Home » 展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西

我々にフォルムはない《カンディンスキーと青騎士 レビュー》

2011 年 5 月 31 日 4,189 views No Comment

「表現主義(Expressionism)」という術語の意味を説明するのは、見かけ以上に難しい。およそ何かを表現しない芸術など、世の中には存在しないだろう。それにもかかわらず、ことさらにカンディンスキーやマルクの作品に対してこの言葉が使われることに、異論を唱える人はほとんどいない。それならば、表現主義とそれ以外の芸術を隔てているものはいったい何なのだろうか? 何をもってぼくたちはカンディンスキーの作品を表現主義的と呼ぶのだろう?

カンディンスキーと芸術上でも深いかかわりのあった作曲家であるシェーンベルクのレッスンには、面白い逸話が残っている。ある生徒がシェーンベルクのもとに、自分の作曲した作品をもって訊ねてくる。譜面上には何やら難しそうな音符がぎっしりと並べられている。彼はシェーンベルクに褒められることを期待して作品を持ち寄ったのだ。シェーンベルクは彼の作品をしばらく眺め、それからようやく重たい口を開く。「あなたの頭の中で、本当にこの音符が鳴っていたのですか?」

このエピソードは、表現主義という術語に対する格好の注釈となっているように思われる。つまり彼らにとっては、自身の精神的な状態と一致していない表現は欺瞞であり、いかに技巧的に優れていたとしても、それは「作り物」に過ぎないのである。シェーンベルクは「芸術はkönenn(何が出来る)ではなくてmüssen(何をしなければならないか)である」と主張した(ドイツ語のKunst(芸術)のそもそもの語源はkönennである)。これと同じことをカンディンスキーは「内的必然性」と呼び、彼の芸術理論の中心概念として位置づける。ここで彼らは「Art」の元々の意義である「技術」を拒絶し、「何か必然的なもの」として創作を行うのである。

そのことを念頭において、一旦カンディンスキーの作品を見てみよう。

《印象Ⅲ(コンサート)》――この作品は彼がシェーンベルクと出会う切欠となった、シェーンベルクの演奏会の印象を描いたものである。この作品を初めて見て、これが演奏会の様子の描写であることを見抜く人はまずいないだろう。それも当然のことで、これは単なる演奏会のスケッチなどではなく、そこに居合わせたカンディンスキーの精神状態の描写という極限まで個人的な表現なのである。解説文を読んでみても、ようやく中央上の黒く塗った部分がグランドピアノであると分かるのがやっとのところだ。それ以外の点でまず目に飛び込んでくるのは、画面の約半分を覆う黄色、それから画面の左で踊る原色に近い様々な色彩――図録の解説によると、彼の音に対する色彩的なイメージの表現だという。(余談ではあるが、とりわけカンディンスキーの場合、こうして絵画を言葉にして説明することの愚かさが浮き彫りになってしまうように思う。このように表現「しなければならなかった」作品を、他の手段で表現することなど土台無理なことなのだろう)。

絵画そのものに対する説明はこのあたりで打ち切るとして、ともかくカンディンスキーの作品がそれまでのどのような絵画とも似通っていないことに疑問を投げかける人はいないだろう。遠近法といった伝統的な概念ではもちろん、近辺の芸術運動、さらには同じ青騎士の他のメンバーの作品と比較しても、そこには超えがたい一線が引かれているように思われる。彼の作品はもはや何らかの対象によりかかることをしない。画面の上に映し出されるのは、ただ画家の内面的なイメージであって、具象という地点からは梯子を外してしまっている。

それでは何故彼は、伝統的な画法を放棄し、そのような越境を行わなければならなかったのか? そしてそこにはどのような「必然性」があったのか?

