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絵画の中の物語《フェルメールからのラブレター展 レビュー》

2011 年 7 月 28 日 3,959 views No Comment

少し奇妙な質問に思われるかもしれないが、ぼくたちは普通何のために美術館に足を運ぶだろうか? もちろん絵を見るためであるというのが、最も明快で的を射た回答であることは間違いない。けれどももう一歩先へ思考を進めてみよう。例えばモネの風景画や、あるいはキュビズムのような抽象画の場合、絵画とは見て楽しむためのものだろう。つまりそこで問題となるのは、切り取られた一瞬の風景の美しさや、極限まで切り詰められた構図であって、それに対してぼくたちはまず関心を向けることになる。もちろん絵画を通して、その時代の背景や画家の人生を洞察するといった楽しみ方はあるだろうが、それはあくまで二次的なものに過ぎない。その意味でこの場合、絵画とは純粋に「見る」ためのものであると言ってよい。

しかしとりわけ19世紀以前の西洋絵画には、もうひとつの伝統が根強く存在している。それは「読む」ための絵画である。画家たちは決して、気の向くままに絵の中に小道具や人物を配置していたわけではない。彼らはそれらの持つ寓意や社会的な意味を考慮して、画面の中に文学的な要素を盛り込むことを常としてきたのだ。そしてそれらは同時代の人々にとっては、何の注釈がなくとも理解できる暗号として機能し、その意味を読み解くことは絵画鑑賞の主眼の一つにおかれていた。そして時にはその寓意の意味をめぐって、道徳的な見地や宗教的な観点から論争が巻き起こることもあったのである。

試しに本展で展示されている作品を例にとって、絵画を読み解いてみよう。ヤーコプ・オホテルフェルト(1634-1682)の《牡蠣を食べる》――薄暗い室内には煌びやかな赤い衣装を身にまとった女性が、訪問者の男性に向かい合って座っている。彼女は空のワイングラスを男に向け、それに対して男は彼女に牡蠣を差し出している。同時代の人々には、この絵画の主題が極めて性的なものであるとすぐに理解できたに違いない。なぜなら当時牡蠣には催淫作用があるとされ、また女性の性器と結び付けられて考えられていたからである。それでは誘惑者である男に対して、彼女はどのように答えているか。彼女の視線は男の差し出す牡蠣ではなく、手に持った空のガラスに向けられ、男の欲望に気づいているのかは定かでない。彼女は酔っていて、グラスにワインが注がれるのを期待しているのかもしれない……。男女の縺れた関係をどう見るかは、鑑賞者に委ねられている。

もちろんこのような寓意は、今日のぼくたちにとっては必ずしも自明のことではない。専門家の注釈なくしては、絵画に散りばめられた記号が全く意味をなさないことも多々あるだろう。もちろんそのような寓意を理解せずとも、例えば先に述べた絵画なら、女性の衣服の艶やかな表現には息を呑むばかりである。しかし当時の画家たちが制作の際に照準を合わせていたのは、絵画の中の物語を「読む」ことのできる人々であったことを忘れてはならないだろう。

17世紀のオランダの社会情勢は当時としてはかなり特殊なものだった。1608年にハプスブルク家からの事実上の独立を獲得したオランダでは、都市連合の自治国家が形成され、商工業市民階級がその中心となる。血縁関係を重視した王侯貴族とは異なり、彼らの生活基盤となったのは、家族間の愛情による結びつきだった。そしてここにカルヴァン主義の思想が加わり、彼らの家族観や信仰を規定する。カルヴァンは偶像を否定したので、オランダ人の芸術的関心は市民の世俗生活へと向けられ、その結果として風俗画が栄えることとなったのである。

本展の展示作品をいくつか見てみれば、市民の家庭内を描いたものが圧倒的に多いことに気がつくだろう。そこでは女主人と使用人が家事を切り盛りし、もしかすると窓からは暖かい光が差し込み、室内に明るい彩りを与えているかもしれない。あるいはそれとは逆に、ヤン・ステーンが得意としたように、放埒でごった返しとなった家庭が描かれているかもしれない。もちろんこれらの絵画は、当時の人々の暮らしぶりを写実的に捉えたものであるとは限らない。そこでは画家の想像によって物語が作り上げられたり、風刺的な意味が込められたりすることもあっただろう。もっともそれは当時の人々の社会的な風習や常識に対する合意があって、初めて成立するものであったことも間違いない。

