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「遠きもの」の舞台《没後100年 青木繁展 レビュー》

2011 年 6 月 28 日 3,191 views One Comment

穏やかに波立つ海面と、その上で画面全体を照らすかのように輝く朝日。――28歳の若さで夭折した青木繁、彼の絶筆となった作品は、海を描いた絵画であった。画壇への登場から死ぬまでの僅か9年間という画家生活の中で、彼は幾度となくこの「海」というモチーフを取り上げてきた。青木繁の代名詞ともいえる《海の幸》はもちろんのこと、海の情景は印象派風のものから、ゴッホ風の荒々しい筆致によるものまで、様々な形に変奏されながら彼の作品の中に現れてくる。海という主題はいわば、通奏低音のようにして、彼の画業全体を支配しているのである。

青木繁が画家を志して状況したのは17歳のときだったという。彼は「自伝草稿」の中でその理由をこのように述べている。
「この時に考へて見たのが、哲学であり宗教であり文学であつたが、最後に来つたものは芸術であつた。(中略)ハルトマンの『物の社会は物これを造れり、唯仮象の社会のみ人これを創作し、人類のみこれを楽む』といふ言が、わが稚心に血潮を湧きかへらしめた。これこそ男の事業だ(以下略)」。
ハルトマンの「仮象」という言葉を青木はたびたび引用したというが、まさに空想や伝説的な世界こそ彼がとりわけ好んで取り組んできたものである。

彼が画壇にデビューする切欠となった作品《黄泉比良坂》。この作品は古事記の有名なイザナギ神話を題材にして描かれたものであるが、ここでは神話の記述に基づく描写というよりも、むしろ青木繁の想像によって生と死の境目である黄泉比良坂が描かれている。暗い青を基調として、色鉛筆と水彩で描かれた画面――抽象的であるがゆえにこの絵画をどのように捉えるかは判断が分かれるところだろうが、その幻想的なイメージがどことなく海を思わせるところは興味深い。
「青木氏の空想画ハ草稿だが、白馬会にこんな絵を書かうとする人があるとハ異様に思われる」という展覧会評が示すように、完全な空想から絵画を制作する彼の画風は当時としてはかなり珍しいものだったようである。

西洋的な画法と日本神話という題材の組み合わせは、ややもするとギリシャ神話や宗教的な題材を日本的なものに移し変えただけの西洋画の模倣として捉えられるかもしれない。しかし図録で植野氏が指摘するように、「日本の古代への関心も、19世紀末から20世紀初頭にかけての西洋も、青木にとっては遠きものであった」のであり、「遠きものへの憧憬を表現しようとしたところに青木の絵画世界の浪漫的特色があった」のである。結局生涯にわたって洋行する経験をもたなかった彼にとって、西洋とは神話と同じく、空想やおとぎの国に近いものであったことだろう。彼が描こうとしたのは、まさにその遠き世界、現実からは離れた仮象の世界であったことは念頭に置かねばならない。

1904年に転機が訪れる。東京美術学校を卒業した青木は、友人らとともに、房総半島の布良海岸に制作旅行にでかける。この滞在中に製作されるのが、彼の創作の頂点として知られる《海の幸》である。そしてこの年以降、晩年にいたるまで、彼の作品の中にはたびたび海という主題が取り上げられることになる。彼は「遠きもの」を呼び寄せ、仮象をつくりあげる舞台として、とりわけ海という題材を好んだのである。

それでは何故彼は、それほどまでに海という題材に執着したのだろうか?

そのことを考える上で興味深い一枚の作品がある。それは旧約聖書物語の挿絵として描かれた《光あれ》という油彩画である。作品自体の構図はいたってシンプルなもので、薄暗い画面を基調にして、大海原が、そして地平線の少し上には眩い朝日のような光が煌いている。それは何の予備知識もなく見れば、海上の日の出の姿を描いた絵画のように見える。しかし聖書の記述と照らし合わせれば、少し奇妙なことに気がつく。青木のこの絵画にははっきりと画面の右上に月が描かれているのだが、神が月を創るのは第四日目のことなのである。つまりこれは聖書の正確な描写ではなく、画家の想像によって描かれたものなのだ。そしてそのことを念頭に置けば、青木にとって、「海」と「創造のはじまり」という二つは密接に結びついたものであったに違いない。海とはあらゆる創造の舞台であり、つまり彼にとって海こそが「遠きもの」が集う舞台であったのだ。それゆえ彼の創造は必然的に、海という場面へと向かうことになったのではないだろうか。

彼の最高傑作と名高い《海の幸》――すでに述べたように(また題名が示すように)、この絵もまた、海を舞台とした作品である。当時から未完成ではないかという疑念を持たれてきたほど、この絵は荒けずりな描かれ方をしている。横に長い大きな画面には、砂浜の上をサメを担いだ男たちが歩く姿が映し出されている。そのうちに右端と左端の四人はデッサンのまま放置されたかのようであり、さらには画面にはグリッド状の水平線が残されている。祝祭的な題材と無骨に描かれた男たち。この絵画について説明するとすれば、こんなところだろうか。

この絵画がどのように描かれたのかを考える上で、青木の友人である坂本繁二郎の証言は非常に面白い。彼によるとこの絵画は、青木が実際の海岸で見た情景をうつしとったものではなく、完全な虚構であるというのだ。坂本はこのように証言している。
「あの《海の幸》は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大魚陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずなのです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです」。

恐らく青木にとって、実際の光景がどうであるかなど全く関係のないことであったに違いない。むしろ空想によって、仮象の世界を築き上げることを理念としていた彼にとって、それは現実とは無関係であればあるほど、都合がよかったのではないだろうか。ここでも海という創造の舞台の上に、ただ彼は自らの想像によって、それを結晶させようとしたに過ぎないのだ。彼が房総半島にまで赴いたのは、単に海という情景こそが、「遠きもの」を引き寄せるために最も適した舞台であったからという、それだけの理由であったのではないだろうか。

最後に冒頭でも触れた、彼の絶筆となった絵画に話を戻そう。晩年(とは言え彼が亡くなるのは28歳という若さではあるのだが)、青木は九州各地を放浪し、1910年に肺病の悪化のため入院し、その翌年に亡くなることになる。その最中に描かれた《朝日》という題名のついたこの絵もまた、やはり海の情景を描いた作品である。静かに波打つ大海原、そして地平線の上で、辺りを徐々に明るくする朝日――しかしここでは、もはや海という舞台の上にはなにものも登場することはない。それは死を前にして、全てのものは画面から退いたのか、あるいは日の出という象徴的な情景が示すように、それは何かまた新たなものの始まりであったのか。いずれにせよ彼は、死ぬ間際まで、海という舞台とともに絵を描き続けた画家であった。


参考文献:展覧会図録


text:浅井佑太

「没後100年 青木繁展 ― よみがえる神話と芸術」の展覧会情報はコチラ


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One Comment »

  • HeyBay said:

    本展覧会では、我々はまず最初に、今回の目玉とも言える《わだつみのいろこの宮》の展示を見ることになる。その後順路に従って見ていくと、普通の展示で《わだつみのいろこの宮》があるべきところに、その絵の下絵が展示されており、始めに見た絵の記憶が思い起こされる、という工夫がある。
    個人的には、レビューにも書かれているように、最後に展示されている「朝日(絶筆)」が圧巻だった。

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