同じ青騎士のメンバーでもあったフランツ・マルクはあるエッセイの中に次のような示唆的な言葉をのこしている。
「音楽や詩や美術において、フォルムを形成する新たなものを受け入れるドイツ人たちの衝動は、直近の世代においては小さくなってしまったため、人々は最悪のそして完全に擦り切れた古きよき芸術の反復に満足させられていた。(中略)そのような待機期間における芸術は、アクチュアルなものではなかった。つまり国民行為としての芸術は、時代に合わなかったのである」。

当時のドイツでは、芸術における「フォルム」という問題がしばしば論じられてきた。フォルムという概念を総括的に俯瞰することはできないが、ここでマルクは、時代がそれに適合した新たなフォルムを必要としていることを主張する。そしてそのためには、伝統を「反復」することは許されない。何故ならその伝統は、それが生じた時代にのみ当てはまるフォルムであって、伝統となった瞬間に「アクチュアル」なものではなくなってしまうからだ。それゆえ芸術家自身が、伝統によりかからず、そのつど「新たなフォルム」を見出さなければならないのである。恐らくまさにこの点こそが、それぞれに異なる画風をもつ青騎士のメンバーたちを繋ぎとめていたある種のイデオロギーなのだろう。そしてカンディンスキーはこの「新たなフォルム」を見出すために、内的世界へと下りていかなければならなかったのである。

伝統とそれに対する反発というありがちな言葉に、彼らの創作態度を当てはめることはこの場合間違っている。むしろ紋切り型のお礼状の文例などを思い浮かべてみるといい――たとえば「風薫る新緑の中、皆様には健やかなる日々をお過ごしくださいませ」などという言葉の中に、字面通りのいたわりの気持を感じる人はおそらくいないだろう。どれほど慇懃な表現に満ちていようとも、それは文例集に載せられた定型文のひとつに過ぎない。長い歳月を経て繰り返し使われることで、ここでは言葉の持つ力は完全に失われている。カンディンスキーたちが感じていたのは、まさにこれと同じことなのだと思えばいい。それまでの芸術表現のフォルムは、効力を失った定型に等しいものであり何かを表現するには適さないというわけだ。その意味で、彼らにとって伝統は反発するためのものではなく、もはや使うことのできなくなったものなのである。

フランツ・マルクの《虎》と題された大判画――そこには鑑賞者に向かって大きな体を反らせて振り返る虎が描かれている。カンディンスキーとは違い、まだ具象の域にとどまってはいるものの、鋭く直線的に処理された虎のフォルムと、原色でできた結晶の集積のような背景は明らかに現実のものではない。瞳の部分を覆い隠してしまうと、もはやそれが虎であることが分からなくなるほど、この絵画は意外なほどぎりぎりのバランスで描かれている。それにもかかわらず、鑑賞者はこれが虎であることをすぐに察知するだろう。そしてさらには、ここでは実物の虎以上に虎の姿が描かれていることに多くの人が同意してくれると思う。虎の内面に秘められた男性的な力強さは直線的なフォルムへと変換され、クリスタルな背景は感傷的な一切の要素を拒絶している。いわばこの絵画の中には、もはや効力を失った自然主義的な描写を、マルクの作り出す「新たなフォルム」が乗り越えた瞬間がおさめられている。

古きよき伝統も反復されつづけることで、やがては擦り切れ力を失う。世紀末から20世紀初頭にかけて――つまりいわゆる退廃的な時代において――、一部の芸術家たちは、そのことを敏感に察知していたように思う。シェーンベルクの私淑した作曲家でもあるマーラー(彼は卓越した指揮者でもあった)は、革新的な彼を嫌うウィーン宮廷歌劇場の抵抗勢力に対して次のように言い放ったと伝えられている。「伝統とは怠惰のことだ。君たちが伝統だと主張していることは、今までどおりにやって楽をしたいという意味でしかない」と。

伝統が怠惰へと変わり、もはや時代に対してアクチュアルな効力を持たなくなったとき、芸術家たちは、まさに「必然的に」新たなフォルムを求めて、精神的な旅へと出なければならなかった。彼らはフォルムを持ってはいない。それは誰かが与えてくれるものでも、伝統が与えてくれるものでもない。すべてが反復されて擦り切れてしまったいま、それは芸術家自身が、自らの手で一から作り出さなければならないものだったのである。

参考文献:展覧会図録、“Im Fegefeuer des Krieges”, in: Franz Marc, Briefe, Aufzeichungen und Aphorismen、『新ウィーン楽派の人々』ジョーン・アレン・スミス著 山本直広訳


text:浅井佑太

「レンバッハハウス美術館所蔵 カンディンスキーと青騎士」の展覧会情報はコチラ


ページTOPへ戻る▲

コメント投稿欄

以下のタグが使えます:
<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">