実際にフェルメールを含めたオランダ絵画の受容史においては、そのような物語性は常に忘れ去られた存在であった。19世紀のリアリズムの勃興とともに、再び脚光を浴びることとなったフェルメールにしろ、そこで問題となるのは光の描写や均整のとれた構図であり、美術史家のデ・フリースが言うように「フェルメールの視覚は対象からかくも離れているので、われわれは彼の作品を芸術的視点だけから享受し、何があらわされているのかという問いを無視することも許され」たのである。

確かにフェルメールの作品は、そのような「見る」ための絵画としても、十分に鑑賞者を圧倒するだけの力を持っている。例えば、本展の目玉でもある《手紙を書く婦人と召使》を実際に見てみればそのことはすぐに分かるだろう。そこに描かれた人物のリアルな表情や造形、そして何より窓から室内をおぼろげに満たす(レンブラントのような闇と対置された光とは全く違う)自然な光――、それらは同時代の他の作品や、あるいはその後の時代の作品と比較してみても、際立った世界を作り出している。

しかし同時に今日のぼくたちは、専門家の助けを借りる必要があるかもしれないにせよ、そこに物語を読み取ることができるのを知っている。もう少しこの絵画を詳しく見てみよう。 画面の構成はいたってシンプルだ。机を前にして手紙を書く女主人と、その後ろで視線を外へと向けながら、彼女から手紙を受け取るのをじっと待つ召使。しかしよく画面に目を凝らしてみると、投げ捨てられた手紙が床には落ちている。彼女は恐らく急いで、この手紙への返事を今書いているところなのだろう。そしてそれは同時代の絵画にとって典型的な主題であるように、恋人への手紙であるに違いない。後ろの壁にかけられた油彩画は、「モーセの発見」という旧約聖書の一場面を描いたものである。この場面は同時代の人にとっては、人間の心を鎮めるためのメタファーとされたという。それゆえ手紙を書く彼女の姿は静かな自省の時間として解釈され、それを手がかりにぼくたちは手紙の内容を夢想することができるのである。

恐らく当時のオランダと今日の人々とでは、絵画と人間との関係はまったく異なるものだっただろう。普通ぼくたちは絵画を見るためには、美術館に行かなければならない。そこでは企画に沿って集められた何十枚もの絵画が飾られ、ぼくたちは順路にそってそれを一枚一枚追っていくだろう。そこは日常とは別の空間であり、絵画はそこでだけ見ることのできる特別な存在である。結果として一枚の絵とぼくたちの関係は希薄なものになる。しかし当時の人々にとって、絵画とは所有するためのものだった。彼らは気ままに家でくつろぎながら、たった一枚の絵を眺め、そこに表された意味について幾日もかけて夢想することができただろう。そこでは今日のように無数の絵画に接する機会はないにせよ、絵画と人との関係は今日よりも遥かに、日常と繋がった濃密なものであったに違いない。そして画家たちもまた、そのような関係を期待して創作を行っていたのである。

このような事情を考えれば、ぼくたちにとって、当時にはごく当たり前だったように、絵画を「読む」ことは決して簡単なことではないだろう。一枚の絵画に視線を注ぐことの許される時間は必然的に限られているし、当時の人々が共有していた社会的な合意はもはや当然のものではない。しかし当時の画家たちが恐らく鑑賞者として予想していなかったような極東に住む今日のぼくたちが、彼らの作品を見るという特権を与られることを考えれば、多少の労苦を払ったとしてもそれは当然のことと言えるのかもしれない。そしてその時初めて、静止していたはずの画面は、その物語とともに実感をもって動きはじめるのである。

参考文献:展覧会図録、フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展図録(監修: 中村俊春)、太田治子,高橋達史「フェルメール」


text:浅井佑太

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