リンク」し合いながら、鹿の身体の上にネットワークの網を結晶化させてゆくのだ。無数のイメージよって覆い尽くされた鹿。メディアからメディアへと「変換」されるたびに、鹿は無数のイメージに解体され、そのイメージのすべてをその身にまとい「綜合」させてゆく。だが同時に鹿は、そのたびに自らのリアリティを希薄化させ、その抽象度を高めてゆく。「ディアからメディアへと移行するたびに、現実は蒸発し、死のアレゴリーとなる」。

ここにはもうひとつ別の「二重化」があることも見逃せない。同じ形状をした剥製が二体、ズラすようにして組み合わされているのだ。名和によれば、検索結果を示す画面には、どれも同じ格好をした鹿の剥製が無数に表示されたという。鹿の死のイメージまでもパターン化されている。同じ姿勢をした剥製を組み合わせることで現実の鹿を「二重化」すること。「双子化」すること。双子化することで、鹿の現実をさらにいっそう希薄化させること。

双子が死を連想させるというのは、古代より万国共通の感覚のようだが、それはおそらく、まったく同じものが存在しないはずの自然界に現れた双子が、自然の法則に反するもの、非現実的なもの、異世界的なものを人々に想起させたからだろう。双子は、複製された人工物を想起させたのかも知れない。双子は、お互いがお互いを写す複製・コピーとして、オリジナルとしての現実性を失い、非現実な世界という観念を人々の脳裏に焼き付ける。名和の鹿は、アナログとデジタルの間で「二重化」され、さらにそれ自体としても双子として「二重化」されているのだ。

名和の鹿の全身を覆い尽くす球体を取り除いたところで、ひとは現実の鹿に出会うことはない。そこに現れるのは単なる鹿の「コピー」つまり鹿の「剥製」に過ぎないからだ。現実の鹿などどこにも存在しない。あるのはただ、鹿の無数のイメージのみ。イメージの中心は空虚なのだ。空虚なもの。実体のないもの。虚像と虚像がお互いにお互いの姿を映し合いながら、また別の虚像を産み落としてゆく。二重化の二重化。それを通じた綜合。

《POLYGON》:人体を3Dスキャンして作られた巨大な人物彫刻。スキャンされた事物は、2Dの画像では微小な「画素」に変換されるように、3Dの画像処理は、事物を無数の「多角形(Polygon)」の組み合わせに変換する。解像度が高い像は、現実の人物のように滑らかな面で表現され、解像度の低い像は、幾何学的なゴツゴツした身体として表現される。このような解像度の異なる二つの人物像を重ね合わせることで作品が構成される。ここでも存在が「二重化」される。滑らかな「生」の身体から、デジタル処理されたもう一つの別の身体が離脱してくる。身体は「二重化」された世界を生きる。

4mを超える巨大な幾何学的形状をした人物像は、70年代以降の巨大ロボットアニメを連想させる。巨大ロボの心臓部に開いたコックピットに埋め込まれる身体。生身の身体がロボットの身体に拡張され、人は自らの意志とは無関係に、非現実な世界を生きさせられる(宇宙戦争!)。だがそれは空想の話ではない。現実世界でも、人間の身体・知性は、様々な形で拡張・延長されている。手足の延長としての自動車。耳の延長としての携帯。目と脳の延長としてのネット。もはや人は機械に接続されることなくして生きることはできない。だがよく考えれば、言語や法律、習慣や制度もまた、そのような機械と何ら変わりはない。それらは人間の身体に始めから刻み込まれたものではないからだ。人間の成長とは、身体や知性をそのような社会のコードに「適合」するよう組み替えてゆくこと、社会という機械にそれらを「接続」することに他ならない。人は、生身の身体を抽象的な身体に「二重化」することで、社会に適合してゆくのだ。

