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テーマセレクター 《細見美術館アートキャンパス2011 – 鎌倉・室町・桃山 – レビュー》

2011 年 7 月 28 日 2,532 views No Comment

祇園祭の真っ最中ということもあり、京都市内はどこも浴衣姿の人々で賑わっていた。この時期に合わせて細見美術館では《祇園祭礼図屏風》が期間限定で展示されている。企画展とは関係なくチラシにも載っていないシークレット展示だが、こういった演出はとてもうれしい。毎年行っていることなのかどうかを聞きそびれてしまったので、次に行く機会にでも確認したい。それはさておき、特別展の方に眼を向けてみたい。今回の展覧会場は大きく3つに分かれており、鎌倉・室町・桃山の美術工芸品を各時代ごとに厳選されたテーマに沿って鑑賞する構成となっている。

第一会場では「鎌倉—祈りの美」をテーマとして仏教美術・神道美術関連の作品が展示されている。ここで1つのキーワードとなるのが本地垂迹(ほんじすいじゃく)説であろう。本地とは本来の境地やあり方を指し、垂迹とは迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを指す。つまり本地垂迹説とは仏や菩薩を本来の姿(本地)と捉え、その仏や菩薩が様々な土地で救済を行う時にはその衆生に合わせた形態(垂迹)を取ってこの世に出現してくるという説である。日本の場合には仏や菩薩が名前を変えて神道の神となった。この説が生まれた背景には、奈良時代に始まる神仏習合(神と仏を同体と見て共に祀る)という行為と、それらを理論付けし整合性を持たせようとした流れが関係している。本地垂迹説の影響は美術の世界にも色濃く現れ、特に鎌倉時代には仏教美術の手法を取り入れた神道美術や垂迹美術が発展した。《春日社寺曼荼羅》に描かれた春日大社は藤原氏の氏神である武甕槌命(タケミカヅチ)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。その後、国内における神仏習合が進む中で藤原氏の氏寺である興福寺との関係が深まった。813年に藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立すると、その本尊の不空羂索観音が氏神・武甕槌命の本地仏とされ、春日大社と興福寺はより一体のものとなっていった。この信仰形態を絵にしたものが《春日社寺曼荼羅》である。社寺を同一画面に描き、画面下方には不空羂索観音と四天王を配す一方、最下部には春日大社を讃える漢詩と和歌が記されている。神道と仏教の強い結びつきを伺わせる作品と言える。

《春日社寺曼荼羅》のすぐ側に展示されている《春日金銅神鹿御正体》では、武甕槌命(タケミカヅチ)が白鹿に乗って春日の地に影向した姿を立体作品として見ることができる。鹿の背に載せられた榊の鏡の春日五社の御正体(本地仏)を線刻した部分には、絵画として描く分には表現しやすい題材を立体として如何に再現するかの苦心の跡が感じられる。またそれとは別に、鹿の表情や榊の葉にある虫食いの後など、妙に写実的な要素が見られるのも面白い。

第二会場は「室町—墨の飾り」と題され、単庵智伝らの水墨画が展示されている。日本に水墨画がもたらされたのは鎌倉時代とされており、気韻と骨法を重んずる様式が禅僧や武家の気質と合致し、室町時代には禅宗の普及とともに盛行した。やがて禅の思想を表すものとしての水墨画が変化を遂げ、15世紀には本格的な山水画として描かれるようになった。単庵智伝の《遠寺晩鐘図》では漁を終えた舟の影や寺へ帰る僧たちが、淡い水墨で表現された夕暮れの景色の中に描かれている。これは中国の伝統的な画題である瀟湘八景(しょうしょう はっけい)の一場面である。瀟湘八景は湖南省北東部にある洞庭湖周辺の八つの名勝で、山水の景色以外に夜雨や暮雪などの気象を描いたことで、情趣に富む画題として日本でも広く愛された。(同じ会場内に展示されている秀盛作の《瀟湘八景図》にて八つの風景すべてを確認することができる) キャプションでは作品名が《遠寺晩鐘図》となっているが、“夕霧に煙る遠くの寺”ということで《煙寺晩鐘》とも言われていて、個人的には煙の字が合っていると感じた。また単庵智伝は漆器の絵付けも行っていたと伝えられている。残念ながら本人が実際に絵付けを施した漆器は展示されていなかったが、同時代の作例として根来塗に絵付けをした《黒根来双蝶文瓶子》が出品されている。