だが本当に、抽象的な身体は、現実の身体から生まれてくるのか。関係は逆ではないのか。名和の像のもとでは、抽象的な像から、現実的な像が生まれてくるように見える。そこでは、現実的な姿をした像の方が、抽象的な像の「影」に見えるからだ。つまり、どこかに「現実の」人間存在があって、そこから抽象的な存在が分離してくるのではなく、あるのはただ、社会化された抽象的な存在だけで、その中の一部分として現実の存在という抽象的な虚構が作られているようにも見えるのだ。機械化され、自分のコントロールを超えてしまった身体を持て余した人間が、その事実を受け入れるために、その補完物として「本当の自分」「現実の自分」という虚構的な抽象物を作り上げたのではないか。現実の自分こそ、非現実な自分が作り出した「影」ではないのか。

ある彫刻では、「二重化」された少女が、互いに互いを指差し合いながら向かい合って立っている。よく見るとその手にはリモコンのようなものが握られている。「二重化」された身体は、お互いにお互いを抹殺しようとするかのように対峙している。「二重化」された存在同士が殺し合うために必要なのは「銃」ではなく「リモコン」なのだ。

《RIQUID》:床に埋め込まれた二つの水槽。そこに張られたシリコーンオイル。暗闇のなかでオイルだけが青白く照らし出されている。その表面には無数の泡が発生しては消えてゆく。泡は規則正しく碁盤目状に配置されている。それはあたかも、シリコーンオイルの溶液の中で何かが培養されているようにも見える。シリコーンオイルという不活性なメディアは、気泡同士が結び付くことを許さない。不活性なメディアの中で、気泡は何とも反応することなく、ただひとり生まれては消えてゆく。規則正しく配列された気泡が孤立したまま生成消滅する光景は、SF的ではあるが、どこか「人間の培養」を思わせる。

次々と弾ける無数の気泡。気泡が弾ける音を、単独で聞き取ることはできない。だがそれらが無数に集まることで、耳に聞こえる音となる。二重化され、三重化され、四重化される音。聞こえない音が無数に重なりあうことで、空間の全体が微細な音で満たされてゆく。耳というよりは全身の肌を刺激するような音。「聞こえない音から生まれてきた、聞こえる音は、感覚の閾値の下にある部分を刺激するような、触覚的で麻酔的な響きを持つ。鑑賞者はこのような綜合された音を聞くことで、初めて、気泡のひとつひとつが、聞こえない音を持っていることに気づく。だが、そのひとつだけを取り出して、そこに耳を澄ましてみても、その音は決して聞こえることはない。全体としては聞こえるが、個として取り出してみると聞こえない音というものもあるのだ。

全体として動いてゆく社会。それを個々の人間の行動に分解/分析してみても、そのひとつひとつには、全体に繋がるようなものが何一つ見出せないということがしばしばある。起こりつつあるアラブ革命の発生と変遷とを、個々人ひとりひとりの意志から説明することは不可能だ。単に分析の「精度」が低いからではない。社会現象というものは、「本質的・構造的」に、個人の意志の単なる足し合わせでは説明できない全体性を持って動いてゆくのだ。「綜合」されてきた全体。それを分解してみても、元の構成要素を取り出すことはできない。綜合されたものの構成要素は、もはや綜合される以前とは同じ姿をしてはいないからだ。


無数に展開される名和の作品群。そのひとつひとつに、名和という作家の像が映し込まれている。それはまさしく、散りばめられたクリスタルの球体で全身を覆い尽くされた鹿の姿を思い起こさせる。展覧会場全体が、さらにいえば名和の存在そのものが、名和の像を映し込む無数の作品=クリスタルの球体によって覆い尽くされているのだ。だが、例えばその作品をひとつ単独で取り出してきたとしても、そこに映っていたはずの名和の像は、その瞬間にこつ然と姿を消してしまうことだろう。名和の姿は、無数の作品が互いに互いの姿を映し合いながら「綜合」される時に初めて見えてくるものなのだ。まばゆいまでの美しい輝きを放つクリスタルの球体は、鹿の身体を離れた瞬間に輝きを失い、ただのガラス玉と化す。ところでこの会場は、ループ状に構成されている。鑑賞者は何度でも会場を周回することができる。いわば会場そのものが「二重化」されているのだ。二度目、三度目、四度目。鑑賞者は周り続ける。新たな名和の姿が目の前に不意に「綜合」されてくる瞬間を待ちながら。


text:桑原俊介

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