根来塗は中世に紀州根来寺で作られていた漆器である。膳や椀、皿や盆など寺で用いる日用の食器を僧自ら作ったものが起源とされ、機能性を重視した簡素ながらも美しい形や、手擦れによって生じる表面の景色など独特の味わいを持つ。中世に造られた品で現存するものは希少だが、かつては数千人にも上る僧たちの必需品として大量に生産されていた。それを支えたのが大規模工房や大勢の優れた工人たちの存在であった。1853年、豊臣秀吉の根来攻めによって根来塗は大打撃を受けるが、戦火によって各地へ散った僧たちが漆工技法を伝えたことで、多くの漆器産地のルーツになったと言われている。また大規模な漆器製造のシステムは、室町以降の漆器需要の急激な増加に際して必要不可欠なものであった。その一端は第三会場の「桃山—豊潤の時代」で垣間見ることができる。

桃山時代の展示室では絵画以外の分野、特に工芸品にも焦点が当てられている。陶器では千利休の弟子である古田織部の指導によって創始された織部焼や、室町時代の茶人である志野宗信に由来する志野焼の品々が並んでいる。いずれも白地をキャンパスに見立てて草木や文様を描いた非常に装飾的な焼き物であるが、キャプションによるとそのように釉薬で白地部分に文様や絵を描くことは、当時としてはかなり革新的な表現であったそうである。このような新たな表現は漆器においてもみられる。

桃山時代の漆器を代表するものに高台寺蒔絵がある。高台寺は京都市東山区にあり、豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院である。その霊屋の堂内装飾に使われた桃山様式の蒔絵を総称して高台寺蒔絵と呼んでいる。《紫陽花蒔絵螺鈿歌書箪笥》では高台寺蒔絵の特徴をはっきり確認することができる。箪笥の天板に描かれた紫陽花や側面の秋草や菊、蓮の葉や花の部分には絵梨地と呼ばれる技法が使われている。絵梨地とは桃山時代以前には漆器に絵を描く際の背景として使われていた地(梨地)を背景ではなく、描かれる意匠の表情の一部として取り入れた技法である。高台寺蒔絵のもう1つの大きな特徴として、製造工程において作業の簡略化が進められた点が挙げられる。根来塗の記述でも触れたように、桃山時代以降になると漆器の需要が急激に増加する。戦乱が終わり、庶民が日常的に使う漆器はもとより高台寺蒔絵のような高級漆器にも新たな需要家が現れた。かつて贅を尽くした漆器は貴族や上層武家などの一部の特権階級が独占していたが、天下人となった秀吉を筆頭とする新興武家や裕福な商人たち、輸出用漆器を求める西洋人からの需要が増えた結果、高級漆器を大量生産できるシステムとそれに対応した技法や表現法が大きく発達したといえる。

陶器や漆器に限らず、桃山時代は従来の技法や表現に対する価値観を覆す転換期であった。新たな文化の担い手となった人々によって生み出されたエネルギッシュな造形は、現在においてもなお人々を魅了し続けている。

最後になるが、展覧会タイトルに“アートキャンパス”とあるように、展覧会会期中にはトークイベントが何回か企画されている。細見美術館館長によるARTトークとして各テーマごとに開催されるようなので、興味のある方は日程を合わせて来場されると良いだろう。きっと今回のレビューとはまた違った視点から、各時代、各作品へのアプローチが行われるはずである。また最初に取り上げたシークレット展示の《祇園祭礼図屏風》を鑑賞したい方は七月いっぱいの展示だそうなので、後の祭りにならぬようお急ぎ頂きたい

text:上田祥悟

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